第5話 人質
「プリムラ!!」
フェザーが少女の名を叫ぶが、その声が湖の中に届くことはなかった。
「五月蝿いわね……」
ロベリアはその大声に顔を顰めると、踵で水面を打ち鳴らした。すると、牢獄の中の少女が飛び起きる。
フェザーが怒りの形相でロベリアを睨み付けるが、彼女は更に挑発するように嘲うだけだった。
「ほら、ちゃんと生かしているでしょう?」
「声を聞かせて」
「駄目、今日はこれで満足しなさい。さて、貴方もこれで満足した?」
「直接会わせてはくれないんだな」
「今すぐに貴方が入れば、あの娘は出してあげる。入らなければあの娘を殺す。今、ここで。死体でも良いならすぐに会わせてあげるわ」
それは囁くような声だったが、その囁きには脅迫の威力と実行の意志が込められていた。
酷薄な笑みを浮かべるロベリアに、リトラは肩を竦めて溜め息を吐く。彼女にプリムラを出すつもりなど微塵もないことは分かり切っていた。
ただ、生贄を欲していながら生かしているのだから、今のところ殺すつもりはないように思える。生かしているのは人質の他にも利用価値があるからだろうか。
とは言え、ロベリアのような性格ならばやりかねない。当のロベリアをどうにかするにしても、今の彼女は水の彫像であって実体ではないだろう。
彼女の優位が揺らぐことはなく、外からではどうしようもない。幾ら考えた所で選択肢が増えることはない。リトラに出来ることは初めから一つしかないのだ。
「行くしかないな」
リトラは屈み込むと、躊躇うことなく水面に向かって手を伸ばす。今にも指先が触れるかという時、フェザーが咄嗟にその手を掴んだ。
「うわっ!? フェザー? どうしたんだよ?」
「正気!?」
「いやいや、君は最初からこうするつもりだったんだろ?」
「それはっ……」
「責めてるわけじゃないんだ。君は友達を助けたかっただけなんだろ? ずっと迷ってたのも分かってる。それに、君は俺を突き落とそうとしなかったじゃないか。その方が簡単だし、やろうと思えば出来たはずなのに」
事実、彼女にはそうすることが出来た。
寧ろ、事情を知られて抵抗されることを考えればそうするべきだったと言える。ただ、仮に抵抗していたとしてもロベリアによって囚われていただろう。
「突き落としても心が痛まない悪党を連れて来るつもりだったんだろ? でもさ、そんなやり方は君には向いてないんだよ。此処へ来るまでだって悩んでたみたいだし」
「何で……」
何で見ず知らずの今夜出会ったばかりで素性も偽っている女に、ここまで協力してくれるののか。況してや、命を懸けるなどどうかしている。彼にはプリムラがどうなろうと知ったことではないはずだ。
フェザー自身もそう思っていた。いや、何度もそう思おうとした。プリムラを救えるならば、悪人共の命がどうなろうと知ったことではないと。しかし、彼女にはそうすることが出来なかった。
「ねえ、何で?」
フェザーには分からなかった。人間とは欲深い生き物、見返りを求めずに危険に身を投じるなどあり得ない。そのはずだ。
それに何故、彼は私を罵倒しないのだろう。何故、非難の眼差しを向けないのだろう。そうしてくれた方がずっとずっと楽なのに。罪の意識に苛まれるフェザーは、そう思わずにいられなかった。
「ごめんなさい……」
「泣いちゃだめだ、フェザー。あの子はまだ生きてるんだから。あ、そうだ。これを酒場の店主に渡してくれないかな。情報をくれたお礼って事で」
自分の手を掴んだまま泣き崩れるフェザーに、リトラは何かを思い出したように取り出した物を地面に置いた。
そして結局、フェザーの問いに答えないまま、掴まれた手をそっと解いて水面に手を伸ばす。今度は止める間もなく指先が水面に触れ、そして、吸い込まれるようにして消えた。
「あ、あぁ……」
「素直な子で良かったじゃない。英雄にでも憧れていたのかしら? そんなものに憧れるような子には見えなかったけれど……」
唇に指を添えて考えるが、生贄を理解しようとするなど馬鹿馬鹿しいと頭を振り、フェザーへと向き直る。
「今回はあの子に免じて遅れたことは不問にしてあげる。ほら、さっさと行って次の贄を用意して来なさい。あの娘の眼をくり貫かれたくなかったらね」
泣き崩れるフェザーに、冷酷な笑みを浮かべたロベリアが無慈悲に告げる。
フェザーは力なく睨み付けるが、ロベリアは薄ら笑いを浮かべたまま水面へと溶けて消えた。
「私は何てことを……あの子が嫌うことをしてまで、私は……」
こうなることは分かっていた。覚悟もしていた。そのはずなのに、他人を犠牲にしてしまったことを彼女は酷く後悔した。
自分を慕ってくれる少女も、この行いを知れば軽蔑するだろう。罪を犯して救ったところで喜んでくれるはずもない。
向けられた信頼と自身の誇りを裏切ってまで何を得ようと言うのか。たとえ負けると分かっていても戦いを挑むべきではなかったのか。
ロベリアの甘言に惑わされ、生きることを望んでしまった。生贄が揃えば奴は自由になる。そうなればプリムラを、次に自分を殺すだろう。それも分かっていたはずなのに、ありもしない希望に縋ってしまった。
彼女はふと気が付いた。きっと自分は、プリムラと共に生きることを望むあまり、ロベリアと戦うことを怖れてたのだと。
「これでは〈蜂鳥の騎士〉の名が泣くな……? これは、リトラの」
フェザーは自嘲して、水面に触れる直前に彼が置いていった物を手に取ると立ち上がった。
せめて、自分の目を覚ましてくれた恩人の頼みくらいは聞き届けたい。何より、戦いに備えて大量に食べておかなければならない。
フェザーは馬を繋いでいた杭を外して跨がると、悪党集う地下酒場を目指して馬を走らせた。
その様子を、梟だけが見ていた。
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