第35話 過保護な婚約者

 それからはめまぐるしく時がすぎていった。

 沙苗は警察に、自分の身に何が起こったのかを全て打ち明けた。

 事情を聞かれる間中、終始、景虎が片時も離れずにいてくれたお陰で冷静に答えることができ、すぐに帰宅が許された。


 それから間もなく、嘉一郎と薫子が逮捕されたという報告を受けた。

 二人は何も知らない、勝手に沙苗が屋敷にやってきたんだとこの期に及んで白を切っていたようだ。しかし金で雇われた男たちが、自分たちがとんでもない人間の婚約者に手を出したことを知り、全てを打ち明けたらしい。

 こうして沙苗にもいつも通りの日常が戻ってくる――かに見えた。


 事件から数日後の昼下がりのこと。


「あ、あの……景虎様」

「どうした?」

「水汲みは私ができますから」

「遠慮するな」

「いえ、遠慮というわけではなくて……」


 景虎は井戸水を汲み上げると、それを桶へ入れる。たっぷり入れると、片手で軽々と持ち上げ、屋敷へ運んでくれる。力仕事を代わりにしてくれるのは、沙苗としてもとてもありがたい。


 しかし。


「掃除は私の仕事ですので、どうか書斎でご自分のことを……」


 景虎は桶の水で雑巾をきつく絞る。


「ここからそこまで、雑巾で拭けばいいんだろう」

「そ、そうです。そういう雑用は私が……」

「ここは俺に任せて、お前は休んでいろ。あんなことがあった後なんだからな」


 景虎は今、特別休暇を取っていた。

 沙苗が事件に巻き込まれたことに誰より責任を感じているのは景虎だ。

 自分が沙苗を一人きりにしていたせいだ、と。


 こうして片時も沙苗と離れず、家事のあれやこれやを手伝ってくれている。

 寝る時も心配だからと今では一緒の部屋で眠ることが当たり前になっていた。

 さすがにそこまでしなくてもと思うのだが、景虎は頑として譲らなかった。


「で、でしたら、庭の草むしりをお願いできますか? 拭き掃除は私でもできますので!」


 草の生え放題になっている庭を示す。


「根っこがかなり深くまで張っているせいで頑固なんです」

「これだったら簡単だ」


 景虎は霊力で生み出した炎の威力を微調整し、雑草だけを焼いた。

 霊力で生み出した炎は普通の火とは違う。炎のように見えるが、霊力の塊。

 みるみる雑草は景虎の霊力に生命力を蝕まれ、枯れていく。

 雑草があっという間になくなり、広々とした空間ができあがった。


「こんなに簡単にできるものなんですか……。でしたら、もっと早くにやっていただけたら良かったです……」

「この庭は何に使うんだ?」

「花でも植えられたら綺麗だなって思っています。お屋敷は色が少ないので。これからの季節、色々な花がありますし。綺麗な花があったら素敵だなって」


 景虎はにこりと薄く笑う。


「それは楽しみだ」

「!」


 あの事件以降、景虎が過保護になっただけではない。こうして笑いかけてくれることが多くなった。


 ――本当に、どうして景虎様は私を勘違いさせるような笑顔を見せるんですか!


 そんな笑顔を見せられたら、もしかしたら景虎は自分が好きなのかもしれないと勘違いしてしまいたくなるのに。


 今の沙苗がどれほど彼の表情ひとつに翻弄されているか、景虎はどこまで理解してくれているのだろう。


 もちろん真面目な景虎だから、沙苗の心を弄んでいるはずもないが、その可能性をわずかでも疑いたくなる。


「ここは片付いたな。次は買い物か?」

「あ、大根とにんじんを後で買おうかと……」

「分かった。ならあとで一緒に行こう。それまでに掃除を終わらせておく」

「で、ですから、掃除は私が!」

「お前は茶を飲んで、読み書きの練習をしていろ」


 一緒にいる時間が増えたことで、つきっきりで文字の読み書きの勉強も教わっていた。


 今では平仮名、片仮名、簡単な漢字は書けるようになっていたし、難しい漢字も読めるようになっていた。少なくとも外へ出かけたりした際に文字が読めなくて困るということはだいぶ減っている。


 まだまだ人に見せられるほど書きのほうはうまくはないが、何も知らなかった状況を考えれば、大きな進歩だ。


「このままでは私、穀潰しに……」

「穀潰し? 何の冗談だ? お前はたとえ何もしていなくても穀潰しだなんてありえない。お前がいてくれるだけで、俺がどれだけ嬉しいか」

「う、嬉しいだなんて……」

「当たり前のことを言ったまでだ。とにかく俺が屋敷にいる間だけでも力仕事は任せてくれ」

「……わ、分かりました」


 そこへ、「ごめんくださいっ」と男性の声が玄関から聞こえてきた。


「私、見てきますね」

「待て」


 景虎はすぐそばにおいてあった刀を手に取る。


「行こう」

「そこまで警戒しなくても」

「一度誘拐されたんだぞ。用心するに越したことはない」

「……はい」


 強く言われてしまえば、受け入れるしかなかった。

 玄関に向かうと、身なりのしっかりした中年男性が立ってた。男性は山高帽を取ると、深々と頭を下げてきた。


「……勅使、か」


 景虎が呟く。


「あ、帝の……!」


 沙苗は三つ指をつく。


「ど、どうぞ、お上がり下さい」


 広間へ勅使を案内する。

 勅使は景虎に対して用事があるようで、沙苗は別の部屋で待つことになった。

 十分ほどで勅使が部屋から出てくると、景虎と一緒に見送る。


「景虎様、勅使の方はどのような用事だったのですか?」

「……正式な処罰が決定した」

「薫子たちに、ですか?」

「違う。お前の実家へ、だ」

「は、春辻の?」

「帝は、お前が誘拐された事件でひどく胸を痛められている」

「帝が!? 一度もお会いしたことがないのに……」

「だが、俺とお前の婚約は勅命によってなされた。帝としてはお前を帝都へ呼んだのは自分の責任だと思われている」

「そんなこと! 悪いのは全部、薫子たちですのに……」

「帝はそういう御方なのだ。ついては処罰は薫子や嘉一郎だけにとどまらず、春辻の家そのものに及ぶようだ」


 春辻。その家名があまりに遠くに感じる。自分の家という認識はくなっていた。


「春辻の里まで向かい、処分の実行を見届けよ、との勅命だ。俺は今、お前をここに一人で残すことも、誰かに託すこともできない……だから」

「……私も一緒に春辻の里へ行く、ということですね」

「ずっと自動車にいてくれればいい。あとは俺が」


 沙苗は首を横に振った。


「私なら大丈夫です。私も処分というのを見届けさせてください」

「お前がそういうのなら」


 ――春辻の里へ帰るのね……。


 きっと嫌な眼に遭うことだろう。それでも今の沙苗なら怖れることなく、両親と面と向かって会えることができる。そんな気がした。

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