第13話 電話

どこへ帰ると言うのだろうか。


マルはあの映像を見て、自分にも、このヘドロという男にも、帰る場所など無いように思えた。

マルはニコを殺害するヘドロを見て恐怖を感じていたが、それと同時に、また別の感情を抱いていた。


同情である。

自分と同じように攫われて、ガスの支配下に置かれているヘドロの過去を知って、マルは憐れみを感じた。理不尽で、不憫で、可哀想だ、そう思った。


ヘドロの顔から、手から、血が滴っている。

畳がそれを吸い込んで、赤く染まっていく。

ゆっくりと、マルへ近付くヘドロの後ろに、血で足跡ができる。

それをマルは僅かに震えながら見つめた。


するとふいに、軽快なメロディーが流れた。

エリーゼのために。

マルのスマホが震えていた。


マルはゆっくりとした動作でスマホを取り出して、ヘドロから視線は外さずに、電話に出た。そして、静かに声を出す。


「……はい」

「久しいね、私だよ」


電話越しに聞こえてきた声はガスだった。

どこか人混みの中にいるような、喧騒が後ろから聞こえていた。それなのに、ガスの声はいやに鮮明に頭に響いた。


「ニコと電話が繋がらなくてね、君にかけたんだ」

「ああ…」

「今何をしている?」


マルは黙った。目の前のヘドロを見る。

ヘドロもまた、黙ってマルを見ていた。それは真っ黒の瞳で、そこから何を考えているかは、伺い知ることは出来なかった。


マルは考えた。何が最善で、何が最適解なのか。そして、静かに深呼吸をして、落ち着いた口調で答えた。


「俺は部屋に戻って、ニコさんは離れで眠ってます」


マルは咄嗟に、ヘドロを庇った。何も知らないような、何も起こっていないような口振りで、そう言った。

しん、とした部屋に、ぽたぽたと血が滴る音がしていた。


途端、ガスの愉快そうな笑い声が聞こえた。まるでマルがジョークでも言ったような、そんな笑い方だった。ガスが息を吐く音がした。それからこう言った。


「嘘が下手だ」


マルの息が詰まる。


ガスになんと返せばいいか分からずに、マルはただ黙ったまま、冷や汗が額を濡らした。そしてガスが続けざまに、当てようか、と言った。


「そこにヘドロが居るだろう。そしてニコは死んでいる。それを君は隠そうとした、違うかい」


マルの心臓が大きく跳ねた。

動揺で、手が震える。

その手から力が抜け、スマホはごとりと床に落ちた。マルが慌ててスマホを拾おうとするが、呼吸は段々と早くなり、恐ろしさで手が思うように伸ばせなかった。


すると、ヘドロがマルの側まで歩いてきて、血塗れの手でスマホを拾い上げた。そして通話をスピーカーに切り替えると、ガスさん、とヘドロは声を出した。


「ヘドロ」

「ガスさん、ごめんなさい。ニコさん死んじゃいました」

「君がやったんだね?」

「そうです」


ヘドロは淡々とガスに話す。ガスは、なるほどね、と言った。マルは俯いて、心臓がうるさいほど脈打つのを必死に抑えようとしていた。


「マァ、いい。想定通りだ」


ガスがそう告げる。

マルは、ばっと顔を上げた。ヘドロと目があって、マルは、どういうことだ、と呟いた。ヘドロはマルを見下ろして黙っている。


「さて…ヘドロ。君は私の愛猫を殺して、代わりに何を差し出せるのかな」

「……」


ヘドロはしばらく沈黙した。そして、マルを見つめながらしっかりした声で答えた。


「時がきたかと」

「ほう…」

「俺のポストにマルさんを。そして、俺を上げてください」


プラチナに。


ヘドロはそう言って、どこかぎこちなく笑った。マルはその意味が分からなかった。しかし、ガスは声を喉につっかえさせるように、クク、と笑う。


「…良いだろう。それまでに、マルを黒に上げる支度を終わらせなさい。それから、この後、例の場所までマルと一緒に来るんだ。わかったね」

「はい、ガスさん」


そう言って、通話はぶつりと切れた。ツーツーと冷たいビジートーンが流れる。マルはやっと詰まった息を吐いて、普通の呼吸を徐々に取り戻した。

そして杖を使ってゆっくりと立ち上がると、ヘドロを見つめた。


「…どういうことか、説明してくれ」

「…全部話すよ」


全部ね、とヘドロが言うと、瞳はいつものように弧を描き、マルを見つめた。マルは、その目が何故か、今にも泣き出しそうに見えた。


「…とりあえず、血を流そう」


マルは誤魔化すように、そう言ってみせた。




______________________




ヘドロはシャワーを浴びた後、マスクを捨て、ニコの離れから一番ラフなシャツとジーパンを選んで着た。ヘドロが、ガスさんが全て片すから、と言って、ニコの屋敷で起こった惨状はそのままに、二人は車に乗り込んだ。


ゆっくりと車が走り出す。

マルはヘドロが話し出すのを待った。何から聞いて良いものか分からなかったからである。そうしていると、ヘドロは禁煙マークの貼られたグローブボックスを指差した。

マルがそこを開けると、見慣れたプラスチックケースが入っていた。DVDだった。そこにはNo.2と書かれていた。


「観せるつもりだったから。観ていいよ」


ヘドロは真っ直ぐに前を見据えながらそう言った。マルは少し躊躇った後、恐る恐る車に備え付けられているプレーヤーにDVDを差し込んだ。飲み込まれるように、ディスクが入っていく。


画面にノイズが走り、それから、すっと姿勢を正して立っているヘドロが映った。

ガスがヘドロの前に座っていて、横にはヒバリが立っている。6、7人ほどの男たちがヘドロの後ろに居て、キャビンの姿もある。カメラの方向に、キャスター、と呼び掛けているところを見れば、今回もキャスターがカメラ役をしているらしかった。

ガスが葉巻を咥えると、ヒバリが火を点ける。ふうと煙を吐き出して、ガスは口を開いた。


「気分はどうかな」

「はい、上々です」

「それは良かった。では、報告してくれるかな」

「はい」


ヘドロがガスに返事をすると、片手を上げて、キャビン、と呼び掛けた。

キャビンは見るからに青ざめていて、ヘドロにもう一度呼び掛けられてから、ゆっくりと一歩前に出た。


「キャビン、現在168センチ、57キロです。約1年半前からキャバレーの支配人を務めていましたが、来店した客数やボトルの数を隠蔽工作し、売り上げの約15%を毎月複数回に分けて海外の口座を経由して、自身の口座に振り込んでいました。スピリットというキャストと交流があり、今回の裏金を横流ししていた可能性が高いです」

「素晴らしい」


ガスは葉巻を置き、拍手をしてにっこりと笑った。ヘドロも笑って頭を下げる。

反対に、キャビンはガタガタと震え始めていた。心なしか、画面も先ほどよりブレが目立った。


「では、処遇を決めよう。ヘドロ、君はどう思う」

「別室で既に手配が済んでいます。しかし、今ここで、下準備はガスさんにお見せした方がいいかと」

「結構、では始めてくれ」


ガスの声と同時に、キャビンは扉へ向かって走り出した。ドアノブを握り開けようとするが、外から鍵がかかっているのか開かない。そうしているうちに、キャビンは周りの男たちに羽交い締めにされ、床へと押し倒された。キャビンが泣いて謝っている。

すると突然、ガタッとカメラが落ちて、キャスターの姿が映る。驚いたことに、キャビンとキャスターの姿は髪色以外、瓜二つであった。どうやら双子の兄弟らしかった。キャスターがしきりにキャビンの名前を叫んでいるが、男に取り押さえられている。


…低い画角で分かりづらいが、男たちがキャビンの四肢に、何か縄のようなものをきつく縛り付けているようだった。キャビンとキャスターの叫び声は止まず、それからヘドロの声がした。


「どこから行きましょう。腕?それとも脚ですか」

「指だ」


ガスが愉しげな声で言い放った。それに、ヘドロは笑うように、はい、と返事をした。そしてヘドロが次に手を上げた時、キャビンの絶叫が響き渡った。


そして、映像はそこでぶつ切りのように暗転し、そして静かになった。静寂の中に、ホワイトノイズが乗った音が数秒続き、真っ暗な画面のまま、ガスの音声だけが流れた。


「ヘドロの背にマリアを、そして喉にエンジェルナンバーを彫ってやりなさい。…この子は必ず人の上に立つ。私には分かるんだ。それから明日、セヴンとジャーニーをブランドに迎える。どちらも孤児で引き取ってきただけだ。だからお前が使えるように、それぞれの扱いを変えなさい。お前は必ず、人の上に立つ…」


そこで、映像は完全に終わりを迎えた。


…マルの頭の中では、キャビンとキャスターの叫び声が響き続けていた。車内は再び静まり返り、エンジンの音だけが大きく聞こえる。

しばらくして、マルは声を出した。


「…キャビンはどうなったんだ」

「端的に言えば、死んだ」

「…キャスターは?」

「俺は知らないけど、きっと死んだ」


ヘドロは上がる口角を手で覆い、ふー、と息を吐いた。どうやらヘドロは、自身が苦痛や恐怖に直面したときに、笑顔になるのが癖付いているようだった。


「その癖、そうやって命令されたからか?」

「こうなるように教育された。マルさんと同じ」

「俺はそういう風な教育なんて受けてない」

「マルさんのは、いわゆる処世術ってやつ。俺の躾を守って、セヴンの暴力を上手くかわして、ジャーニーの性暴力に順応した。そしてラックの臓器売買から逃れた。それが全部、教育」

「なん…」


マルは己の過去を振り返って寒気がした。だが、それだけで済んだ。いつものように吐き気がしたり、ガタガタ震えたりすることはなかった。

それはマルがこの世界に溶け込んだのと同義であった。

ヘドロの言う"教育"は、終わりを迎えようとしていた。


「前に、この世界に染まるななんて、格好いいこと言っちゃったけどさ」

「…うん」

「無理だよね、俺が無理だったんだもん」

「……」

「俺はね、普通にサラリーマンやってたの。普通の家庭で育って、普通の学校通って、普通に就職した。何もかもが当たり前で、好きだったよ。でもある日さ、残業でさ、終電逃してさ……駅のホームでうたた寝したら、全部失くしてた。面白いぐらいに、全部」


ヘドロはまた笑って、それから自分の頬を打った。マルは何も言えないでいた。


「俺もマルさんと同じ。攫われてきて、教育を受けた。だから、同情したんだ。何もしてやれなかったけど、この世界から守りたかったんだよ」

「……」

「マルさん、ごめんね」

「…どうしてお前が謝る」

「ごめん」


マルはヘドロをじっと見た。ヘドロはあの日のような、澄んだ瞳をしていた。何か綺麗な絵画を眺めるような、そんな眼差しをしていた。


「どうしてガスは、このことを想定していたんだ」

「ここ」


そう言って、ヘドロは左手首を見せた。5センチほどのケロイドが見てとれた。ヘドロは続けた。


「ここに、チップが埋まってる。GPSと、脈拍を測ってる。俺はガスさんに言われてニコさんの屋敷に行った。ガスさんはニコさんに、故意にDVDを渡していて、それを見た俺が激高することを理解してた」

「…何故、そんなことをする」

「本当にプラチナに上げたかったのは、ニコさんじゃなくて、俺だったんだろうね」

「待て、話が噛み合わん……何故ニコじゃなく、お前がプラチナに上がるんだ。ニコはプラチナに上がると、生まれ変われると言っていた」

「生まれ変われる、ね…」


ヘドロはまた笑いそうになるのを堪えているようだった。マルは困惑したようにヘドロを見つめた。ヘドロがしばらく黙って、それから言った。


「みんな、プラチナに上がるとどうなるか、曖昧にしか知らないし、そもそもプラチナってラベルが知られてない意味、分かる?」

「わ、分からん…」

「プラチナに上がる。…つまりは死ぬってこと」


だから誰も知らない、と、ヘドロは言った。マルは目を見張った。

ヘドロの、死ぬ、という言葉が頭の中でループする。外は雨が降り始めていた。


「このことを知ってるのは俺…と、マルさんだけ。みんなは黒の上に上がったら、どうにか助かると思ってるから、必死にラベルの色を競い合ってるんだよ」

「どうして、お前だけが知ってるんだ」

「ガスさんはいつも俺に、お前は人の上に立って、人をコントロールしろって言ってた。ブランドの統率を執りたかったんだろうね。それで、俺をブランドの黒ラベルに置いて、常に隣に"死"をちらつかせた。そうしたら、俺が必死になるって思ったみたい。実際、そうなった」

「だけど、お前は…自分からプラチナに…」


マルの声は微かに震えた。それに気付いたように、ヘドロは笑って見せた。本当に、心から笑っているようだった。


「俺がマルさんに出来ることは、これぐらいだから」


ヘドロはそう言って、マルの手を握った。手のひらに汗をかいた、温かな手をしていた。

マルはその手を、握り返せずにいた。


「生きて、マルさん」


ヘドロは静かに呟いた。

その声は車内に響いて、雨音とともに消えていった。

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