第18話 光


「ロベリア!!」


 残るは左脚。しかし間に合わない。


 ロベリアの背後に湧き上がる黒い波は、今や彼女の背中に押し寄せ、その体を飲み込もうとしていた。


 古来、女性の髪には命、霊力、そして神が宿るとされる。しかし、彼女の黒髪に宿ったのはそれとは全く別のもの。


 自身を束縛する伝説。そこから解放されたいという切なる願い。自分を捕らえて離さない現実伝説を憎み、破壊したいという激情。


 混じり合った〈全ての彼女〉、その想いは髪に宿り、それが主を離れ、その禍々しい姿を現そうとしている。彼女の生命を核として。


「何をしているの、早く逃げなさい……」


 今や全身を黒髪に飲まれかけた自分の腕を掴み、懸命に引き抜こうと奮闘するリトラに、ロベリアは諦めたように呟く。


「生きるんだろ!?」


 リトラは更に強く腕を引き、叫んだ。


「もういいのよ。悪意ロベリアに呑まれる。私にはお似合いの最期だわ。さあ、離して頂戴」


「プリムラが待ってるんだ。きっとフェザーだって待ってる。君たちは誰一人欠けちゃ駄目なんだ!」


「やっぱり、貴方って残酷……」


 黒髪は今尚も浸食し、リトラの腕にまで迫ろうとしていた。だが、それでも彼は離さなかった。


 その時、リトラの体が何かに掴まれ、瞬く間にロベリアから引き離されて行く。リトラは何が起きたのか理解出来ず、取り残されたロベリアの姿を見つめていた。


 ありがとう。


 彼女は穏やかに微笑んで、確かにそう言った。そして遂に、群がり寄せる悪意の波に飲まれて消えた。


「おい、無事か!?」


「あんたは酒場の……」


「そう言えば名乗っていなかったな、俺はサルカラだ」


 声の主、サルカラがリトラを掴み上げて馬に乗せる。ケフェウスの見た第三の人影は彼だった。


「俺の出る幕などないと思ってたが、まさかこんなことになるとはな……」


 丘を行く馬の背後で、ロベリアを飲み込んだ黒い悪意が、ごぼごぼと音を鳴らして不気味に沸き立っている。


「サルカラ、このまま湖の向こうまで走らせて欲しい。そこにフェザーとプリムラがいるんだ」


 サルカラは頷き、馬を走らせる。そこへ、フェザーを運んだケフェウスが戻って来た。


「リトラ、待たせたな! なあアンタ、正直助かったぜ! リトラがあのまま飲まれてたら、俺も母様に殺されるとこだった」


「お、おう」


 喋る木菟にサルカラは目を丸くしている。


「ケフェウス、フェザーは?」


「プリムラの横に寝させたら一発だ。パッと光って元通り。あれを見たら、どんな名医も免許を投げるぜ」


「そりゃあ良かった。問題はあれをどうするかだ」


 背後を親指で差してリトラが言った。


「フェザーは戦う気だ。でも……」


「プリムラか?」


「ああ、フェザーと一緒に行くって言って聞かないんだ。そうすると、その、〈花〉にならなきゃダメみたいで……」


 様々な変遷を経て、現在知られる蜂鳥の騎士は、プリムラを胸に挿した姿で描かれる事が多い。


 守るべき花を胸に彼女は悪と戦うのだ。という、見た目に分かりやすい騎士の物語。


 最初の物語からは大きくかけ離れている内容だが、どうもそうなっているらしい。


 現在のプリムラをフェザーが背負って戦うのは現実的ではない。しかし、プリムラが言葉通りの〈花〉になれるのならば、フェザーは本来の蜂鳥の騎士の力を発揮出来るだろう。


 ケフェウスにはそこが気懸かりだった。


「彼女、オマエに続いてフェザーを癒したから、もうふらふらなんだよ。彼女は小さいし、フェザーもダメだって言ってるんだけど……」


「意外に剛情らしいからな、彼女」


「サルカラ!?」


 と言ってる間に、馬が二人の下へ辿り着く。そこに駆け寄ってきたフェザーは、此処に居るはずのない男の姿に驚いている。


「よお、フェザー、お喋り木菟ケフェウスのお陰で状況は分かってる。その蕾の嬢ちゃんは俺が連れて行こう」


「そうして欲しい。あまり時間はない。今すぐにプリムラを連れて此処を離れて。誰かが傍にいれば無茶はしないはずだから」


「ダメだよ!! だって、まだロベリアが!!」


 嫌がるプリムラを抱えたフェザーが馬に乗せる。


 何とか抵抗しようとするものの、その力は弱い。フェザーの危機に本能的に目覚め、無理を押して癒したのだ。いつまた気を失ってもおかしくはない。


 フェザーも彼女の判断が間違っているとは思っていない。あの化け物に勝つとすれば花の加護が必要不可欠だ。何より、彼女の望むようにしてやりたかった。花が、こうしている間にも倒れてしまいそうでなければ。


「さあ、行って。丘を下りて、ずっと遠くへ」


「……分かった」


 サルカラは彼女の意図を汲み、それでも降りようとするプリムラを左腕で抱き抱えると、馬を走らせ平原に向けて走り去った。


「リトラ、ケフェウス、貴方たちも早く逃げて。後は私が何とかするから」


「一人じゃ無理だ」


 その言葉に食い下がろうとするフェザーを制して、リトラが続ける。


「いいかい、フェザー、君は無限に飛べるわけじゃない。もう何度も無茶な飛び方をしてるんだ。それ以上無茶をすれば燃料が切れる」


「それは……」


 フェザーは大量の砂糖水を摂取している。


 本来であれば800㎞の海を中継せずに渡るだけの充分な蓄えがあった。事実、一部の蜂鳥にはそれが可能である。


 だが、それは一定の速度による移動に限った話であって、激しい戦闘となると話は変わる。


 先の龍との戦い。その最中に何度も行った急激な加速、急停止、急上昇によって蓄えた糖分を大幅に減らしていた。


 それでも枯渇するには至らないが、新たに得た翼がそこに拍車を掛けているのは動かしようのない事実である。


 もしもの時、彼女が飛べなくなれば、〈生命〉に関わる重大な危機に陥るのは必至、それだけは避けなければならない。


「でも、貴方達はどうするの? あれと戦えるの?」


「任せとけって、女一人にあんなバケモノを押し付ける訳にはいかねえしな」


 湖の向こうで蠢く〈何か〉を翼で指差して、ケフェウスが言った。


「本来なら、これまでに描かれた〈それぞれの彼女〉に宿っていた感情だ。きっと、一つになった彼女ロベリアには抑え込めなかったんだよ」


「泥を煮詰めたみたいな姿だな。伝説も、あんまり時間が経つと発酵しちまうらしい」


「全てのロベリアが、抱えていたもの……」


 それは地面を這い回る蜥蜴、山椒魚、或いは翼の生えた鰐のようだった。


 大きく不格好な翼は生えているが自重によって飛ぶことなど到底出来そうにもない。丘を覆い尽くす程に膨張を続ける巨躯、それに釣り合わない不揃いの短い脚で赤子のように這い回っている。


 その背には夥しい眼球が浮かんでおり、それらが見せる不規則な瞬きは嫌悪感を催すのに充分だった。溢れる黒髪の表面はざわめき未だ不安定。現に短い手脚は溶けて戻ってを繰り返している。


 ロベリアであった頃の意識はなく、今では何もかもを飲み込もうとする暴食の生物でしかない。その姿を見るフェザーは酷く後悔しているようだった。これまでの過去、全ての伝説を。


「……さあ、リトラ、もう行こうぜ。プリムラとも約束したしな」


「だな。じゃあ、そういうことだから。フェザーは此処で少し待っててくれ。合図を送るから見逃さないでくれよ?」


 まるで軽く散歩にでも出掛けるかのようにケフェウスに掴まると、リトラはそのまま飛び立とうする。


 その時、離れていく彼のコートの裾をフェザーが掴んだ。


「貴方も無茶はしないで、貴方には言わなきゃいけない事が沢山ある。だからっ!」


「大丈夫さ、必ず何とかするよ。終わったら沢山話そう。その時はロベリアも一緒にね」


 リトラはそう言って笑うと、今や醜い怪物となった伝説の成れの果てに向かって飛び立った。


「さあて、ケフェウス。いつでも行けるか?」


「当たり前だろ? 奥の手ってのは最後の最後に使うもんだ」


 二人は上昇を続けながら、翼の生えた蜥蜴を見る。


 それは自分が何者かも分からず過剰に膨張し続ける化け物。元は美しい黒髪であったはずのそれは、今やどろどろと流れ出す汚泥のようだった。


 頭上を飛ぶリトラ達に触手のようなものを伸ばしているが、この高度に達する前に自重によって崩れ落ちている。


「さあ、行くぜ行くぜ!!」


 ケフェウスが無謀にも降下を開始する。


 その姿を見ていたフェザーは驚愕し、思わず飛び出しそうになっていた。降下すれば、そこは当然触手の届く範囲内である。あの触手に捕まれば最後、あの黒い泥の中に飲み込まれて終わる。


 作戦も何もない、ただの突撃。そこに群がる無数の触手。それが二人の体を遂に捕らえようとしたその時、ケフェウスの体が光りを放つ。


「さあ、その眼を開いてしかと見ろ!! これが永久不滅、神話の輝きってヤツだ!!」


 それはまさに、光の爆発だった。


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