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椎名安利
第1話 招かれざる者
枯れ木も山の賑わい。
いかなるつまらないものでも、数のなかに加えれば、ないよりもましだという例え。
マルは居酒屋の狭い店内でも一等端っこに寄り、壁も砕けんばかりの酔いどれ達の大合唱を聞いていた。どうにも自分は枯れ木だと言い聞かせても、あの集合体には混ざれないなと思った。
同僚が言うには、マルが職場の飲み会に顔を出したのは、約3年ぶりらしかった。いつもなら今回の忘年会も、恐らく行かなかっただろうが、上司の栄転祝いも兼ねてのことだったので、嫌でも行かねばならなかった。
マルちびちびビールの泡を舐めながら、盛り上がりを見せる上司や先輩に同僚、後輩達の姿を遠目に見ていた。時々何かの話題に同意を求められた時にだけ、確かにそうだ、間違い無い、といったように肯定して愛想笑いで誤魔化した。その他はまったくやることが無いので、ほっけの開きを閉じたり、枝豆を小皿に出したりしている。
とうとう室温にやられてか、この大合唱の熱気に負けてか、汗もかかなくなったジョッキを傾ける。温いアルコールが喉を通ると、僅かな熱が広がり頬をうすらと染めた。重い前髪の隙間から木々を覗く。丁度、一番が終わって二番に差し掛かった所であった。マルは壁に身体を預けて、歌に合わせて音のない手拍子をしてみせた。
_____________________
「遠藤さん、行かないでください。僕は…僕はまだ遠藤さんのお力添えが必要なんです」
「嫌だなあ町田、まだ1ヶ月も先の話だ。それに、私が居なくなっても、お前さんならやっていけるさ。なにせ私の直属の部下だったんだから。安心するんだな」
「いいえ、いいえ…、遠藤さん、僕は遠藤さんを一番に慕っておりました。まだまだ知りたいことが沢山あります。どうか行かないでください…」
「泣くな町田、男だろう」
居酒屋の会計が済んでも、店に一時間も居座った上、社員たちは遠方へ異動になった遠藤という上司を取り囲んで、居酒屋の前の路上で立ち話をしていた。酔っ払いの泣き上戸に手を焼いている者や、飲み過ぎて電柱の側で眠り始める者など、なるほどここが地獄かと、マルは溜め息混じりに煙草に火を点けた。
「皆さん!そろそろ二次会へ行きましょう、積もる話もあるでしょうから、ね!」
ポン、と後輩に肩を叩かれて、マルは煙を喉につっかえさせて咳き込んだ。ニコニコと笑っている後輩は、どうやら本気で誘っているようだった。…冗談ではない。これ以上こんな混沌に付き合っていられるか。マルは後輩に向かって静かに答えた。
「よしてくれ、俺ァもう十分だ」
「何が十分なモンですか。僕は見てましたよ、あんな部屋の隅っこで、魚を突っついてビールを抱いてた先輩の小さな姿ったら!二次会でドカンと飲み直しましょう!」
「よせったら。もう水も入らん。お前達若いもんで盛り上げておやりよ」
「いいや、いかんです。先輩ったらちっとも飲み会に顔を出さんで、僕なんか皆勤賞ですよ!良いから行きましょう。ほら歩いてください!」
「やめてくれ…オイ、引っ張るんじゃあない」
マルは、タッパがあってやたらガタいの良い後輩にしっかりと腕を掴まれると、酔っぱらっているのか、力任せに引っ張られて体勢を崩した。脚がもつれてぐらりと身体が傾く。
その瞬間。
後ろから強い力で、確かに身体を引き上げられる。咄嗟のことで、マルの脳がぐわんと揺れた。
「アア、こんなところに居た」
「は…」
「探したよー、電話も繋がらないからどこほっつき歩いてるのかと思った」
「……」
後輩がスッとマルを掴んでいた手を引っ込める。
目を真ん丸にして、驚いたような表情をしているので、視線の先へマルは振り返った。
…黒のニット帽に肩まで捲り上げられた黒いTシャツ、これまた黒色のボトムス。勿論、といったように黒いマスクをしていて、表情は目だけしか分からないが、笑っている。上から下まで真っ黒の出で立ちから伸びる腕は隆々としていて、街頭に照らされて白くぼうっと浮かび上がる様は不気味だった。喉元には4の数字が3つ並んでいて、刺青が入っている。それだけでマルは怖じ気づいた。
「先輩、お知り合いですか?」
「いや、知り合いなんかじゃあ…」
「何?俺をハブって飲み会?連れないねェ、誘ってよ」
「え?…ああ」
男はマルの肩に手を回すと、揺すってじゃれて見せた。マルの肩に力が入る。
後輩もすっかり酔いが醒めたように、マルと男を交互に見て、ハハハ、と乾いた笑い声を上げた。
「なんだ、尻があるなら言ってくださいよ」
「いや、まあ…」
「そうだよ、俺と飲みに行く約束だったじゃん。ケツカッチンなの、ごめんね、えーっと…」
「あ、僕はただの後輩です。これから二次会行くんで、この辺で退散します。すみません、お引き留めしました」
「え、お、オイ、ちょっと…」
「うん、ありがとー。またよろしくねー」
後輩はやけに大きな声で、人混みに二次会の場所を告げると、ぞろぞろと後をついて、社員たちは移動を始めた。喧騒がだんだんと遠ざかっていく。
「…アンタ、誰」
「今さっきからの知り合い、でしょ?俺は可哀想な奴を見捨てられなくてさァ」
「……まあ、ありがとさん」
マルは煙草を路上に捨てた。靴で揉み消そうと脚を伸ばす。
すると、
男の腕がぐわっと伸びて、マルの首元のシャツを掴み上げた。
マルの両脚が、軽々と浮く。
「良くないねェ、良くない…」
「グ、ウゥ…」
「捨てるぐらいなら吸わなきゃいいのに…」
襟が首に食い込んで痛い。マルは顔をしかめて呻く。それから男と目が合う。
男の、弧を描く瞳はどこまでも黒く、何を考えているかまったく読み取れない。ギリギリと、首元の手に力が入る。
マルはやっとの思いで、悪かった、と口にした。
途端、男は何かゴミでも捨てるように、マルを無造作に放り投げた。マルはぐしゃりとアスファルトへと倒れ込む。目の前には男のスニーカーと、先ほど捨てた吸い殻が見えた。
「ねえ、それなんとかしなよ」
「ウ…」
「言ってる意味分かる?」
男がマルの目の前にしゃがみ込み、吸い殻を道路で揉み消してから拾い上げる。男は嫌そうに顔を遠ざけて、げぇと吐くようなジェスチャーをして見せた。
それから、マルの顎を掴む。
「はい、口開けてー」
「ガッ…」
「はい、あーん」
男の親指が無理矢理マルの口の端を引き上げる。口から唾液が漏れて男の指を伝った。
マルは混乱していた。数分前のアルコールが脳に回って、そして道に打ち捨てられた衝撃で、正常な思考回路が破綻していた。
ただ確かなのは、男がこちらを見て笑っているということ。
「上手、上手。えらいねー」
男はマルの口に吸い殻を詰め込むと、その口を右手で塞いだ。
マルは胃の奥から何かがせり上がってくる感覚がして、自然とその右手を掴んだ。しかし口を塞ぐ手の力は強く、そして男はなおも笑っている。マルは恐怖で瞳を見開いて、それから吸い殻を飲み込んだ。胃液が逆流して、食道を上る。
「あ、ヤバいかも」
男がパッと手を離して立ち上がると、マルから一歩遠ざかる。
マルは跳ね起きるように上半身を起こすと、そのまま胃の中の物を口から吐き出した。
「オ゛、ェエ…ッ」
「あ、枝豆食べたんだー」
男は吐いているマルを笑いながら見つめ、それからぐっと背伸びをして首を鳴らす。そして再びしゃがみ込んで、環境は大切にしないとね、と言った。
マルは生理的な涙を浮かべて、口の端から唾液を流しながら男を見た。
笑っている。
確かに、笑っているのだ。
「…じゃあ、行こっか」
男はマルの首根っこを掴んで立ち上がらせると、マルのシャツの砂をぱんぱんと払って腕を引く。
マルは直感的に、これはヤバい、と思った。
腕を引く力は強く、しかしマルは、それでも脚を踏ん張って立ち止まった。
男は振り返って、マルを見る。
いや、違う。
マルの後ろに近づいた、何かを見ている。
「遅いじゃん」
男がそう言うと、後ろからぐるりと腕がマルの首に回り、ぎゅっと締め上げるように力が入る。
男はそうしてがら空きになったマルの鳩尾にアッパーを入れた。
もはや空っぽになった胃からは何も出ず、マルの口からは胃酸の混じった唾液が飛び出した。
マルの視界がぼやける。霧がかったように世界がぼんやりとして見える。
マルは身体の力が抜けて、首に回る腕を掴む手はだらんと下へと下がった。
何が起こっている?
マルは男の肩に担ぎ上げられながら、必死に考えた。
男が軽々と、マルを担いで歩く。
上機嫌に鼻歌を歌っている。
マルは、その歌が先ほどまで居酒屋で歌われていた歌と一緒であると気付いた。
男は居たのだ。あの居酒屋に。
「セヴン、車回してある?」
「"ちゃん"」
「セヴンちゃん」
「回してある、早くしろ。面倒になる」
「ウン」
黒いバンのドアが開く。
中からは、ダウナー系のJPOPが流れていた。
「ねえオニーサン、名前は?」
マルは、そこで意識を失くした。
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