第17話 命

一ヶ月前。


外は鳥の鳴き声すらしない、静かな深夜を迎えていた。

家の明かりも少なく、星たちが何光年も前の光を抱いて瞬いていた。下弦の月は、そのシルエットを雲で隠していた。


「……もしもし」


マルはスマホを耳に当てて、恐る恐る呼び掛ける。

吐く息は白かった。

すると、電話の向こうで声が響く。


「ただいま、留守にしております。ご用件のある方は、電子音の後にご用件を…」


マルは落胆した。

今は一秒でも早く、連絡を取りたかった。しかし、留守番電話に言伝するにはあまりにも憚られる内容であったため、大人しく電話を切ることにした。

スマホの、通話終了のボタンに指を近付ける。


その時、電話口から大きな声が響いた。


「なーんちゃって!伊東ちゃんでしたー!」

「は…?」


マルは慌ててスマホを耳に当てた。電話越しに、伊東はけらけらと笑っている。


「ねぇ、騙された?騙された?俺、モノマネ上手くない?」

「…アア、騙されたよ……そんなことより、聞いてくれ」

「そんなことって何さ!」


マルは伊東の扱い方が分からなかった。時にはご機嫌に、そして今は機嫌を損ねたようにギャーギャーと騒いでいる伊東を、どうやって落ち着けたものか悩んだ。そして考えて考えて、つい、口をついて出た。


「今、ヘドロの家にいる」

「…は?」


…今伊東が横にいたら、きっと脳の血管がブチッと千切れる音がしただろうな、とマルは直感した。伊東はそれからブツブツと何か呟いて、つんざくような大声で叫んだ。


「マジ無理!ありえないんだけど!教育終わったんでしょ!にぃにの家にずけずけ上がんないで!」


マルはスマホを耳から離しながら、しまったな、と思っていた。これでは話にならない。そして同時にマルは"教育"という言葉を聞いて、伊東はどこまで知っているのだろう、と思った。

マルがあれこれ考えてるうちに、伊東はさらに続けた。


「今からそっち行くから!てか今静岡なんだけど!正月だから帰省中なの!ほんとありえない!」

「お前…家族が居るのか?」

「勘当されてるよバカ!でも地元愛はあるの!アンタみたいな薄情と違ってね!バーカ!」


そうして電話は一方的に切れた。マルは呆気にとられながら、なるほど伊東は、静岡の"伊東市"のことか、と腑に落ちた。

伊東は憤慨していたようだったが、これで会う手間が省けたな、とマルは思った。スマホの時計を見る。3時間もあれば伊東はここに来るだろう。

マルは部屋に戻って、眠るヘドロを揺すった。




______________________




デジタル時計の時刻は、丁度午前5時を示していた。


驚くことに、伊東はインターホンも無しで、ヘドロの家の扉を開けて入ってきた。マルは、まだ眠そうなヘドロに耳打ちした。


「…何、お前、合い鍵渡してんの?」

「そんな訳ないでしょ…毎回勝手に作ってんの。カードキーなのに」

「うわ、怖ァ…」


そんな会話をしている二人の目の前には伊東が座っていた。穴が開くほどマルを睨みつけている。マルは場都合が悪くなり、目を逸らし続けていた。ヘドロが欠伸をしながら言う。


「何しに来たの」

「そこのバカに呼ばれて来たの」

「マルさん?」

「いや、呼んでねェよ!マァ…呼ぶ予定だったけど…」


口ごもるマルに、伊東は、で!と大きな声で遮って話を進めた。


「何でマルさんがにぃにの家に居るワケ?」

「マルさん、まだ家決まってないから」

「にぃにの家である必要無くない?」

「何お前…面倒くさい…」


ヘドロはため息をついて視線を天井に投げた。そして、あー…と声を出して、それから至極面倒くさそうに、マルの肩を抱いて言った。


「俺たち、付き合ってまーす」

「え」

「はあ?」


伊東がガタリと立ち上がり、身を乗り出してマルの胸ぐらを掴んだ。マルはヘドロの方を見たが、ヘドロは明後日の方向を向いている。マルは、終わった、と思った。


しかし、伊東はしばらく睨んでから、その手を離した。椅子に座り直して、咳払いをひとつしてから話し始める。


「俺の愛はアガペーだから。献身的な、無償の愛なの。だから、にぃにが選んだ人なら…俺…」

「お、オイ…」


そう言ってさめざめ泣き始める伊東に、マルはティッシュを寄越した。ヘドロが、いつものことだから放っておきな、と言うので、それ以上は何も言わなかった。


そしてヘドロはマルに向かって話した。


「何で伊東を呼んだの?」


マルはヘドロの目を見た。

マルはなんと切り出していいか分からず、頭をがしがしと掻いて、それから息を吐いた。少し震えたその息を感じ取ったように、ヘドロは困ったような顔をした。


マルは、静かに呟いた。


「伊東に、全部話す」


ヘドロが大きく目を見開いた。

それから、マルの頬を打って、胸ぐらを掴んだ。


「俺が…」

「……」

「俺が命懸けで守りたかった命を!アンタは無駄にすんのか!」


ヘドロが怒鳴る。マルはゆっくりとヘドロの目を見た。

それから胸ぐらを掴むヘドロの手に、マルは自身の手を置いた。それから優しげに笑って見せた。


「…大丈夫だ」

「大丈夫なもんか!伊東になんか喋ってみろ!アンタも俺もお仕舞いだ!全部ダメになる…!俺は…俺はアンタを守りたいんだよ…!」

「分かってる」


マルは、酷く優しい声で、ヘドロを落ち着かせるように語りかけた。伊東は黙って、二人をじっと見ている。


「お前に救われた命だ。だから今度は、俺が救う番だ」


マルはそう言うと、ヘドロの手を振り解くように立ち上がり、そして床に正座した。

それから、ゆっくり頭を床に擦り付けて、涙を流しながら叫んだ。


「伊東…!力を貸してほしい…!ヘドロを、ヘドロを救ってやってくれ…!」


ヘドロはその様を見て、顔を歪めて泣いた。部屋に、啜り泣く声が二つ響いていた。

伊東は何もかもを察したような顔をして、それでも、深くため息をつくと、ぽつりと呟いた。


「…話しなよ。全部正直に。そうしたら、考える」


マルは、藁にも縋る思いだった。

涙をぼろぼろと零しながら、伊東を見つめた。伊東が手で、ほら話せ、とジェスチャーする。

マルは涙を袖で拭って、ぽつぽつと話し始めた。




______________________




すべて話し終わると、伊東は舌打ちをした。


ヘドロはマルが床に座り続けているのを気遣って、椅子に座るように肩を貸した。

伊東はブツブツと何か呟いて、それからまた舌打ちをして、話し始めた。


「…一度だけ、その家に行ったことがある。白い壁に水色の屋根をしてただろ?俺はそこで夕飯を馳走になった。その時出されたのは"仔兎のソテー"だった。だけど、俺がフランスで食べた仔兎のソテーは、触感も味も丸っきり違ってた。その時は、シェフがメニューを間違えたんだとばっかり思ってたけど、今やっと分かった。あれは、人肉だったんだな…」


伊東は驚くほど冷静に話した。話の理解力が恐ろしく良く、そして殆ど動じなかった。目の動きはほぼ変わらず、震えたり汗をかいたりもしなかった。ただ、ガスに対して苛立ちを覚えていることだけは分かった。


「何もしないまま、にぃにが食われるのなんて最悪」


伊東はそう言って、悪趣味のジジイめ、と吐き捨てた。

伊東はまた何か呟いて、考え事をしている風だった。マルとヘドロは黙って伊東の言葉に耳を傾けた。


「何も出来ない訳じゃない。ただ…問題はその、最後に出てきた黒服たちだな…」


マルはその言葉に唾を飲んだ。

伊東はしばらく考え込んで、それから、悪戯っぽく笑って言った。


「俺、ついこの間、嫌がらせしちゃったんだけど」


まあいいや、と言うと伊東は立ち上がり、玄関口に立って電話をかけ始めた。ぼそぼそと話す声は聞き取れず、マルはその電話の相手が誰なのか気になった。しかし、無理に聞きに行くことはしなかった。ただ、マルは伊東が話し終わるのを待った。


10分ほどして、伊東は戻ってきた。

ふう、と一仕事終えたように息を吐き、それからマルたちにこう言った。


「ラックは生きてる。今からこっちに来るから」

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