第一部 05


 昭和四十三年 五


 初めての夜のお店での仕事が始まりました。いえいえ、働くのが初めてなので、初めての仕事が始まったと言うべきですね。緊張していたけれど、開店したと言ってもしばらく暇でした。私はサキちゃんとカウンターの中でずっとおしゃべりしてました。他の女の子たちも目の前のボックスでおしゃべりしています。そのうちに会社勤めを終えたヨウコさんが出勤してきて更衣室に消えます。その姿を見送っていたら入り口の方から声がしました。

「三名様ご案内お願いします」

多分、紘一さんの声。目の前の女の子が一斉に立ち上がります。そして、

「いらっしゃいませ」

と、全員で出迎えます。その中から二人が入り口の方に向かい、お客さんを案内します。そして右奥のボックス席へ。

「おしぼり三つ出して」

サキちゃんは私にそう言いながらお通しの用意。私がカウンターにおしぼり三つを出すと案内して行った女の子の一人が戻って来て、

「ビール二本」

と言っておしぼりを持って行きました。ビールを二本出して栓を抜きます。そしてカウンターの上のお盆に載せました。すると目の前に座っていた女性の一人がそれを取りに来ます。でも、

「グラス三つ」

と言われてしまいました。慌てて後ろの棚からグラスを取りました。すると、

「ちがう、それじゃない」

と、また言われてしまいました。お通しを作り終えたサキちゃんがそれをお盆に置いて、私が手にしたのより小さなグラスを取ります。それもお盆に置くと、その女性が運んで行ってくれました。

「ごめん、言ってなかったかも。ビールの時はこの小さいグラスね」

サキちゃんがそう言います。

「分かった」

ビールを運んで行った女性が戻ってくると、

「グラスあと二つ。それと、遠藤さんのボトルで水割りの用意しといて」

と言います。サキちゃんは聞いた瞬間に反応して、同じグラスを渡しました。私は何をしたらいいのか分からず動けません。するとサキちゃんは流しの下からざるを取り出し、それを流しに置きます。そして流しの横の冷凍庫から氷の塊を取り出すと、ざるの上で千枚通しのような物で氷を割り始めました。

「しー、マリちゃん、そこのペール取って」

サキちゃんがボトルの並ぶ棚の方を見ながらそう言います。でも私には何のことか分かりません。

「ペール?」

「アイスペール、そこのガラスのやつ」

サキちゃんがそう言いながら見ているあたりにあった、金属製の持ち手の付いたガラス製の小さなバケツのような容器に手を伸ばしました。

「そう、それ」

私はそれを一つ取ってサキちゃんの傍に置きました。サキちゃんはそこに小さく割った氷を入れていきます。

「トングも頂戴」

サキちゃんがまたそう言います。

「トング?」

また聞いちゃいました。

「氷挟むやつ。ペールのどれかに入ってるから」

そう言われてペールが並んでいるところに戻りました。ありました、金属製の大きな毛抜きみたいなのが。それをサキちゃんに渡すと、サキちゃんは氷を入れたペールにそれを刺して、ペールをカウンターに置きます。そして、

「このボトルのどれかに、遠藤、って書いた札が掛かってるから探して」

と、一番数の多いスコッチの瓶を指して言うと、自分も探し始めます。そして探し始めると、

「四名様お願いします」

と、また入り口から声が掛かりました。ボックスにいた女の子の二人がすぐに入り口に向かいます。サキちゃんは、

「マリちゃんは探してて」

と言っておしぼりを用意。そしてお通しの用意を始めます。お客さんが来始めるとやっぱり忙しいです。

 サキちゃんがお通しを用意し終わった頃、私はやっとボトルを見つけました。それをペールの横に置きます。するとサキちゃんがカウンターの袖のイスのない部分にお盆を置いて、その上にボトル、ペール、そして水割り用のグラス三つを置きました。

「あ、マリちゃん、マドラーもペールに刺しといて」

サキちゃんがそう言います。でも首を傾げた私が口を開く前に、トングと一緒に入っていた金属製の細い棒を一本取ります。そしてそれを私に見せて、

「これがマドラー、水割り混ぜるやつね」

と言いながらペールに刺しました。これはさっき水割りの作り方を教えてもらった時に聞いていたけど咄嗟に思い出せませんでした。

「ビール二本とグラス四つ」

カウンターの向こうからそう声が掛かりました。サキちゃんが屈んでビールを出すようだったので、私はグラス四つを用意しました。

「あれ、重田さんですよね。水割りの用意ももうしときます?」

サキちゃんがビールを持って行こうとする女性にそう聞きました。

「そうだね、お願い」

サキちゃんはまた氷割りに掛かります、私に同じところから、重田、の札を探すように言って。

 二組お客さんが入った後はしばらく続きませんでした。その二組も水割りを飲み始めると落ち着いた感じになります。どちらも話は弾んでいるようだけど。

 カオリさんがカウンターの中に入って来ました。そして流しの近くにいた私の横に来てタバコに火をつけます。

「こういうとこは初めて?」

カオリさんが話し掛けてきます。

「はい」

「そう、よく見て、うちはスナックだからあれが基本なの」

カオリさんがそう言って、お客さんの座るボックスの方を指します。なのでそっちを見ますが何のことか分かりません。

「どいうことか分かる?」

横からそう聞かれました。

「いえ、すみません」

「手前のボックス、ルミとヨウコさんがついてるけど、テーブル挟んでイスに座ってるでしょ?」

そう言われて見ると、さっき私が座った四角いイスに女の子二人が座って、お客さんと向き合って話しています。

「はい」

「スナックはね、あんな感じで対面で接客しないといけないの」

「そうなんですか」

「クラブやキャバレーと違って飲食店って扱いだからね、お客さんの隣に座るのはダメなの」

「分かりました」

そういう違いがあるんだって思いながら返事しました。

「でもね、隣に座らせたがるお客さんもいるから困るのよ」

「……」

「まあ、隣に座れと言われても、とりあえず断っていいから、そっちに座ると私が怒られます、とか言って」

「はい」

「でも、断って機嫌が悪くなりそうなら座るしかないわよ」

「はい」

「様子見て、適当なところで元のイスに戻ればいいから」

「はあ」

そう返すとカオリさんはタバコを消しました。そして離れながらこう言います。

「まあ、腕を取って無理矢理座らせて、そのまま腕を組んで離してくれないようなのもいるから。そう言うのに当たった時は諦めて」

カオリさんはそのまま元のボックスに戻りました。何を諦めるんだろ、と思っていたらサキちゃんが寄ってきました。

「そういう人が触ってくるの」

そしてそう言います。そう言うことか。

 七時半近くに、遅くなりました、と、もう一人のサヨさんが出勤してきました。そのサヨさんが準備を終えて出て来た頃に、また二組のお客さんが来ました。そして八時になる頃、一気に忙しくなりました。まず、ママさんとサユリさんがお客さん三人を連れて店に来ました。それに続くように、後藤さんが言っていた小倉商店さんが十二人で店に来ました。三人と十二人で十五人分の水割りの用意を同時に。紘一さんがカウンターの中に入り、サキちゃんと並んで氷を割ります。私はグラスをカウンターに並べて氷を入れていく。ボトルも探さないといけない、そう思っていたらママさんがやって来て、どこにあるのか分かっているかのような無造作な動きで二組分のボトルをカウンターに出します。

「え~っと、ああ、マリちゃん、小倉さんのボトル多分なくなっちゃうから、これと同じの一本出しといて」

ママさんからそう言われました。返事をして倉庫に取りに行きます。戻ってくるとママさんとサキちゃんがすごい勢いで水割りを作っています。そして小倉さんのお酒はもうなくなりそう。なので取ってきたボトルを渡そうとしました。

「こら、新しいボトルは一度拭いてからでしょ」

ママさんから注意されました。

 ママさん、サキちゃん、紘一さんの三人で、作り終えた水割りなどを運んでいきます。私は氷のかけらなどで濡れたカウンターを拭いたりしていました。するとそこに一人の男性が近付いてきます。どう見ても新しいお客さんのようです。

「いらっしゃいませ」

そう挨拶すると私の目の前のカウンターのイスに座ります。

「とりあえずビール」

そしてその人はそう言いました。

「はい、ありがとうございます」

おしぼりを渡しながらそう返してビールの用意。グラスを渡してお酌をしながら考えます、次は何をするんだっけ? そうだ、お通し出さなきゃ。そう思っていたら、

「あんた新人か?」

そう聞かれました。

「あ、はい、今日からです」

「名前は?」

「マリです。よろしくお願いします」

そう返しながらお通しの用意。

「学生か?」

「いえ」

「なに、昼間だけじゃ食えんのか」

「えっ?」

「昼の給料だけじゃ食えんから夜も働いてるんだろ?」

う~、どうしよう、なんて答えたらいいの? 

「こんなに景気いいのにそんなに給料悪いとこなんか」

もう、サキちゃん早く戻ってよ。お通しをお客さんの前に置きながらホールを窺いました。サキちゃんはお客さんの一人と楽しそうに立ち話しています。しょうがない、一人で考えて話さないと。ほとんど空になったお客さんのグラスにまたビールを注ぎなら、返す言葉を探していました。そこに女性が一人、カウンターの中へ入ってきました。

「ロックグラス四つ頂戴」

そしてその人が私にそう言います。その人は入ってくるなり屈んで、カウンターの下の扉を開けます。そしてプリッツとポッキーを二箱ずつ取り出します。それをカウンターの一段下の作業台に置くと慌ただしく開けて行きます。開けて行きながらカウンターのお客さんに気付くと、

「ああ、蔦谷さん、こんばんは。お久しぶりですね」

手は止めずにそう挨拶します。

「忙しそうだな、ミエ」

「ええ、ちょっと団体さんに付いてるんで」

ミエさんはそう言いながら、私の出したグラスに開けたプリッツなんかを立てていきます。私も開けるのをお手伝い。蔦谷と言うお客さんはホールの方を見ていました。

「団体って小倉商店のバカ息子か」

「ちょっと、声が大きいですよ」

ミエさんが慌ててそう言います。でも、お店の中はもう十分過ぎるくらい騒がしいので、大きな声じゃないと聞こえないかも。

「いいよ聞こえても、バカにバカって言ってるだけだから」

「もう、やめてください」

ミエさんはそう言うとグラスを載せたお盆を持ちます。そして、

「ごめん、これ伝票に書いといて」

と言ってホールに戻って行きました。

 作業台に並んだ伝票から小倉商店さんのを見つけて書こうとしました。でも、なんて書いたらいいか分からない。お菓子四つ? 結局、プリッツ×2、ポッキー×2、と書きました。そして気付きます、目の前の蔦谷って人の伝票も書かなきゃ。字が分からなかったので平仮名で、つたたに、と書きました。

「えーっと、あんた、マリだったか?」

「あ、はい」

「もう一本」

返事して顔を上げると、空になったビール瓶を振って見せながらそう言われました。ひょっとしたら手酌させちゃったかも。慌てて次のビールを出して栓を抜きました。

「すみません、気付かなくて」

そしてまたお注ぎします。するとカウンターに置いたビール瓶を蔦谷さんが手に取り私に向けます。

「ほら、マリも」

そしてそう言います。

「すみません、私お酒弱いんです」

サキちゃんに教えられた断り文句を言いました。

「はあ? 寂しいこと言うなよ。ビールくらい付き合え」

でもそう言われてしまいます。もう、サキちゃんほんとに早く戻って来てよ、と思いながらもしょうがないので、私もビールグラスを手に取りました。

「すみません、頂きます」

注がれながらそう言いました。

「よし、乾杯」

注ぎ終わると蔦谷さんがそう言うので乾杯しました。そして口を付けました。人生初ビール。サキちゃんが言う通り、人間の飲み物の味ではありませんでした。普通の一口の三分の一、いえ、五分の一くらいの一口飲んだだけでもう十分。私の人生に金輪際ビールは必要ないと思いました。蔦谷さんの手元を見るとグラスが空になっている。一息でこんなのを飲み干したの? 信じられない。そう思いながらまた注ぎました。

「ほら、俺にも注がせて」

蔦谷さんが私の手からビール瓶を取るとそう言います。私のグラスの水面はほんの数ミリ下がっただけ。注いでもらうにはもっと飲まなきゃ。でも、飲み干せなんて言われたら一週間はもらわないと無理だ。

 ヨウコさんが空になったアイスペールを持ってカウンターに来ました。

「こんばんは、蔦谷さん」

蔦谷さんにそう挨拶してから私に、

「ごめん、氷お願い」

そう言ってペールを差し出してきます。

「はい」

喜んでそう答えました。これでビール飲まずに済む。受け取って流しに。冷凍庫から氷の塊を出します。

「おう、ヨウコ、お前ちょっとここで付き合えよ」

「なんで、目の前に若い子いるじゃないですか」

「このマリって子、飲まないからさ」

「ああ、今日からの子なんだから無理に飲ませたらだめですよ。多分ほとんど飲んだことないですから」

「俺はざるみたいに飲む子が好きなんだよ」

「じゃあ私もダメじゃないですか」

「何言ってんだ、お前は野球のボールも掬えないくらいのざるじゃないか」

「ひっどい、あっ、ちょっと待って!」

蔦谷さんと話していたヨウコさんが、私に向かって大きな声を出しました。その時私は、千枚通しにしては重たいそれの柄を持って、氷に向かってそれを振り下ろそうとしていたところでした。ヨウコさんの言葉で、と言うよりは声に驚いて手を止めました。

「あんた、えっと、マリちゃんだっけ、氷割ったことない?」

「あ、はい」

そう答えると、ヨウコさんは回り込んでカウンターの中に入ってきました。

「そんなとこ持ってやったら怪我するわよ。ピックはもっと先の方握って、先端を少しだけ出すの」

そして私の手を取ってそう言いながら握り方を教えてくれます。

「で、左手を氷に添えて、右手でトントンって叩くように割るの」

「はい」

言われた通りにしようとしました。

「自分の手、突いたらダメよ」

その瞬間にもそう言ってくれます。

「はい」

そう答えて氷を叩きました。いいぐらいの大きさの氷のかけらが出来ました。良かった、教えてもらってなかったらこのピックって奴で自分の左手を刺していたかも。同じ要領で氷を割っていき、アイスペールに入れていきました。ヨウコさんはずっと傍で見てくれていました。

 氷を入れたアイスペールを持って離れて行くヨウコさんと入れ替わるようにサキちゃんが戻ってきました。何だか安心。

「あ~、蔦谷さん、お久しぶりですねぇ」

サキちゃんはカウンターの中に入るなり蔦谷さんにそう言います。

「おお、いいとこに来た、グラス持って来い」

「やった~、頂きま~す」

サキちゃんはいそいそとグラスを持って蔦谷さんの前へ。

「やっと飲む相手が来てくれた」

蔦谷さんも笑顔でサキちゃんに注ぎます。やっぱりお酒飲めないとダメなのかな、と思いました。サキちゃんは嬉しそうにビールを一息で飲み干します。信じられない。

「う~、おいしい。今日はカウンターなんでまだ一口も飲んでなかったんですよ」

そう言うサキちゃんに蔦谷さんがまた注ぎます。その注ぎ終わった瓶をサキちゃんが取って注ぎ返します。すると蔦谷さんが注がれながら私にこう言います。

「おい、そこの飲めない女、ビールもう一本」

飲めない女……、まあ確かに私のことだ。そう思いながら次のビールを出しました。

「そんないじめないでくださいよ、マリちゃんは今日初めてなんですから」

「初日でも飲めな過ぎだろ、ミナだったか? あいつは初日だとか言いながらガンガン飲んでたぞ」

「あの子は別です」

「そう言えばミナは? 今日休みか」

「ああ、ミナちゃん辞めました、ちょっと前に」

「ああ? 入ったばかりだろ、あいつ」

「ですねぇ、半年くらいかな?」

「なんだあ、残念だなあ、面白い奴だったのに」

「蔦谷さんが来ないからですよ」

「しょうがないだろ、今月は休みなんだから」

「先生もずっと夏休みなんですか?」

「ずっとってわけじゃないけど、まあ、休みは休みだからな」

この人どっかの学校の先生なんだ、とか思いながら二人の話を聞いていました、ビールに少しずつ口を付けながら。私は少しずつ舐めてただけだけど、二人はアッと言う間にビールをもう一本空けて水割りになりました。

 その後お客さんはボックスの方で入れ替わっていきましたが、団体の小倉さんと一人の蔦谷さんはずっといました。私はカウンターでボックスからの注文に応えていくのが主な仕事でした。お水、氷の追加や、チャーム(お菓子)の配達など。そしてサキちゃんと蔦谷さんの会話は弾んでいます。私は時々振られる質問に答えているだけ。ビールはグラス一杯飲み干しました。飲みたかったわけではありません。クーラーの効いたお店の中、喉が渇くのです。喉を湿らす程度に口をつけていたらなくなりました。そして水割りもグラスの三分の一くらいはやっと減ったかな。蔦谷さんが勧めるものでついつい手が出ちゃいそうになるのはエビせんべいだけでした。

 蔦谷さんがトイレに席を立ちました。するとサキちゃんが体を寄せてきます。

「大丈夫? 無理して飲まなくていいよ」

そしてそう言ってくれます。

「うん、大丈夫」

そう、お酒はまだ大丈夫、多分。でも、足は限界かも。すんごく重たくてだるいです。座り込んでしまいたいくらい。サキちゃんがまた小声で口を開きます。

「蔦谷さん、店ではいいお客なんだけど、店の外では要注意だから」

「えっ?」

「閉店してから何か食べに行こうとかって言われても行かない方がいいから」

「どうして?」

閉店後にそんなことがあるんだ、と思いながら聞き返しました。

「酔い潰されてホテル直行だから」

「ええ?」

「毎回ってわけじゃないみたいだけど、そういう目にあった人は何人かいるから」

「ええ? でも、どっかの先生なんだよね。そう言うことするの? 先生が」

「そういう人こそ危ないのが多いのよ」

「そうなんだ」

「まあそのうち分かるわよ」

蔦谷さんがトイレから出てきました。あてにならない私の目では四十歳くらいに見えます。と言うことは家族もいるでしょう。そんな人が、って目で見てしまいそうになります。

「おい、飲めない女」

蔦谷さんがイスに座りながら千円札を出しました。

「はい」

「下でホットドック買って来てくれ、お前らの分も」

「ええ?」

どうしようかと思ったらサキちゃんが割り込みます。

「だからそれ、ダメって前に言ったじゃないですか」

「なんでだよ、時々食ってる客いるじゃないか」

「それは、うちの店から下に注文して、うちからお客さんに出してるんですよ」

「だったら一緒じゃないか」

「違います。蔦谷さんのお金で買いに行ったら持ち込みになっちゃいますから。うちは持ち込み禁止です」

「うん? 意味が分からん」

「だから、うちが買って来てお出しするんで、下で買うより高くなるんですよ」

「そう言うことか、いくら高くなるんだ?」

「さあ? 倍はしないと思いますけど」

「倍? ボリ過ぎだろ」

「いや、倍まではしないと思いますよ。でもいくらになるのかまでは知らないです。聞いてきましょうか?」

「いやもういい。でも腹減った、店終わったら付き合え、なんか食いに行こう」

これか、と思いながら聞きました。サキちゃんどうするだろ、と思っていたら、蔦谷さんがすぐにこう言います。

「いや、今日はいいわ、無理だな」

私とサキちゃんは顔を見合わせました。すると蔦谷さんはこう続けます。

「あのバカ社長帰るまで終われないだろ? そこまで付き合ってられん」

「その言い方はやめてください。でも、そうですね、いつも遅くなりますから」

サキちゃんがそう返します。

 そのあと三十分くらいで蔦谷さんは帰って行きました。なんだか少しホッとしました。こっちは静かになってホッとしましたが、店の奥はまだ盛況でした。特に団体の所が騒がしいです。他のボックスは二か所が今は空いているので、手の空いたお店の女の子もそっちについています。全員で何かのゲームをやっているみたいで、勝った、負けた、飲め、なんてセリフが何度も聞こえてきます。

 カウンターが片付いたのでトイレに行きました。トイレに向かいながら団体の盛り上がりを窺います。お店の女性、多分ミエさんが負けたようで、飲め、と言われてみんなから手拍子されています。そしてミエさんは目一杯入った水割りのグラスに口をつけ、ゴクゴクと飲み干していきます。すごい、でも、私もあれをやらされることになるの? 出来るかな、不安になりました。と、トイレに向かう最後、一番奥に座っていた小倉社長を見ると、ミエさんの方は見ておらず隣に座るカオリさんばかり見ています。そして、社長の右手がカオリさんの胸元に入っている。う~ん、見なかったことにしよう。て言うか、ボーイさんがああいうことは止めるんじゃなかったっけ? 更衣室の扉の前からホールを振り返ると、紘一さんも酒井さんも笑顔でミエさんの飲みっぷりを見ていました。

 トイレから戻ってしばらくすると、また一人のお客さんがカウンターに来ました。

「こんばんは、桜井さん、いらっしゃいませ」

サキちゃんがそう挨拶します。

「こんばんは」

そう言ってカウンターのイスに座る桜井さんは三十歳くらいの人。スーツの上着まで着ているけど涼しい顔をしています。

「今までお仕事ですか?」

サキちゃんがおしぼりを渡しながらそう聞きます。

「うん、ちょっと遅くなったね」

「じゃあ、とりあえずビールですか?」

「う~ん」

そう言って腕時計に目をやる桜井さん。

「まだ十一時前だから下に何か頼めるかな」

そしてそう言います。

「多分ギリギリ大丈夫ですね」

サキちゃんがそう答えます。

「じゃあ、ピザ頼んでくれる? で、ビール」

「分かりました」

そう言うとサキちゃんが私の方を向きます。

「えっと、マリちゃん、下行ってミックスピザ頼んできて、パープルにって言ったら持って来てくれるから」

「下?」

そう聞き返しました。

「新しい子?」

するとサキちゃんの返事の前に桜井さんがそう言います。

「ああそうです。マリちゃんって言って今日からです。マリちゃん、こちらは桜井さん」

サキちゃんが紹介してくれました。

「マリです。よろしくお願いします」

私も自分でご挨拶。

「よろしく」

桜井さんがそう返してくれた後、サキちゃんがこう言います。

「下にカリフォルニアってお店があるから、パープルですって言って頼んで来て、急いでって付け足して」

「分かった」

そう言ってカウンターを出ようとしたら、

「二人は? お腹空いてない?」

と桜井さんが言います。

「ええ? いいんですか?」

と、サキちゃん。

「いいよ、僕も一人で食べるの申し訳ないから」

「じゃあマリちゃん、大きい方って言って頼んで来て」

桜井さんのセリフの後サキちゃんがそう言います。私はそれに頷いてお店を出ました。

 カリフォルニアはお酒がメインの洋食屋さんって感じのお店でした。お店の中は名前の通りアメリカ風って言うのかな、おしゃれな感じです。注文をしてから階段を上がる前に通りを見ました。思わず立ち止まって眺めてしまいました。いくつあるのか数えきれないほどのお店の看板が色とりどりに輝いて、通りの両側を彩っています。昼間とは全く違う風景でした。とってもキレイです。そして、もう十一時前だと言うのに通りにはたくさんの人がいます。これも昼間とは違う景色、元気が溢れ出しているようです。

 お店に戻ると桜井さんがいませんでした。

「桜井さんは?」

「トイレ行ってる」

サキちゃんがそう返してきます。

「下から取ると高くなるってさっき言ってなかった?」

蔦谷さんとの話を思い出してそう聞きました。

「ああ、桜井さんは大丈夫」

「そうなんだ」

「うん、いつものことだから」

「お金持ち?」

「お金持ちって言うか、会社のお金で飲む人だから」

「……?」

「うちは会社に請求して会社からもらうってこと」

「社長さんなの?」

「ううん、南の大通りのとこに、角紅、って大きな会社あるでしょ? そこの人なの」

角紅と聞いてちょっと驚きました。文通相手のあの人と同じ会社だったから。名古屋にもあるんだ、そう思いました。

「商社の人なんだ」

思わずそう言ってました。

「うん、もともとはうちの会社のクラブの方のお客さんみたい。でも一人の時はここに来てくれるようになったの」

「そうなんだ」

「それより、角紅が商社だってよく知ってたね。私、知らなかったのに、会社名すら」

「ああ、たまたま知ってただけ」

文通相手のことは話しませんでした。

 どう言うわけか、小倉社長に捕まって立ち話をしている桜井さん。

「小倉商店さんと知り合いなの?」

それを見てサキちゃんにそう聞いてました。

「ううん、小倉社長が角紅との仕事につながらないかなって、桜井さんの顔見るといつもああなのよ」

「そんなんだ」

結構経ってから桜井さんは解放されて戻ってきました。そして笑顔でこう言います。

「小倉社長の所はいつも元気があっていいね」

「元気あり過ぎて困るくらいですよ」

サキちゃんがそう言うと、

「こらこら、お客さんにそんなこと言ったらダメだろ」

と、明るく笑って言います。そんなことを言ってるうちにピザが届きました。私もまたビールを頂いて乾杯。そして三人で食べ始めました。

 正直に言います、今まで私が食べてきたピザは、ピザ風の何かでした。そう思えるくらい別物で、とてもおいしかったです。そしておいしいピザを食べながらだと、まだ喉や舌に抵抗はあるもののビールが飲めちゃいます。なんだか不思議な感じ、気持ちまで軽くなるみたい。酔っぱらってるとは当然思いません。だって、酔っぱらったことなんてないから分からないんだもん。

 ビールは二本で終わって水割りになりました。あっ、私が二本飲んだわけではないですよ、私は二杯だけ。その後、サキちゃんが薄い水割りを作ってくれたけど、もう飲むな、と小声で言いながら手渡してくれます。なのでそれをチビチビ飲みながら二人の話を聞いていました。時々話を振られたような気もしたけど、二人が何を話しているのか分からなかったのでずっと笑ってました。だって、話を聞いてるだけでおかしかったんだもん、何の話か分からなかったけど。

 桜井さんは多分一時間くらいで帰りました。気付くとマネージャーがカウンターの奥に出て来ていました。それを見て後藤さんがカウンター越しにマネージャーにこう言います。

「灯り落とします」

マネージャーが頷きました。後藤さんはそれを見て入り口の方に行きます。でもしばらくしても店の明かりは消えません。紘一さんと酒井さんがまだ店内にいるお客さんの所に行って声を掛けているだけ。

「明かり落とすって何?」

サキちゃんに聞きました。

「外の看板の電気消すってこと」

「なんで?」

「閉店時間だから」

そう、もう十二時を少し過ぎていました。声を掛けられたお客さんたちは順番に帰って行きます。ママさんはカウンターの端で清算が忙しそう。そしてさらに少しすると、小倉商店さんの方から大きな掛け声とともに、パパパン、パパパン、パパパン、パン、と手拍子が響いてきます。その音に驚いていると、

「うそ、今日はこれで終わりなんだ」

と、目の前にいたユキさんが言います。開店してからちょっと暗くなっていたお店の中の照明がまた明るくなりました。そして目の前を小倉商店の方々が帰って行きます。

「ありがとうございました」

と、お店の女の子が口々に言いながら送り出します。

「マリちゃん、奥行って空いたグラスとかおしぼりとか回収してきて」

カウンター奥の流しで、先に帰ったお客さんたちのグラスとかを洗っているサキちゃんがそう言ってきました。

「分かった」

そう言って向かおうとしたけど、一歩目の足が出ませんでした。出したつもりの足が出ていなくてコケそうに。慌てて踏ん張ったらヒールが滑って思いっきり、クキッってなってまたコケそうに。

「大丈夫?」

サキちゃんの声が後ろから聞こえます。

「大丈夫」

そう答えて向かったけれど、右足を完全に挫いた様で痛かったです。右足を庇いながら小倉商店さんたちがいたボックスまで来ると、カオリさん、チエさん、ルミさん、の三人がソファーに座り込んだまま天井を見上げていたり、俯いて首を垂れたりしています。

「大丈夫ですか?」

一番近くでうなだれていたルミさんにそう声を掛けました。するとルミさんではなくチエさんがこう聞いてきます。

「小倉さんのとこって、今日何本ボトル入った?」

「え~っと、確か五本です」

「五本……。キツイ」

すると今度はカオリさんが天井を見上げたまま口を開きます。

「今日は全然ましよ。桜井さんがいいタイミングで水を差してくれて助かった」

「ほんと、この時間で帰ってくれるなんて信じられない」

「うん、でもお風呂は朝だね、気持ち悪いけどもう寝たい」

「なんか胸の辺り変だよ」

「だって、ブラのホック外されたからぶら下がってるだけだもん」

「最悪」

おしぼりや灰皿を集めながら二人の話を聞いていたら、俯いたままルミさんがこう言います。

「ほんとにブラの中まで手を入れてくるんですね」

するとチエさんがこう言います。

「あれ? あんた社長の横座った?」

「いえ、井上さんって方が」

「ああ、あのじじいも大抵だから」

するとカオリさんがこう言います。

「スカートの中に手、入れられなかった?」

「えっ?」

「井上さんはね、胸より下の方が多いの」

「うそ」

「まあ、さすがに下着の上から触ってくるだけだけど、触り方が無茶苦茶気持ち悪いから」

そんな三人の話を聞きながら、少し離れたところにあった灰皿に、屈んだまま手を伸ばしました。尻もちをつきました。だって、床が後ろに傾いたから。屈んだ姿勢に戻ろうとしたら今度は床が右に傾きます。どうなってんの? と思ったら床が揺れています、壁も動いてるみたい。

「大丈夫?」

チエさんが私の顔を覗き込むようにしてそう言います。大丈夫です、と、返事をしようとしたら急に気分が悪くなりました。吐きそう、手を口に持って行きます。

「トイレまで我慢して」

そう声がして、脇から抱え上げられるように立たされました。そしてそのまま更衣室の方に歩かされます。この声はマサコさんだったかな? すみませんって言わなきゃ。そう思っているうちに便器の前でした。もう後は便器を抱えて吐くだけでした。


 どうやら私は便器に突っ伏して寝ていたようです。サキちゃんに揺り起こされて気付きました。

「マリちゃん、そろそろ起きて、みんな帰れないから」

なんとか上半身を起こしました。するとおしぼりが顔に押し当てられました。

「酷い顔」

そう言いながらサキちゃんが顔を拭いてくれます。

「ごめんなさい」

「いいから、とりあえず帰ろ」

そう言われて立ち上がりました。口の中が気持ち悪い。

「うがいしたい」

そう言って洗面台の方に踏み出すけど歩けません。サキちゃんが支えてくれました。口をすすいで水を飲みました。少し気分は良くなった気がしたけど、足は動きませんでした。体重が三倍くらいになったみたい。その場に座り込みました。そしてあとは分かりません。




 サキちゃんに起こされました、明るい光の中で。部屋に戻っていました。そして、素っ裸でした、布団の上で。

「早くなんか着て、朝ごはんだよ」

サキちゃんがそう言います。まだ覚めきらない頭のまま上半身を起こしました。そしてなぜだか重い頭のまま、何で裸なんだろ、と考え始めてすぐ、背骨が氷になったような震えと共に、恐怖を感じたような感覚に襲われました。

「な、なみちゃん」

小声でサキちゃんを呼んで手招きしました。サキちゃんが傍に寄って来てしゃがんでくれます。

「なに?」

「えっと、その……、私、されたの?」

ハッキリと、された、感覚が体にありました。それは味わったことのない気持ち悪さと怖さでした。誰にどんな風にされたのか全く覚えがないのに、されたと言うことだけはわっきり分かる。

「やっぱりわかる?」

「うん」

「あんた完全に潰れてたから、気付いてないなら言わないつもりだったけど」

「やっぱりそうなんだ」

「やめてあげてって一応言ったんだけどね」

「誰にされたの?」

「えっ?」

サキちゃんが少し身を引きました。

「……教えて」

「後藤さんと酒井さん」

私は三日目か四日目だった、とサキちゃんは言っていたのに、二晩目でされてしまった。しかも私が寝ちゃってる間に。それだけでも十分ショックなのに二人だなんて。

「後藤さんがおぶってここまで運んでくれたんだよ」

「……」

私は衝撃を受けすぎて何も言えませんでした。いえ、聞こえてなかったかも。

「ほら、朝ごはん、食べよ」

サキちゃんがそう言いながら立ち上がります。

「うん、ありがと」

そう返すのがやっとでした。昨日のことを思い出そうとするけどよく分からない。だって、頭がすごく重いから。頭の中の血がいつもの十倍くらい濃くなって、うまく流れてくれていない感じ。そして、空腹感も思考の邪魔をし始めました。気分が悪くなってきたのは昨夜の所為なのか、空腹感の所為なのか、って感じです。

 空腹感に負けてのそのそと起きました。そして服を着ました。ジーパンを履くときに思います、いい加減この子も洗ってあげなきゃと。そして、もっと楽な服を買おう。

 洗面所で顔を洗ってから居間の座卓へ行きました。みんなはもう食べ終わっていました。

「沢山飲んじゃったの?」

横でタバコをふかしながらテレビを見ているサユリさんがそう聞いてきます。

「えっ……」

よく覚えていませんでした。するとサキちゃんがこう言います。

「ビール三杯と、水割りも三杯、四杯かな?」

「お酒飲んだことなかったんだよねぇ、そんなに飲まなくても良かったのに」

「私も止めたんですけど、最後の水割り二杯の時はもう酔っぱらってて、勝手に飲んじゃったんですよ」

そうだったんだ、酔っぱらってたんだ、私。お酒怖い。

「逃げたくなった?」

サユリさんがまた聞いてきます。

「……」

でも意味が分からずサユリさんの方を見ただけでした。するとこう言います。

「酔いつぶれた女に手を出す奴がいるようなところ、安心して暮らせないでしょ」

これにも返事出来ませんでした。うん、と言ってしまったら、また無職の宿無しになってしまう。だからそうは絶対に言えません。でもサユリさんの言うことも当たっています。こんなところでこれから眠れない、そうも思いました。黙っていたらサユリさんが続けます。

「まあ、ルミなんて昨日はどれだけやられたか分かんないけどね」

「……}

どういうことですか? って顔をしたらサユリさんがこう言います。

「あの子も店を出るときは潰れて寝ちゃってたのよ。で、あの子、かわいい上にあそこの具合がいいらしいから人気者なのよね」

具合がいい?

「あっちはボーイが六人もいるから、昨日は六人全員からされたんじゃない? 寝てる間に」

あっちとか、六人とか、また意味が分かりませんでした。

「どう? 異常なとこでしょ?」

サユリさんがそう言って私の顔を見ます。また反応出来ずにいました。すると自分の部屋に行っていたユキさんが寄って来て話に混ざります。

「その異常なところに四年以上もいるサユリさんはどうなんですか?」

「四年?」

サユリさんが口を開く前にそう言ってました。ユキさんに何か言い返そうとしたサユリさんが私を見ます。

「そ、わたし十七になる前からいるの、ここに」

そしてそう言いました。

「そうなんですか」

「あっ、好きでここに来たんじゃないわよ、辿り着いたのがここだったの」

「……」

黙って続きを待ちました。


 タバコの煙を吐き出してからコーヒーを口にして話し始めてくれます。

「私ね、中学出てから友達何人かと集団で就職したのよ、岐阜の工場に」

そしてまたタバコを吸います。

「でもね、工場での仕事って私に向いてなかったのよ。遅い、そこじゃない、違う、って毎日怒られてた。だから頑張ったんだけどね、怒られんように、迷惑掛けんように。でもだめ、どうしてもみんなと同じように出来んかった。だからいつも私の所為でうちの班の機械だけ止まるの。でね、そのうち私の所為で班の全員が怒られるようになった。最初はみんな私の手助けしてくれたりいろいろ教えてくれたりしたんだけど、それでも私が機械止めて怒られ続けるもんだから、気付いたらもう何も言われなくなってた。そしてその頃から班のみんなからはばにされるようになった、宿舎の部屋でも」

工場での仕事って言うのがどんなものなのか知らないので聞いているだけでした。

「で、一年と少し経った頃、私がしょっちゅう機械止める所為で機械が壊れたの。まあ、監督さんどころか社長さんにまで怒られた。で、社長さんにこう言われたの、お前らは罰として半年間給料半分だって」

サユリさんはそこでまたタバコをふかします。そして煙を吐き出してこう言いました。

「その日からどうなったか分かる?」

「いえ」

そう言うしかありませんでした。一緒に聞いていたサキちゃん、ユキさんは聞いたことがある話なのでしょう、反応しません。

「はばからいじめになったのよ」

「……」

「仕事が終わるとね、班の受け持ち場所の掃除を全員でしてから宿舎に戻るんだけど、その掃除を一人でやれって言われた。しょうがないから一人でやったわよ。ちょうど工場が忙しい時で、朝は一時間早出、夜も毎日二時間残業が通常になってる時だったの。だから一人で掃除して宿舎に戻ったら九時半過ぎてた。もうくたくたで、お腹もペコペコで、部屋に戻る前に食堂に行ったわ。そしたらね、私の分が残ってないの。厨房の片付けで残ってた同じくらいの年の子に聞いたわ、そしたら残ってるのはなかったって。だから全員食事が終わったと思って片付けたんだって。誰かが私の分も食べたのよ」

ひどい、と思いながら聞いていたら、サユリさんはもう一口タバコを吸って消します。そして続けてくれます。

「外に出れば開いてるお店があるのは知ってたけど、未成年の女の子は夜の外出禁止って言われてたから諦めた。諦めて部屋に戻ったらみんないないの。そこで気付いたの、うちの部屋の入浴時間はもう十数分しか残ってないって。慌てて風呂場に行ったわ。そして上がってくるみんなと入れ替わるように入って、身体流すのが精一杯だった。次の部屋の人たちに怒られないように急いで出て部屋に戻った。そして戸口近くに黙って座ってた。もう何か月も前から私とは誰もしゃべってくれなかったから、部屋での私の定位置はそこだったの。いつもそこで本を読んでた。ずいぶん読んだわよ、いろんな本を。休みの日に古本屋さんで何冊か買って来て、次の休みにそれを売ってまた買うの。それしかやることがなかったから。みんなはテレビ見て楽しそうだったけどね」

サユリさんは美人です。昨日会ったお店の女性の中では一番くらい。カオリさんも美人だったけど、カオリさんは庶民的な美人って感じ。でもサユリさんは身分の高そうな美人って感じかな。そんなサユリさんがこんな経験してたなんて。今ここにいるのも似合わないと思えるのに、もっと想像できない感じでした。そのサユリさんの話は続きます。

「そして消灯時間。部屋の中片付けて布団を敷くんだけど、私の布団を敷かせてくれないの。戸口の襖前にいつも通り布団を運んで置いたら、そのままその上に座ってろって言われた。みんなの給料を半分にした罰。給料が元に戻るまで正座して寝ろって。皮肉よね、その時久しぶりに五人全員から声を掛けられた。もうずっと私に何か言ってくるのは班長やってる人だけだったから。ただ、罵りの声だったけど。実家に仕送りしてるのにどうしてくれるんだって物を投げつけてくる子もいた。まあ、私が悪いんだから黙って座ってたけどね。でもね、知らないうちに横になってたのよ。だから朝になってまた怒られた。怒られて、全員の布団を上げとくように言われたの。急いで布団を片付けて、その後畳の掃き掃除もいつもやってるから、そこまでやって食堂に走ったの。でも間に合わなかった。一時間早出だったから朝食の時間がすごく短かったのよ。だから朝食も抜き。お昼は食べれたけどね。でもそんなの、いくら自分が悪いと思っても三日が限界だった。四日目の土曜日、その日もお昼で終わりじゃなくて三時まで仕事だった。でも六時までは外に出ても何も言われないから、仕事が終わったらみんな出掛けたの。だから私も出掛けた、私物を全部持って、退職願いって書いた便箋一枚部屋に置いて」

 サユリさんはそこでサキちゃんにコーヒーのお代わりを頼みました。サキちゃんはインスタントコーヒーの瓶とポットを持って来て作り始めます。私はその間にトーストを口に入れました。ユキさんは、お風呂使うね、と言って離れました。サキちゃんからコーヒーを受け取ったサユリさんは、一口それを飲むとまたタバコに火をつけます。私はトーストを食べながらサユリさんを見ていました、話の続きを聞きたくて。するとサユリさんが私の視線にこう言います。

「なに?」

「いえ、すごい話だなって思って」

「そう? そんなに珍しくもないと思うけど」

「そんなことないですよ」

「ううん、そんなことあるよ、似たような子、うちにも何人かいるし」

「そうなんですか?」

「うん、マサコさんもそうだし、確かヨシエさんもそうよ。愛、にも何人かそんな子いるみたいだし」

ヨシエさんって人は多分昨日いなかった。

「みんな中学や高校出て、地方から働きに来た子。でも私と一緒で馴染めずに逃げ出した子ね」

そういう人がいるんだ。

「でもね、逃げ出しても家には帰れない子は、こういうところに流れ着くしかないのよ。冷静に考えたら工場で怒られたりしてる方がはるかにましかもしれないんだけど、逃げ出した以上工場にも戻れないし。それに、その時はもうただ寝るところと食べ物が欲しいだけだから、他はどうでもいいって気になっちゃてるのよ」

最後の部分は私にも分かりました。私自身がほんの二日前、そういう気持ちだったから。

「皆さん工場だったんですか?」

なぜだかそう聞いてました。

「そうよ、岐阜とか一宮の紡績関係の工場。みんなあのあたりよ。あっ、去年かな? 愛、に来た子、私と同じところから逃げた子だったわよ」

岐阜、一宮の工場、どこかで聞いたような気がする。そう思いながら、今度はこう聞いてました。

「サユリさんはどこから来たんですか?」

「下関、分かる? 山口よ」

「はい、遠いですね」

「そうね。でも、もう一生帰ることはないだろうから近くでも一緒よ」

「えっ? 帰らないんですか?」

「帰れないでしょ、もう。親だってこんな娘に会いたくないだろうし」

「こんな?」

「そっ、ここでのことも大抵だけど、私、逃げ出してからここに落ち着くまで二か月くらいうろうろしてたのよ。その間何してたかなんて誰にも言えない。ここに拾ってくれた人にも詳しくは話したことない。生きるために話せないようなことしてたから。だから、私自身が親に合わせる顔なんてもうないのよ」

これは想像すらできませんでした。そして話せないようなことが何なのか、これは詮索すべきことですらないことだと思いました。なのでこう聞いてました。

「でも、ご両親はやっぱり心配してるんじゃないですか?」

「さあ、どうだろ。四年以上私は行方不明なわけだから、もう忘れてるんじゃない?」

「連絡してないんですか?」

「出来るわけないじゃない、こんな生活してるのに」

「そうですか」

「それに、マリも他人事じゃないよ」

「えっ?」

「多少後ろめたくても今ならまだ親の前に立てるでしょ? 勇気出して親に頭下げたら? どんな事情があったか知らないけど、ここでの生活が続くとほんとに戻れなくなるよ」

戻りたくても、って聞こえました。

「でも私、親がもう死んじゃってますから」

そう言ってました。サユリさんが驚いた顔で私を見たあとタバコを消します。

「ごめん、知らなかった」

「いえ」

そう返しながら、サキちゃんは私のことを誰にも話していないんだと気付きました。

 サユリさんが寝ると言って部屋に戻った後、ユキさんと入れ替わりでお風呂に入りました。やっとスッキリした気分、でいたら、サキちゃんがこう言ってきます。

「マリ、あんた今日掃除になったから、十一時までに店に行かないといけないよ」

「えっ?」

あと二十分くらいしかありませんでした。もっと早く言ってよ。と言っても、部屋着なんか持っていないのでお風呂上りもジーパンにポロシャツ姿でした。なのですぐに出れます。

「サキちゃんは?」

「私は違う」

「そうなんだ。ずっとここにいる?」

「なんで? なんかある?」

「部屋着とか買いたいからお店教えて欲しいなって思って」

「分かった。終わったらすぐに帰って来て、お昼食べないで待ってるから」

「うん、ありがと」

そしてポシェットを持って玄関に向かうとサキちゃんがこう言います。

「昨日迷惑掛けてるんだから会う人みんなに謝っときなさいよ」

「分かった」

そう言って玄関を出ました。


 お店の扉は開いていました。中に入ろうとしたら部屋にいなかった紘一さんが出てきます。空瓶の入ったビールケースを抱えていました。

「おはようございます」

私から挨拶しました。

「おはよ、大丈夫? 頭痛とかない?」

「大丈夫です。昨日はすみませんでした」

「ちょっと飲む練習した方がいいかもね」

紘一さんはそう言いながら、お店の扉横にビールケースを置くと中に戻ります。ついて入りました。紘一さんはカウンターの中にまわって奥の倉庫の方へ行きます。私もそっちに行こうとしたら、

「マリちゃんは店の中見て回って、おしぼりが落ちてないか確認して」

「はい」

「イスの隙間とか下とか、よく見てね、もう少ししたらおしぼり屋が来るから」

「分かりました」

おしぼり屋って言うのがあるんだ。言われた通りソファーの間や下を見て回りました。紘一さんは他の空きビン類を運び出しています。

 一回りしておしぼりを二枚見つけました。それを持ってカウンターに戻ります。カウンターの中にお客さんが使ったおしぼりを入れる箱があったので、その中に入れました。

「おはようございます」

入り口からのその声にそっちを見るとルミさんが入ってきます。挨拶を返しました。タンクトップにショートパンツ姿。なんだかかわいくて私より年下に見えます。実際いくつなんだろう、この人。

「えっと、マリちゃんだっけ、大丈夫だった?」

ルミさんがそう聞いてきます。

「あ、はい、昨日はすみませんでした」

「ううん、私もダウンしちゃったから気にしなくていいよ」

ルミさんがそう返してくれると、倉庫からウィスキーの空瓶を抱えて出て来た紘一さんがこう言います。

「おしぼりの回収終わったんなら、それも箱ごと表に出して」

「あ、はい」

そう返して使用済みおしぼりの入った箱を持ち上げました。そしてそれを抱えて入り口の方へ。するともう一人入ってきました。その人を見て咄嗟に俯いてしまいました。俯いたまま挨拶します。

「お、おはようございます。昨日はすみませんでした」

「ああ、おはよ、もう少し飲み方考えろよ」

「はい、すみませんでした」

相手は後藤さんでした。私には全く覚えがないけれど、昨夜この人にされたんだ。そう思うと顔を見れませんでした。一応これは恥ずかしいって感情なのかな。なんだかよく分からない気持ちでした。でもなんだか少し、カチン、ともしました。なんか偉そうに言われたけど、この人そんなこと言って寝てる私にしたんだよね。酔っぱらって寝ている私を裸にして、私の身体を好きな様にしたんだよね。偉そうなこと言ってもそんなことする人なんだよね。

 その、そんなことをする人から、

「マリは先ず自分が汚した便所掃除してこい」

そう言われました。なので素直に返事して更衣室に向かいました。そしてトイレを見ると確かに汚れています。誰かが私の吐いた汚物を拭き取ったあとが床にありますが、あとがあるってことは汚れてるってことです。洗面台の下のバケツと雑巾を使って拭きました。拭きながら思います、最初の汚れは誰が拭いてくれたんだろうって。更衣室の床にも汚物を踏んだ後の足跡があったので、床用のモップで拭きました。

 そこまで終えてホールに戻ると、紘一さんとルミさんが床掃除をしていました。それに混ざろうと思ったらビールケースを抱えて入って来た後藤さんに、

「次は客用の便所」

と言われました。そこの掃除も終えると、紘一さんが客席のテーブルを拭きながらソファーのゴミなどを確認していました。ルミさんはカウンターで洗ったグラスや灰皿を片付けています。後藤さんはカウンターで伝票を見ています。そこに近付いていくと、

「マリはボトルの棚掃除しろ。ルミ、教えてやってくれ」

と、後藤さんが言います。

「じゃあこっち来て」

後藤さんのセリフにルミさんがそう言います。言われた通りカウンターの中に入りました。

「この棚って五列あるでしょ? 毎日一列ずつ掃除していくの」

ルミさんがボトルの並ぶ棚を指してそう言います。確かに腰の高さの作業台から上に四段五列あります。

「それで、今日は土曜日だからここね」

ルミさんが続けてそう言いながら一番左端の列を示します。

「一番上の段から順番にボトル全部抜いて、まず棚板を拭くの。そしたら今度はボトルを一本ずつ拭いて戻していくの。分かる?」

「はい」

「じゃあお願いね」

一番上の棚には手が届かないので、カウンターの隅に置いてある踏み台に乗りました。そしてボトルを取り出しているとルミさんがこう言います。

「ボトルは出来るだけ置いてあった通りに戻してね。ママとかは誰のボトルがどこにあるか覚えてるから、場所変えると怒られるよ」

「分かりました」

そう答えて、棚にあった並び通りに作業台の上に置いていくことにしました。

「まあ、一番上のはどうでもいいけどね、流すのばっかだから」

ルミさんが自分の作業をしながらまたそう言います。

「流す?」

意味が分からずそう聞いてました。

「そっ、ほとんど来ないお客さんのボトルだから」

「……」

そう言われても、流す、の意味は分かりませんでした。

「半年来ないとね、うちはボトル流しちゃうの。捨てるってことね」

ルミさんがそう続けてくれました。

「捨てるんですか?」

「まあ、そう言うだけで実際はハウスボトルにしちゃうんだけどね、勿体ないから」

なるほど、そう言うことなんだ。

 棚の掃除を続けながら疑問が出てきました。一列ずつ毎日棚掃除をしていくと言って、土曜日はこの列だと言われました。棚は五列あって、月曜日から土曜日までなら六日間、一日合わない。毎日一列ずつずれていくだけで、曜日で場所が決まっているわけではないのかな。

「ルミさん、月曜日は一番向こうの列を掃除するんですか?」

なので聞きました、一番右端の列を指して。

「ううん、あそこは火曜日」

返事はこうでした。じゃあ、月曜日はどこを掃除するんだろう。そう思っていたら続けて教えてくれました。

「月曜日はここを拭くの」

ルミさんがそう言って示すのは作業台でした。正確には作業台の奥。アイスペールやグラスが並んでいるところです。う~ん、グラスを全部のけて拭くのは面倒そう。

「ここはグラスとか一杯あって大変だし、奥の鏡も拭かないといけないから、月曜日にあたったら外れだよ」

やっぱりそうなんだ。ルミさんもそう言いました。かと言って、そうなんですね、とも言えないので黙って掃除を続けていました。するとルミさんがこう言います。

「まあ、月曜日はホールの掃除ないからその分は楽だけどね」

「そうなんですか?」

「うん、ホールだけは日曜日に掃除するから」

そうなんだ、と思って黙っていたら続きました。

「土曜日にこぼしたお酒や食べ物、月曜日まで放っておいたら匂いがついちゃうからだって」

「それで日曜日にやるんですね」

「そう言うこと。マリちゃんも寮だよね?」

「はい」

「と言うことは、マリちゃんも一週おきくらいに日曜日の掃除は回ってくるからね」

「えっ?」

「日曜日の掃除はね、寮にいる人だけなの」

「そうですか、分かりました」


 棚掃除が終わる頃、入り口の外から話し声がしてきました。サキちゃんと紘一さんが遊んでいるような声です。サキちゃん来たんだ、と思っていたら二人で入ってきました。

「手伝いに来るなら遅せーぞ」

後藤さんがサキちゃんを見てそう言います。

「お疲れ様です。違いますよ、マリちゃん迎えに来ただけです」

「ああ?」

「これから一緒に買い物行くんで」

サキちゃんが戸口辺りで立ち止まってそう言います。

「そうか。もう終わったのか?」

後藤さんが私たちの方を向いてそう聞いてきます。でも私はどこまでやるものなのか知らないので返事出来ません。

「はい、あとは雑巾とか片付けたら終わりです」

ルミさんがそう答えました。

「じゃあもういいぞ。夕方遅れるなよ」

後藤さんはそう言うと、手元の伝票や帳面をまとめてカウンターの隅に置きます。そして、

「紘一、戸締りしとけよ」

と言って、先に出て行ってしまいました。その後姿を見送ってからルミさんがこう言います。

「掃除に後藤さんが来てる日も外れね」

「えっ?」

「あの人何もしないから、一人少ないのと一緒だから」

なるほど。そう思っていたら、

「まあ、今日はマリちゃんが予定外で一人多かったから助かったけど」

とルミさんが続けます。

「私予定外なんですか?」

「だって、マリちゃんはまだ当番に入ってないでしょ?」

「そうなんですね」

そう聞かれても分かりません。

「更衣室に掃除の当番表貼ってあるよ」

サキちゃんがそう声を掛けてくれました。そう言われたら何か貼ってあった気がするけれど、いろんな紙が貼ってあったので見ていませんでした。

 戸締りをしてから四人でお店を出て、そのまま四人でお昼ご飯を食べに行きました。ルミさんの住んでいる寮の近くの洋食屋さん。結構広いお店でした。そこで、愛、の女の子三人とも会いました。三人とも私と同い年くらいの子でした。みんな未成年だよね、って思いました。いいのかな、未成年がこんなにお酒のお店で働いてて。ルミさんも多分一つ上くらいだから未成年ポイし。

 何か月ぶりかでハンバーグを食べて、サキちゃんと買い物に向かいました。サキちゃんに先導されて歩きながら質問。

「ねえ、なんでお店の掃除、十一時なの? 夕方早目に行ってやったらダメなの?」

だって、このパターンだと掃除終わってから時間が空いちゃうもん。通いの人は一旦帰るのかな? とか、思っちゃったから。

「酒屋さんとおしぼり屋さんが十一時過ぎに来るのよ。だからその時間に誰かいないといけないでしょ? それでみたい」

「そっか」

「火曜日はクリーニング屋さんも来るから」

「そうなの?」

「うん、お店寄ってから部屋の方も回ってくれるから、火曜日は起きたら店の服出さないといけないよ」

「どうやるの?」

「う~ん、また火曜日に教えてあげる」

「分かった。でもお店の服、クリーニングしてもらえるんだ」

「うん、でも、出来るだけ三回くらいは着るようにって言われてるからね」

「そうなんだ」

「ま、汚しちゃった時はしょうがないけど、昨日みたいに」

そう言えば昨日の服ってどうしたんだろ。下着はどちらも布団の傍にあったけど。

「そうだ、昨日の私の服ってどこにあるの?」

「酷い汚れだけ落としてクリーニング屋さんの袋に入れたよ」

「サキちゃんがやってくれたの?」

「まあね」

「ありがと」

「う~ん、ただね、それであんたに後藤さんが行っちゃったかもしれないけど」

「えっ?」

「後藤さんが部屋であんたを下ろそうとした時に、汚れた服で布団汚したらいけないと思ったの」

「うん」

「でね、後藤さんに抱えてもらったままであんたの服脱がしたの」

「……」

「で、服の始末して戻ったら、あんたもう全部脱がされてたの。って言うか、もう始まってたって言うか……。ごめんね」

ごめんね、って言われても……。

「ううん」

としか言えませんでした。でも続けてこう聞いてました。

「見てたの?」

やっぱり気になったから。

「ちょっとだけね」

「そっか」

誰かに見られながらされてたなんて、なんだか恥ずかしい。正直に言うと時間が経つにつれて、誰かにされていたって記憶が出てきました。全くの無意識ではなかったみたい。なので余計に恥ずかしく思えました。

「私もそのあとすぐに酒井さんに抱きつかれたから」

続いたサキちゃんのセリフに驚きました。

「えっ?」

「しーちゃんがされてる横で私は酒井さんにされてたの」

「……」

そうだったんだ。

「酒井さんはその後マリちゃんの方に行ったのよ」

なんだか信じられないところで暮らしてる、と思いました。

「じゃあ後藤さんはサキちゃんと?」

聞きたかったわけではありませんがそう聞いてました。

「ううん、後藤さんはサユリさんのとこ行ったんじゃないかな」

「そうなの?」

「だって、後藤さんがあの部屋に来るときはサユリさんだから」

「そうなんだ、サユリさん美人だもんね」

「そのおかげって言うのは変だけど、後藤さんが気に入ってる所為でサユリさんには他の人はほとんど手を出さなくなったんだけどね」

「そうなの?」

後藤さんって偉い人なの?

「一応、今のパープルではチーフみたいなもんだから、男の人たちは逆らえないのよね」

「……」

チーフってなんだろ?

「後藤さんが他の部屋行ってる時にあの部屋で寝たらサユリさんに手を出したって思われるから、他の男の人はほとんど来なくなったしね」

他の部屋、愛、の部屋?

「チーフって何?」

「ああ、ボーイで一番偉い人。店ではママの次かな? ただ、今はいないのよ、マネージャーと喧嘩してクビになったから」

「そうなんだ。じゃあ後藤さんがチーフになるの?」

「ううん、ならないんじゃない? なるならもうなってるはずだし」

「なんで?」

「そのうち分かると思うけど、仕事出来ないのよ、後藤さん」

「……」

「ツケの回収も出来ないみたいだし、お客さんが喧嘩始めても止めに入らないし」

「そうなんだ」

「止めないって言うかね、ビビッて近寄れないのよ、見てて分かるけど」

お店でお客さんの喧嘩があるってことの方が私の頭に残りました。

 そんなことを話しているうちに、とあるビルの中に入っていました。お店があるようには見えない普通の会社のビルのようなところです。その一階にそのお店はありました。お店と言うより衣料品の倉庫って感じだったけど。その倉庫の中を平気で進んでいくサキちゃんについて行きました。そしてサキちゃんが立ち止まるとこう聞いてきます。

「サイズとかちゃんと全部覚えてる?」

「うん」

「じゃあここから選んで」

そう言って床に並ぶ大きな段ボール箱を指します。中を見ると全部ブラジャーでした。しかも十着ずつ紐で縛ってあります。値札は当然十着分になっているけれど、昨日のお店の二着分より少し高い程度です。ほんとに? って感じ。

「こんな売り方だけど物は変なものじゃないから」

「分かった」

そう答えてから、まずは自分のサイズの物を探しました。四つ並んだ段ボール箱の一つ目にはありませんでした。二つ目の箱をあさります。すぐに一束見つけました。でもそれは肌色と言うより茶色って感じの物。これは着ける気にならないかも。でもその箱には自分のサイズのものが沢山ありそう。そう思って探したけれど、白いのが一束見つかっただけでした。結局四箱全部見て見つかったのは五束でした。茶色が一つ、白が一つ、肌色が二つ、黒が一つ。

 ハッキリ言ってお店の服だとブラはチラチラ見えちゃうので、目立たない肌色にしようと思いました。でも肌色の一つはなんだか気に入らないデザイン。肌色一つだけにしようか。でもこんなにあってもこれだけしか見つからないのなら、見つけた白いのも買っておこうか。そんな風に悩んでいました。

「一週間くらい空けて来たら商品代わってるから、また探しに来たら?」

悩んでいる私を見てサキちゃんがそう言います。そう言われて決めました。

「ううん、とりあえずこれとこれにする」

肌色と白のを一束ずつ手に取ってそう言いました。

「そっ、じゃあそれと似たパンツ探そう」

サキちゃんはそう言うと、すぐ近くのショーツが詰め込まれた段ボール箱の方に行きます。そして私の選んだブラと似たショーツを探し始めます。私も続きました。

 下着を選んだあとはスカートなんかを見ました。そしてスカート二着と、サキちゃんが今日も履いているのと同じようなトレパンのズボンを一着買いました。今までの私の常識からするとかなり安かったのですが、まとめて買ったのでお金が一気に減った気分です。

「結構お金持ちだったんだね。足らないかなって思って私も財布にお金入れて来たのに」

と言ってくれたサキちゃんのお世話にはならずに済んだけど。


 午後五時半、二日目の朝礼。出勤は寮住まいの五人以外は、カオリさん、チエさんとナナさんの三人で八人でした。土曜日はお客さんが少ないことが多いのでこの人数だそうです。会社がお昼までだからかな? たまに団体が押し寄せて忙しくなるみたいだけど。

 昨日はいなかったナナさん、大学生でした。火、木、土曜日の週三日勤務だそうです。大学に行ってるなんてなんだか羨ましいです。中卒となってしまった私には、もう夢見ることも出来ない身分です。

 朝礼の後、ママからは昨夜のことで少し怒られました。お客さんに勧められても、飲んでる振りして飲むなと。

 私は当分カウンターだと言われて、今日はカオリさんと一緒でした。お客さんは一人、二人連れ程度の方がぽつぽつと来るだけでほんとにお店は暇でした。でもカオリさん目当ての一人のお客さん二組がカウンターに来たので、私はそれなりに忙しかったです。そして、チビチビと気を遣いながらだけどまたお酒を飲んでいました。

 九時を過ぎた頃、下の、愛、のボーイさんが店に来ました。ママと何か話したと思ったら、サユリさん、ユキさんを連れて出て行きます。後から聞いた話ですが、下は団体が詰めかけて大忙し。女の子が足らないと言われて応援に出されたとのことでした。

 二日目は十一時過ぎに最後のお客さんが帰ったので、十一時半で閉店となりました。無事に乗り切りました。最後までいた二人連れのお客さんが使ったグラスなんかも洗ってからお店を出ます。階段を下りて、愛、の方を見ると、こっちはまだまだ大盛況の様でした。サユリさん達は何時に帰って来れるんだろう。十一時過ぎでもうお店を閉めると決めたので、ママがその時点で通いの人を帰らせました。なので閉店の時にお店にいたのはマネージャー、ママ以外だと、私たち二人と紘一さん、ルミさんだけ。ルミさんとは途中で別れて三人で部屋に戻りました。時間が早かったので部屋に戻ってから順番にお風呂に入りました。

 お風呂から上がると、先に入ったサキちゃんが居間でビールを飲んでいます。仕事じゃなくても飲むんだ、と思っていたらこう言ってきます。

「お腹すいた。ラーメン作れない?」

「ラーメン?」

「その辺に即席のがあるから」

サキちゃんが、その辺、と言うあたりを探すとありました、箱で。

「作ってもいいけど、ほんとに食べる?」

「うん、マリちゃんも食べない?」

「食べる。紘一さんは?」

浴室の方を見ながらそうう聞きました。

「多分食べると思うから三人分作っちゃってよ」

「分かった」

と言うわけでラーメン作り。実を言うと作ったことがなかったので、袋の後ろの作り方をじっくり読んでやりました。具はサキちゃんの希望で卵とじ。三人分で卵一個にしたので、出来上がるとどこに卵が入っているのか分からないくらいでした。それを見たサキちゃんがハムを追加しながら、三個使えばよかったのに、と言うけれど、そんな贅沢なことは思いつきませんでした。

 出来上がったけれど紘一さんはお風呂から出てきませんでした。なので声だけ掛けて二人で食べ始めます。すると座卓の上に封筒があるのに気付きました。今日は八月末です。朝礼の時にママがお給料を渡していました。その封筒です。

「それサキちゃんの?」

食べながら聞きました。

「そうだよ」

「いくらぐらいもらえるの?」

ほんとはすごく知りたかったことなので聞いちゃいました。

「今月は一万五千円ほど。お盆休みあったから少ないよ」

「それって、ここの家賃とかも引かれてそれだけもらえるの?」

「そうだよ」

「へえ、結構もらえるんだ」

素直にそう思いました。家賃が引かれていて、電気代とかもないって言ってたから、あと必要なのは食費と洋服代くらい。それだけあれば十分、と思いました。するとサキちゃんがこう言います。

「うん? 手取りでもらったのがこれで、実際はこれの倍以上あるよ」

その言葉に驚いていたら、サキちゃんは封筒を手に取ると、中から一枚の紙きれを出して私に差し出します。

「これが明細。最初に半分は社内積立とかってので引かれて、残りから家賃やなんやかやと、服とかクリーニング代とか一律で千円引かれた残りだよ」

サキちゃんがそう言っているのを聞きながら差し出された明細を見ると、総額が三万六千円ちょっとありました。

「こんなにもらえるの?」

思わずそう言ってました。

「うん、多いのか少ないのかよく分かんないけど、普段は四万はあるよ」

「多分多いよ。普通の会社の新入社員のお給料、三万円くらいって叔父さんが言ってたから」

「そうなんだ」

サキちゃんはそう言ってラーメンをすすります。なので私もまた食べ始めました。すると食べながらサキちゃんがこう言います。

「でも、積立分って何かやると減るからね」

「どう言うこと?」

そう聞くとサキちゃんがお箸で明細書を指します。

「そこに積立額、十八万いくらってなってるでしょ?」

そう言われて明細書をもう一度見ました。確かに当月積立額の所に一万八千円ほどの金額が書いてあり、積立総額ってところに十八万円ほどの金額があります。

「うん」

「六月はそこ、二十一万くらいあったの。でも、七月にちょっと失敗して五万ほど引かれちゃったんだ」

「えっ?」

引かれるってどういうことだろ。

「気を付けてね、グラス割ったり、ボトル割ったり、店の物壊したりしたらそこから引かれるから」

「そうなんだ」

「それもかなりぼったくりの金額で引かれるから」

「……」

ぼったくり……。

「あとね、お客さん怒らせたりしたら無茶苦茶引かれるよ」

「怒らせただけで?」

「怒らせるって言うか、怒らせてもう来なくなったりしたらね」

「そうなんだ」

「私の入る前だけど、大口の常連さん怒らせちゃった人、五十万も引かれたらしいよ」

「ええっ? 大口って、昨日の小倉商店さんみたいな人?」

「う~ん、どうだろ、もっとじゃないかな? 今だと高松組とか河合工務店とかかな」

「高松組?」

「うん、工務店だよ、どっちも。まあ、どっちも来週は会えるよ、下手すると毎日来るから」

「そうなんだ」

「ま、そういうところ怒らせちゃうと大変だから気を付けてね。なんだかんだ言って積立金はすぐに減らされちゃうから」

「そうなの?」

「う~ん、今更だけど怒んない?」

サキちゃんがそう言って私の顔を見ました。

「うん」

「え~っとね、うちのお店やってる会社って、その、なんて言うか、怖い人の会社だから」

「……」

それって、暴……ってこと? と思っていたら、

「怖い会社とか言うな」

と、紘一さんが声と共に現れました。

「だってそうじゃない。会社会社って言うけど、マネージャもママも会社の名前言わないし」

紘一さんはサキちゃんの言葉に答えず座ると、汁気の減ったラーメンに手を付けます。ちなみに、私とサキちゃんはしゃべりながらもう食べちゃってました。

「それって結局、何々組とかって名前だから言えないんじゃないの?」

サキちゃんは続けてそう聞きます。

「はあ?」

紘一さんはあまり話したくない様子でそう言うだけ、ラーメンを食べ続けます。

「給料明細にも会社名入ってないし」

サキちゃんが明細書を手に取ってそう言います。

「それはお前が正式には雇われてないってことだからだよ」

「えっ、どう言うこと?」

「まあ、俺もだけどな」

「だからどう言うことよ」

「あのなあ、ああいう店で未成年雇ってるなんて公に出来ないだろ? だから俺たちは従業員の名簿に載ってないんだよ」

「……」

サキちゃんが何も言いませんでした。

「サユリさんの明細見せてもらえよ、会社名入ってるはずだから」

サキちゃんはまだ何も言いません。代わりに私が聞きました。

「なんて名前なんですか?」

「えっ、……新光興業だよ」

ちょっとためらってから紘一さんはそう言うとラーメンをかき込みます。

「しんこうこうぎょう。どういう字なんですか?」

また聞きました。

「新しい光に興す業、だよ」

食べながら紘一さんが教えてくれます。

「怪しい名前」

サキちゃんがそう言いました。すると紘一さんがサキちゃんを睨むように見てこう言います。

「そう言うこと、ママはともかく、マネージャーに言うなよ」

「なんで?」

「マネージャーはその上の会社の人だから。意味分かるだろ?」

サキちゃんもそれで何も言わなくなりました。私もなんとなく分かったので、もう聞かないことにしました。

 ラーメンを食べたあと、ユキさんが九月で二十歳になるので会社名の入った明細書になる、なんて話から、ユキさんはここから出て行くのかな? なんて話を三人でしばらくしていました。でも、サユリさん、ユキさんは帰って来ないので寝ることにしました。




 紘一さんも居間の自分の布団に寝転んだので今夜は何もなし。でもパジャマがない、今日買っとけばよかった。Tシャツに下着だけ履いた姿で寝ました。

 何時頃か分かりませんが目が覚めました、体を起こされ、Tシャツを脱がされている途中で。

「ヤッ、やめて」

Tシャツを掴んで両手を胸の前に。でもすでに下着を履いていませんでした。いつの間に……。

「わるい、起こしたな、寝てていいぞ」

聞いたことのない男の人の声でした。って、そんなこと言われても、こんなことされてるのに寝てられるわけないでしょ。

「ちょ、ちょっと」

横から聞こえたサキちゃんの声にそっちを向くと、サキちゃんの上に男の人が覆いかぶさっていました。

「えっ、水谷さん?」

「久しぶりだなあ」

サキちゃんは知ってる相手みたいでした。と言うか、見る間にサキちゃんが裸にされていました。そして私のTシャツもまた上に引き上げられます。

「新人だろ、よろしくな」

そしてそう言ってきます。

「えっ、ちょっと待ってください。だ、誰ですか?」

「石原だ。さあ、もう手を放しておとなしくして」

私の握った手を開かせるようにしてそう言いながらTシャツを脱がします。

「な、何するんですか?」

我ながらバカなことを聞いていました、何をするかなんて分かっているのに。

 素っ裸にされて布団の上に座っていたら、目の前の男の人が全部脱ぎ始めました。三十歳くらいの人かな? そして覆いかぶさってきます。もうどうしようもない、抵抗せずにおとなしくされるしかない。

 しばらく私の身体を触っていた石原さんが体を離すと何かし始めます。何をしているのか覗くと、股間に何か着けています。あっ、あれがコンドームなんだ。初めて見ました。そして始まりました。

 昨夜はなんとなく覚えがあるようでありませんでした。なのでこれがちゃんと意識がある状態での、叔父さん以外の人との初めての行為。正直に言います、やっぱり嫌だ、なんて抵抗感があったのは最初だけ、すぐに感じていました。気持ちいいって感じを味わっていました。

 石原さんが終わると、石原さんと水谷さんが場所を入れ替わりました。水谷さんも三十歳くらいの人。ハッキリ起きている状態で二人と続けてするのも初めて。水谷さんはいきなりコンドームを付けて始めてきました。また感じていました、味わっていました。隣のサキちゃんの口から洩れる音を聞きました。サキちゃん気持ち良さそう、なんて思っちゃってる、自分もされながら。私はもうほんとに異常な女だ。


 人の動きで目覚めました。足元で男の人がズボンを履いていました。濃い紺色のスラックス。愛、のボーイさんの服の色です。パープルのボーイさんは黒。

「寝てていいぞ」

私が起きたのに気付いてその人がそう言います。声からするとこの人が石原さんだ。そう思っていたら石原さんが窓の方を向きました。背中に絵が描いてある。でも色がついているところは半分くらいで、あとは縁取りだけの絵です。変なの、描きかけみたい、と思っていたら気付きました、これが刺青だと。

 男性二人はすぐに帰って行きました。時計を見ると七時過ぎ。何時間寝たのか知らないけれど、なんだかスッキリした寝起きでした。なのでもう起きることにします。

 隣のサキちゃんはまだ寝ています。なのでそっと起き出して浴室に向かいました。夜中にも入ったけれど、その後また汗をかいたので。まずはお風呂を沸かしに行くだけだったので起きた姿のまま。居間を横切る時、紘一さんが掃き出し窓の所でタバコを吸っていました。忘れていました、もう一人男の人がいたことを。でも、素っ裸の私を見ても、おはよ、と、挨拶だけだったのでそんなに恥ずかしくは感じませんでした。でも十分問題だよね、男の人に裸を見られてそんなに恥ずかしいと思わないなんて。

 お風呂を終えたらサキちゃんが起きていました。私がお風呂を沸かしたと知ると入れ替わりで入ります。私は朝ごはんの用意でもしようかな、なんて思って台所へ。昨日買った大きなギャザーが少しだけ入った、水色基調のタータンチェックのスカート。安かったのに履いてみるとなんだかいい感じ。ジーパンから解放された感じで軽くなりました。なんだか女の子に戻った気分。

 オムレツに入れるジャガイモを刻み終わった頃、ユキさんが起きてきました。その部屋の中ではサユリさんも上半身を起こして伸びをしています。その上半身、なにも着ていません。普段から裸で寝るのかな、まあ、まだ暑いしね。紘一さんがサユリさんのその姿をじっと見ていました。あんまり見ない方がいいんじゃないの? と思うけれど、見られているサユリさんは全く気にしていない様子。なのでこれがここの日常なのかも。お風呂が沸いていると知ると、二人も順番に入ると言います。なのでオムレツを焼くのはもう少し後になりそう。

 サキちゃん、紘一さんとテレビを見ていたら、先に入ったユキさんが着替えも終えて台所へ向かいます。それを見て私も台所へ行きました。

「このジャガイモどうするの?」

細かく千切りにしてまな板の上に置いたままのジャガイモを見て、ユキさんがそう聞いてきます。

「先に炒めてから卵に混ぜて焼こうと思って」

「あっ、それおいしそう。サユリさんお風呂早いからもう焼いちゃお」

ユキさんがそう言うのでジャガイモを炒め始めることにしました。するとユキさんがこう言います。

「昨日はごめんね、私達が石原さん達連れて帰って来ちゃったみたいで」

そっか、ユキさん達は、愛、の応援に行ったからあの人たちがこっちに来たんだ。

「いえ」

そうとしか言えませんでした。その後ユキさんも口を開きません。なのでジャガイモを炒めながら聞きました。

「昨日、遅かったんですか?」

「お店出たの二時半くらいかな? 二時過ぎまでお客さんいたから」

ユキさんは物が一杯置いてある台所のテーブルにスペースを作って、ノートに何か書きながらそう答えてくれます。でも何やってるんだろう? お財布を出してお金を数えてるみたいだし。と言うかユキさん、水屋の引き出しからお財布を出したけど、そんなところにお財布入れてるの?

 ジャガイモを炒め始めた頃からサキちゃんがトーストを焼き始めていました。マーガリンは紘一さんが塗っています。最後のトーストを焼いている時に、焼きあがったオムレツを居間の座卓に出しました。そして水切りしたレタスを取りに台所へ戻ると、サユリさんがこう声を掛けてきました。

「マリちゃん、これ、味付けした?」

しまった、味付け忘れてた。振り返るとサユリさんが一口食べていました。

「すみません、忘れてました」

慌ててそう言ったけど今更どうしようもないです。

「じゃあケチャップ頂戴」

サユリさんがそう返してきます。なのでケチャップを持って行きました。サユリさんはケチャップを受け取ると、オムレツの上に波線を描くようにたっぷりかけていきます。

「ケチャップってチューブになってからなんか色が悪いわよね」

そしてそんなことを言ってます。まあそれは私もそう思うけど。瓶の頃は最後の方まできれいな色だったけど、チューブになってからは使い始めるとすぐに茶色く変色する気がする。って、そんなことよりサユリさん、かけすぎじゃない? とは思ったけど、結局みんなおいしいと言って食べてくれたので良かったです。

 食事が終わるとユキさんがさっきのノートを見ながらみんなにこう言います。

「みんな昨日お給料もらったよね。今月は千二百円ずつ頂戴」

そう言われたみんなは一斉に席を立ちます。何事かと思っていたら各々お財布を持って戻って来て、ユキさんにお金を渡しています。何のお金か分からないけれど、みんなと言うからには私もだよね。なのでお財布を取りに行きました。そして戻ってくると、

「ああ、マリちゃんはお給料まだでしょ? 来月からでいいわよ」

と、ユキさんが言います。

「あ、はい。えっと、これ何のお金ですか?」

聞きました。

「ここの生活費。食費とか日用品買うお金」

「ああ」

「だいぶ前に月五千円くらいいるよねって決めて、毎月お給料の後にこの中が五千円になるようにみんなからもらうの。あっ、これこの部屋の財布ね」

そう言ってユキさんがさっきのお財布を私に見せます。

「だからここでみんなで食べるものとか使うものはこのお金で買うの。今食べた食パンとか、卵とかマーガリンなんかね。あと、石鹸とか洗剤とかもみんなそうだから」

「そうなんですね」

「まあ、みんなは外食多いけど、私はほとんどここで食べてるから私の食費が多いんだけどね」

そのユキさんのセリフにサユリさんがこう言います。

「その代わりここで食べるときは全部ユキが作ってるんだからいいんじゃないの」

サキちゃんと紘一さんが、そうそう、と頷きます。

「ありがとうございます」

ユキさんがサユリさんに頭を下げました。そしてこう続けます。

「あっ、ただしビールは別ね。お店の酒屋さんに安くしてもらってるけど、一ケース二千円ちょっとするから。これは別で集めるからね」

「分かりました」

お店以外でビール飲もうとは思わないけど、それがここのルールならしょうがないかな。

「マリちゃん以外のみんなは今回覚悟してよ。八月は四ケース取ってるからね。明日か明後日くらいに請求書来ると思うけど、来たら集金するから」

「そんなに飲んだ?」

サユリさんが反応しました。

「暑い、とか言って朝から飲んでませんでした? お盆休みの間なんて四人で一日中飲んでたし、冷やすのが追いつかないくらいのペースで」

ユキさんにそう言われると、

「そうだったっけ」

と、タバコに火をつけるサユリさんでした。


 洗濯機が空いていたので、放浪生活で溜めた洗濯物を洗っていました。初めて見る二層式の洗濯機。瀬戸の家でも叔母さんは欲しいと言っていたけどまだ買い替えていない物でした。サキちゃんに使い方を教えてもらって使います。その時サキちゃんから、

「ブラは手で洗った方がいいよ。洗濯機で洗うと形が崩れちゃうから」

と言われたので、それは手洗いすることに。そして一緒にジーパンを洗おうとしたら、

「それ、まだ新しいんじゃない? 色が出るかも知れないから別にした方がいいよ」

と、これはユキさんから指摘されました。思えば一人で洗濯したことなんてなかったかも。洗濯だけでも知らないことがいっぱいでした。

 十一時前にサキちゃんと紘一さんがお店の掃除に行きました。日曜日はおしぼり屋さんとかが来るわけじゃないから何時でもいいんだけどね、と言いながら。そしてサユリさん、ユキさんの二人もお昼前に二人で出掛けて行きました。

 サユリさん達が出掛けるころに二回目の洗濯も終わって、それを干し終わったらお昼でした。暑いけどクーラーはつけません。沢山洗濯物を部屋の中に干しているので、窓を全部開けて風を入れていたから。新しく買ったブラなんかを一旦全部洗ったので、部屋の中では沢山の下着が揺れています。乾いて取り込むまで誰も帰って来て欲しくないかも。と言っても、お店の掃除に行ってる二人は終わったら帰ってくるはず。お昼ご飯どうしよう。作った方がいいのかな? 食べに行くかな? サキちゃんに聞いておけばよかった。

 作るとしてご飯はあるのかな、と思ってジャーを覗くとお茶碗一杯強くらいのご飯がありました、当然冷めてるけど。念のため電気釜も見てみるけど、こっちはきれいに洗ってあって空っぽでした。ご飯炊く? でもみんな食べなかったら冷や飯を増やすだけだよねぇ、どうしよう。

 悩んでいるうちに一時近くになってしまったので、一人で食べることにしました。玉ねぎ、ハム、卵とジャーの冷や飯で焼き飯を作りました。結構おいしくできました。そしてジャーも含めて昼食の後片付けを終えるとすることがなくなりました。


 部屋で寝転んで、揺れてる自分の下着たちを眺めていました。暑いんだけど、時々肌に触れていく風は気持ちいい。でも、でも、それにしても退屈。何かやることを、と思っていて思いつきました、大したことじゃないけど。お財布の中のお金がだいぶ減っていました。なので手紙の缶の中のお金を入れた封筒から、少しお財布にお金を移そうと思いました。

 整理ダンスから手紙の缶を取り出して畳の上に。フタを開けてお金を入れた封筒から三千円抜きました。それをお財布に入れてから封筒を缶に戻します。今まで一番上に無造作に置いていた封筒を、一番下に入れようと思って缶の中に手を入れました。すると、何か硬いものが入っているのに気付きました。手紙の封筒しか入れていないはずなのになんだろう? そう思ってその固いものを探すと、それは封筒でした。


 優しく涼しい風が吹いて来て、暑さを忘れたような気がします。そして、何か硬い物が入った封筒を見つめていました。宛名も何も書かれていない無地の封筒。普通の封筒よりは一回りほど大きい封筒。そして結構重たい封筒。ほんとにこんなの覚えがない。逆さにして中身を出そうとしました。すると最初に出て来たのは印鑑入れでした。硬くて重たかったのはこれだ。中には、大西、の認印が入っています。ほんとに何だろう。そして封筒から残りを取り出すと、郵便貯金の通帳でした。私の名前が書いてある通帳が二冊。一冊を開いて中を見ました。三百円の入金が並んでいます。時々五百円の時もあります。一番最初の所を見ると、三十五年の四月に百円でした。そのページは百円の入金が並んでいて、時々二百円と三百円があります。でも必ず毎月入金されていました。三十五年? 私が小学校四年生の時だ。父か母か分からないけれど、私の名前で貯金してくれていたんだ。そうとしか思えませんでした。でもなんでその通帳がこの缶の中に入っていたんだろう。こんなの本当に今まで見たことなかったし、知りもしなかったこと。ほんとに不思議です。

 二冊目の、記載のある最後の所を見ました。そして驚き、震えました。残高が三十万円近くあります。なんでこんなにあるの? そう思ってじっくり見ます。最後の辺りは毎月千円入っています。そして一ページ戻ると、二十四万円近くが入金されている月がありました。なにこれ? 

 私の両親との生活は裕福なものではありませんでした。どちらかと言うと貧乏な家でした。なので、どこにこんなお金があったの? 二十四万円も貯金できる何があったの? そう思わずにいられませんでした。そしてその日付を見ました、理解不能な日付でした。その日付は去年の七月。両親は五月に亡くなっています。死んだ二か月後に貯金なんて出来るわけがない。ほんとにどうなっているんだろう。

 その疑問は通帳を見ていてなんとなく分かってきました。その翌月から毎月千円ずつの入金が続いています。こんなことが出来るのは叔父さんか叔母さんだけ。きっと両親が死んだあと、私の家でこの通帳を見つけたんだ。それで両親と同じように毎月貯金してくれていたんだ。でも、あの二十四万円近い金額は何だろう。考えられるとしたら両親がしていた貯金かも。それを私の通帳に移してくれたのかも。そうとしか思えない。そして多分これは叔母さんがしてくれていたんだと思いました。叔父さんに言づけたこの缶の中に、母の腕時計を入れたのは多分叔母さんです。なのでこの通帳も叔母さん。両親が死んでからも毎月お金を入れてくれていたのも叔母さん。

 両親は死んじゃってもまだ私を助けてくれる。そして叔母さんはそんな両親の思いを引き継いでくれていた。両親と叔母さんへの感謝で、何だか涙が出てきました。そして、そんな叔母さんを傷つけたことへの恥ずかしさと申し訳なさで。そして、そして、そんな想いをもらいながらこんな生活に足を踏み入れてしまった自分を情けなく思って。

 でも、もう後戻りはできない。もう私は普通の女ではない。普通の女の幸せを望んでいい女ではない。だから私は私の力でここから始めるんだ。ここから始めて生きていくんだ。この先どんなことがあっても、もう誰にも助けてもらわない。両親はもういないけど、叔母さんにはもう絶対に助けられたりしない、もう絶対に迷惑掛けない。なんだかそんな決心もしていました。




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