〈ち〉


 結局、親にはリタが説明したのだけど、一体どう言いくるめたのかは聞いていない。

 変な印象を持たれなかったらそれでいいけど、なんて言ったら納得するもんなんだろう。全く思いつかないや。

 小学校から万年皆勤賞のあたしが、自主的に休むという何とも言い難い手続きを終えた後、いつもよりも時間があるので少し遅めに起きて、ランニングへと出かける。

 ランニングシューズでアスファルトの上をトットッと走りながら、上着のポケットに手を入れて、折りたたまれ分厚くなった紙に触れる。

 ――あの後、神下が縮小版の簡易結界の造り方を教えてくれた。

 というのもこれ、開いて展開すると立体の正方形になってて、その内側に結界術が施されているらしく、神下と会話できるらしい。

 それだけ聞くと、古風なのか現代的なのかよく分からない携帯電話みたいで少し面白い。

 それに加えて、霊力の出力次第では守護結界を張れるらしく、お守りとしての役割もあるのが携帯電話と比べて優れている点と言えそうではある。

 これでグループ通話とか出来たら楽なのにね。

 なんて考えていたら、丁度目の前で赤信号に変わったので横断歩道の前で止まる。

 車通りの多い道なので、目の前を車がビュンビュンと横切ってゆき、冷たい風に流された髪の毛が頬を撫でた。

 ここの信号は赤から青に変わるまでの時間が異様に長い。

 ちょっとした暇を持て余しながら、あたしはポケットから結界術が書かれた紙、略して結界紙を取り出して組み立てる。

「神下ー、暇だー」

「……」

 あれ、寝てるのかな? いや、寝るとかいう概念あるのかな。

 次の瞬間、紙の内部が灯籠みたいに薄く灯った。その色はやっぱり綺麗な薄紫色だった。

「リコちゃん? これ暇電みたいに使うものじゃないんだよ?」

「暇電……違うよ?」

「じゃあ、何なのさ」

 なんか、いや、いいじゃん自由に使ったって! ……どうせ暇なんでしょ!

「その……車とかが急に向かってくるかもしれない。――そう! 横断歩道を渡る時にとち狂った車が突っ込んでくるかもしれないから守ってほしいなって」

「そんなこと起こるかな? ……なんて言いたいけど、可能性が無いって言いきれないのも事実。だけど、リタちゃんと比べたらこっちの方が比較的安全じゃないかなっていう気持ちが無くもないよ」

「リタなんて家でずっと魔法陣書いてるだけじゃん」

「それは言い換えれば、〝四方を囲まれた空間に一人、周りが見えないぐらいに没頭した状態でいる〟とも言えるからね」

「……はいはい。そうだったね」

 物は言いようだと思う、みたいな愚痴。

 良い気持ちがしないけれど、それでもこの会話が功を奏した結果というか、気付いたら信号が青へと変わっていた。

 ランニングへと戻ろうか、と歩きから早歩きへ、ジョグからランニングへとギアを変えながら白線の上を駆けていく。


 ――ガッ……ドガシャアアンン。


 横断歩道を渡り切り、頭が完全に走ることへと切り替わった瞬間に、背後から鼓膜をつんざく大きな音がした。

 横断歩道を渡ることを優先して、畳んで仕舞う前に鷲掴みしていた紙の立方体から、濃い紫色の稲妻が鞭のように伸びていた。

「はっ……うへぇ」

 振り返れば、信号機の柱が車の顔面にめり込んでおり、辺りにはガラスやら粉々になったヘッドライトやらが辺りに散乱していた。

「……リコちゃん」

「ん、なに?」

「前言撤回させてもらってもいいかな」

「勝手にどうぞ」

 ちょっとだけスッキリした気分で軽くなる足取りを、気づかれる前に結界紙を折り畳んでポケットにしまい、あたしはまた走り出す。


 ――――――………………


 学校を追い出されてから五日が経った。

 その時は突然やってきたのだった。

 暗くなる前に日課のランニングを済ませて帰ってくると、リタが深刻な顔をして机の上に立てられた結界紙を見つめていた。

「どうしたの」

「さっき神下さんが『動きがあったから行ってくる』って言って、すぐ行っちゃったの」

「じゃあ、今学校に結界が張られていると」

「多分、そうだと思う」

 あたしも当事者ではあるけれど、その現場は遠くにあって、今はただ神下からの良い報告を〝待っていることしか出来ない〟という状況が、現実味から遠ざけている気がした。

 だけど、どこかで緊張している感覚もある。

 少し目を離した瞬間に、少し目を離した瞬間にすぐ真っ暗闇になるこの季節の窓の外へと目をやると、明るく照らされたリビングとの境界線が見えた気がする。

 その境界に神下が置かれた状況を重ねて見ている。

 今、神下がいるのはあの闇みたいな外なのか、あたし達がいるような明るい内側か。

「まだ経験したことないけど、受験の結果発表ってこんな気分なのかな」

「はぁ……お姉ちゃんらしい感想だね」

「いや、さっき入ってきたときに見たお前が『合格発表から帰ってくる息子を待つ母親』みたいだったからさ」

「――もう、お姉ちゃんはなんでそんな能天気でいられるの?」

 能天気ね。反論したっていいけれど、別に今は喧嘩がしたいわけじゃない。

 緊張と不安に駆られてイライラしている人間を見ると、何故かストンと落ち着くあの状態になっているから、諌めるのはあたしの役目なんだろう。

「神下が言っていた事を思い出すんだ。あいつは自分自身の中にある自信と信頼を胸に戦っている。神下はあたし達を信頼している。だから、心配しなくていい。だから、大丈夫だ。すぐに帰ってくる」

「……でも心配なのは消えない」

「今はそれでもいいんじゃないか。その思いを本人に吐かなきゃどんだけ心配してもいい」

「……うん」

 やっぱりお姉ちゃんには敵わない――そんな事を思っている顔をしている。

 あたしは姉なので分かる。

 何でもできる奴が焦り、特に考えていない奴がたまたま冷静だっただけなのに。

 ……まぁ、ラッキーってことにしておこうかな。


 それから、神下との連絡が無いまま二時間ほどが経過した。

 とっくに完全下校時間を過ぎているはずだが、今もまだひと悶着している最中なのだろうか。

 自室でスマホを眺めていたけど、流石に気になって一階へと降りてくると、ちょうどのタイミングで結界紙が薄紫色に灯った。


「神下さん!」「神下!」


「……ごめん! 全然だめだった! あとは託した!」

 開口一番に言われたその言葉に、あたしは安心した。たとえ計画通りにならなくたって〝敗けなければ〟それでいい。

「何がどうなったか聞いても?」

「結界を張られたのに気づいてリタちゃんにあいさつした後、すぐに結界内へと入った。結界の範囲は、〝特別棟の三階全体〟だった」

「え、丸々全部ですか?」

 訝しげな表情で驚いているリタ。一体何が驚きポイントなんだろう。

「リコちゃんの為にも補足して言うと、結界というのは大きくなればなるほど作るのが難しく、強度にもムラができるから侵入される可能性が高くなる。だから、そんなに広範囲に結界を張る意味は何なのかということだね」

「そうなんだ」

 なるほど、分かりやすい説明だこと。

「俺みたいな結界内しか行き来できない存在にとってみたら、こんなに有難い事は無い。……そのはずだったんだけど、まぁ、そんな単純な話じゃなかったということでね」

「というと?」


「結界内には一人しかいなかった。それは、勿論、骸井君ではない」

「白井有栖ですか」

「そう。その結界内には白井有栖しかいなかった。そして、彼女は俺がいる事を知覚できるのか話しかけてきたんだ」


『――そこにいるお兄さん? ここは立ち入り禁止ですよ?』

「……」

『私の結界内に入ったのに、体が無いからバレないとは思ってないですよね』

「お前に用事は無い」

『そんな冷たくしなくてもいいのに……どうせ九ちゃんに用事があるんでしょう?』

「……」

『ふふ、心配しなくて九ちゃんはそこの教室にいますよ』

「ご丁寧にどうも、では――ん?」

『あら、どうなさいましたか?』

「……クソ」


「結界内に結界が二重に張られていた……という事ですか?」

「そういう事だ」

「いや、でも、『結界の内部に二重で結界を張ること』は物理的に不可能なのでは?」

「〝一人が〟展開して維持できるのは一つだけ、という点では不可能だろう」

「協力者がいたということですか」

「……協力者というか、召喚した手下か操っている下僕だろうな」

「え、それズルくない?」

 その言い方だと、実質、無限に結界を張り続けられるマトリョーシカみたいなものでは?

「まぁ、結界を張る事自体、容易にできることじゃないし、部屋数や規模的に考えてもコスパが悪すぎて誰も真似しないから安心していい」


「というか、神下なら直接その骸井がいる結界に入ったらいいんじゃないのか?」


 〝体が無い〟ということの一番の利点を生かさない手はないだろうに。

 あ、体が無いなら手は無いか。じゃあ、合ってるのか。

 ――嘘、合ってない。

「そうできるのなら、喜んでそうしたさ。だけど、それは失敗に終わった。何故なら、その内側にある結界に脆い箇所は一つもなく、外部からの接触が全くと言っていいほどにできない――鍵穴の無い箱みたいなものだったから」

「それで、泣く泣く帰ってきたと?」

「いや、骸井君がどこにいるのかを分かっている状態なのに、助けられるチャンスを逃したくなかったから、可能な限り粘ろうと思って、しょうがなく白井有栖の張った結界内に潜んで待機してた」

「それは……絶対に神下さんしかできない選択肢ですね」

「とても居心地が悪かったけどね。なんか見えてないはずなのにじっと見てくるし、たまに『長いわね?』とか、『私達保護者みたいね』とか言ってきて、本当に不気味な奴だった……」

「それは、色んな意味で不気味というか何というか……」

「まぁ、とにかく俺は失敗に終わったから、後はお前たちにバトンタッチだ」

 ……と言っても、サポートは相変わらずさせてもらうけど――と付け加えたが、その声は少し元気が無いように聞こえた。

「神下、後はあたし達がおまえの分まで頑張る! 安心して任せるといい!」

「以下同文です! 神下さんほど強くはないですけど、やれることは全力でやりますので!」

「……成長したなぁ」

「なんじゃその親戚おっちゃんみたいな感想は!」

 ……少し間を置いて、ふふふ、あはは、と顔を見合わせて笑う。

 この束の間の安息が、嵐の前の静けさでなければいいと心から思うのだった。

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