第31話 新生 (3)
時刻は夕暮れ、夜はすぐそこまで近付いている。
王の寝所から数部屋跨いだ位置にある書斎では、二人の人物が机を挟んで向かい合っていた。
「それで話というのは?」
彼女は書きかけの書状を隅に寄せて机上で手を組むと、澄ました表情で訊ねた。その声は穏やかだが、どこか急かすような雰囲気がある。
「リトラが目覚めました。ただ─」
一言目で花を咲かせたように明るくなった彼女の表情は、直後に続いた言葉によってたちまち曇ってしまった。
「ただ、何です?」
「目覚めたと言ってもほんの一時のことで、今は眠っております。しかし今回、目に見える形で回復の兆しが表れたのは確かです。以前と比べて発熱の頻度も落ちています。少なくとも危険な状態からは脱したでしょう。これは皆が根気強く看護した結果です」
報告内容とは対象的に、その表情は険しい。
「その様子だと本題は別にあるようですね」
「ええ、最初期の診察から目に異常があるのは明らかでしたが、やはり視力に影響がありました。どうやら近場の物を認識するのにも手間取るようです。あの様子では日常生活に支障を来すのは間違いないと思われます」
重苦しい空気が流れる。この時、ほんの一瞬だけ彼女の表情が輝いたのをグンナルは見逃さなかった。
これは彼女自身すら気付かない、微かな心の揺らぎだった。
「話は分かりました。彼の今後についてはともかく、十分に回復するまでは今の体制のまま看護を続けなさい」
「畏まりました」
「グンナル、貴方は勿論、呼び寄せた医師たちにも格別の感謝をしなければなりません。連日の看護、本当にご苦労様です」
「勿体ないお言葉にございます。皆にもそのようにお伝えしましょう」
「では、下がって宜しい」
話を終えて立ち上がろうとするが、グンナルに動く気配はない。彼女はその様子に怪訝な表情を浮かべ、一度は上げた腰を下ろした。
「まだ何かあるのですか?」
「いつまで続けるおつもりですか、レセディ様」
書斎から音が消え、同時に表情の失せた彼女を前にして、グンナルは表情を強張らせた。
「いつ気が付きましたか?」
想定していた反応とは異なり、彼女は表情を綻ばせ、口元に柔らかな笑みを浮かべている。どうやら隠すつもりは毛頭無いようだった。その様子は平然としていて余裕もあり、この状況を楽しんでいる風ですらある。
一方のグンナルは何とも形容し難い、涙ぐみながら微笑むような表情で天井を見上げた。今そこにいるのは二年前に失われたはずの、彼のよく知っている王女レセディだった。
「残念ながら、己の力で気付いたとは言えません。教えて下さったのは貴方様自身です」
グンナルは彼女に視線を戻すと表情を引き締め、誕生日前日、バルコニーでの出来事を挙げた。
─貴方にそのつもりがなくとも私がそう感じるのです。〈まあ、明日で十八ですから、私に摂政など必要ありませんが〉。ともかく、もう話す事はありません。後のことは私一人で結構、もう下がって宜しい─
「まず十八になると自覚している事が不自然です。貴方様の〈時〉はライラント様が姿を消した時、つまり十六歳から動いていないはずなのですから」
「それは私が正気だったのではないか、という疑惑を示すものに過ぎません。ウルリーカ様ではないという証明にはならないでしょう」
そう言われると素直にこれを認め、次にウルリーカとなった後の言動を挙げた。
「ケルネールスや近衛兵の前で語ったという話、それからアンセルム様の問いに難なく答えたという事、これらはウルリーカ様の日記があれば実現可能です。あの御方は人との繋がり、その記憶を大事にされる方でした。遺品には数十冊に及ぶ日記があったと記憶しています」
傾聴するレセディに、グンナルは続ける。
「貴方様は保管庫からこれを持ち出した。或いはルネに忍び込ませて持ち出させたのでしょう。しかしこれは問題ではない。他の保管物と比較して埃のない事から持ち出されたのは確かなのです。おそらく最近になって戻されたのでしょう。日記はその役目を終えたのです」
ここでグンナルは一息つき、膝の上で手を組んだ。
「貴方様は数十冊に及ぶ日記の全てを記憶した。ウルリーカ様が女王に即位してからの日々を。これなら、知るはずのない記憶の説明も付きます」
「全てですか、それは一大事業になりそうですね」
彼女は冗談めかして言うが、グンナルの表情は真剣だった。
「二年あれば十分だったはずです。しかしそうなると、二年前の時点で計画されていた事になります。それがどのような計画だったのか、何故ウルリーカ様になる必要があったのか、儂にはそれが分からぬのです。お答え願えますか、レセディ様」
答えはなく、書斎は沈黙に包まれた。しかし、意外にも彼女の方がこれを破った。
「二年前、ライラント様に同行していた学者の一人が後に行方不明になったのはご存知ですね?」
意味深な問い掛けにグンナルが重く頷くと、レセディは語り始めた。
辿り着く事の叶わない遥か遠くを見つめるような眼差しで、静かに囁くように、しかし確かな響きを持った声で。
それは王女の告白であると同時に、女王の決意表明であった。
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