Claudeと遊ぶ——言語の紡ぎ手——②
翌日、納屋のなかにはいなくなったはずの山羊がどこからか戻っていた。
——自分で戻ってきたのかな?
いなくなった山羊が自分で戻ることなど、今まで一度だってなかった。というのも、放牧からはぐれてしまった山羊はたいていの場合、森で狼に襲われてしまうからだった。
——君は運が良かったね。
リンダは山羊を優しく撫でた。山羊の瞳に一瞬だけ文字が浮かぶような気がした。本で見た文字。この村では一度だって見たことのない文字だった。それも、あっという間にいつもの山羊の瞳に戻ってしまった。
それからしばらくは、放牧を終えるとリンダはすぐに家に戻って、夢中で本を読み耽った。
どうやらこの世界の秘密について書かれた本らしいことがわかってきた。冗談ではなく、神様が記述したであろう世界の原則らしきものが詳細に記されている。それは暗に、この世界では言葉が力を持つことを意味していた。正確には、そこに書かれた言語だけが力を持つ、世界をつくりあげる、書き換える力を持つということを示していた。つまり、神様がこの世界を作るにあたって使った言葉だということ。この世界のすべては言葉で綴られていて、言葉は、誰にも読み取れるもの、聞き取れるもの、話せるものではないということ。
——でも、どうして私がそれを使えるのだろうか?
リンダの疑問にひとりで答えを見出すことはできそうにない。だが、誰に尋ねてみることだってできない。なにせ、世界の秘密だ。これを知ればおそらく、誰か大きな力を持つ人であるならば、世界をいかようにも変えることができてしまうだろう。リンダだって例外ではなかった。この世界を変えることができる。好きなように、いかようにも。でも、そんなことは神様が望むはずはない。リンダはそう思っていた。
数日後のことだ。
リンダは再び森の中の古びた塔を訪れた。持ち出した本の他に、同じ言葉で記された本をどうしても探したかった。
螺旋階段は相変わらずだった。のぼると誰かが追いかけているかのような、あるいは誰かを追いかけているかのような錯覚を覚える。ひとりなのに、ひとりじゃない。反響する足音が前後に左右にと、人の気配を感じさせるのに、どうしてか、どうしようもなく自分は孤独であるように思えてくる。奇妙な感覚。
塔の頂上の部屋にたどり着いた。
以前訪れた際のように、夕暮れ時の遅い時間ではない。まだ太陽は高い位置にあり、窓からさす光ははるかに強かった。部屋全体をさっぱりと見通せる。そして、以前とまったく変わりがないように見えた。そう、まったく変わっていないのだ。おかしい。
「えっ」
リンダは思わず声を漏らした。
部屋の中央の机には、あの本が、あの時のままの状態で置かれていた。ぐわん、と世界が歪み、視界が揺れるような気がした。深く目をつむり、心を落ち着けてから、再び目を開く。そしてもう一度、しっかりと部屋全体を見渡した。
なにも変化はないようだった。
だが、やはりそこには、一冊の本がある。
「どうして……?」
リンダが持ち出した本は、家の書棚に並ぶ本の裏側に隠しておいたはずだ。誰かがリンダの家で見つけて、ここに戻したのだろうか。全く同じ本がもう一冊あったのだろうか。
——どっちにしたっておかしい。
リンダは頭を抱えながら古文書に隠された秘密を解き明かそうと格闘してみるものの、動揺のせいか、どうにも考えがまとまらない。
深呼吸した。かび臭い紙のにおいが鼻腔をくすぐった。おもわずくしゃみが出そうになったが、なんとなくこらえた。誰かがそばで、耳をそばだてているような気がした。
机の上の本を手に取ると、懐におさめた。
「まあ、二冊あっちゃいけないことはないだろうし……」
まるで誰かに言い訳するかのように、小さな声で独りごちた。
それから、元々の目的であった、同じ言葉で書かれた他の本を探してみた。確かに異なる言葉で書かれた本が棚に並んでいる。だが、村の言葉と異なるというだけで、中央に置かれた本と同じ文字で記されたものではない。それに、どれもリンダには読むことのできない代物らしい。辞書でも用意されていれば別だが、ただの村娘のリンダには、どうしたって読むことはできない。
——つまり、この本だけは他のものとは違うってことだね。
懐から本を出した。一通りは読み終えていたので、なんとなく全体の配置は把握している。リンダはページをぱらぱらとめくると、すぐに目的の言葉を見つけた。
「ウォカール」
リンダが発音すると、視界が渦を巻くように歪んだ。部屋全体が律動するように、かたかたと音を立てて震え出した。視界が液体のようにゆらゆらと歪んで水の如く自由に形を変えていく。部屋が完全に流動化した。ふと手を伸ばした。明確な形が目にとまったわけではなかったが、本が一冊、リンダの手のひらに吸い寄せられた。やはり、あの本だった。
——やっぱり、呼び寄せの呪文でも見つからないか。
リンダは諦めたのか、以前と同じように本を懐におさめ、部屋を後にしようとした、その時だった。
「リンダ!」
突然、塔の下の方から男の声が聞こえた。リンダはパニックに陥った。村の人にみられていたのだ。でも、村の人がこの塔について一切触れてこなかったことを思えば、素直に出ていっていいものか疑わしかった。
「リンダ! いるんだろう!」
「本当にこの塔に入っていくのを見たんだな?」
「間違いない。あの長い黒髪を他の娘と見間違えるわけがねえだろう!」
——やば、ばれてるじゃん。
最上階の窓から下を覗き見た。村の男が三人、そこにいた。
「いるよー! みんな、どうしたのこんなところで!」
大きな声で呼びかけると、三人は青い顔をしてリンダを見上げた。
「早くおりて来い、そんな場所にいちゃいかん! お前はこの場所を知ってはいけないはずなんだ、今すぐにおりてくるんだ!」
年配の、白い髭の生えた男がいった。
「わかったよ。すぐにおりるから」
——さて、これはどう言い訳したらいいものだろうか。
リンダに考えがあるわけではなかった。だが、本が手元にある以上は、なんだってできる気がした。
螺旋階段で足音が反響する。おりる時も同じだ。ひとりでおりているのか、誰かがあとからついてきているのか、あるいは誰かのあとを追っているのか、ほとんど区別がつかなかった。それでも、いつかは地面にたどり着くのだ。そうだ、それは頂上の部屋にたどり着くのも同じことだ。初めがある場所には必ず終わりもある。それだけの話だ。
一階の入り口で三人が待ち構えていた。
小さい頃からよく知っている男たちだった。一人は幼馴染ともいえる青年で、他は中年と、年寄りだった。なのに、なぜか彼らがいつも見ていたその人たちとはどこか違う存在に感じられた。
「そんな怖い顔してどうしたのさ。ここ、私が見つけたんだよ。すごいでしょ」
「……お前は禁忌を犯した。暴いてはいけない秘密に触れてしまったのだ。このまま幽閉せざるを得んかもしれない。とにかく、お前を村まで連れて行くから、わしたちに荒っぽい真似はさせないでくれ」
「……幽閉ってどうして?」
「理由は話せん。とにかくお前をここで捕らえなければ、この世界が危険に晒されるとだけいっておこう。それで十分だろう。一刻も早く村に知らせて、どう処分を下すか決定せねばならぬ。村を守るため、この世界を守るためだ」
——ってことは、もしかしてまだ村には知れてない?
だとしたら、ここはどうにか切り抜けて、彼らよりも先に村に戻るのだ。そして、村を出て、旅に出る。
そうだ、旅に出るのだ。どうして今までそんな簡単なことを思いつかなかったのだろうか。そもそも、村の外の世界なんてなにも知らない。もちろん村でできた作物を売りに街に行く人もいるし、隣村から人が訪ねてくることもあったけれど。村から一度も出たことないなんて、村人では珍しいことでもなんでもない。
でも、そんなのおかしいじゃないか。この世界は広いはずなのに、村の外にも広い世界が広がっているはずなのに、ここから出てはいけない理由なんてないはずだ。まるでここから出られないように、誰かが仕組んでいたかのような……。
リンダの頭の中を、一瞬にして考えが駆け巡った。もはや、すべきことはわかっていた。迷うようなことはなにもない。
「……閉じ込められるなんて嫌だよ。だって私、なにも悪いことなんてしてないのに」
「それが村の掟であり、この世界の掟だ。知らなかったでは済まないこともある。秩序を守るためには、しかたないことなのだ」
「……悪いな、リンダ」
幼馴染の青年がリンダの手首を強くつかんだ。同じように中年の男が反対の手首をつかんだ。そして持っていた縄で両手首をきつく縛った。
「どうして……ひどいよ。村の人はこのことを知ってるの?」
「……村の者もいずれは知ることになるだろう。悪いとは思うが、これ以外に方法はないんだ」
——やっぱり、村の人はまだ知らないんだ。なら。
「なら、私だってこれ以外に方法はないよね」
「リンダ? お前、なにを……?」
幼馴染の青年の顔に、彼女のおそれるような表情が一瞬浮かんだ。
「イクスリベルス」
リンダは呪文を唱えた。縄が解けたかと思うと、たちまちそれは男たちの手足に絡みついた。続けざまにさらにリンダは呪文を唱える。
「ウェルシュヴァルツ」
男たちが持っていた鍬や斧がにわかにその重みを増し、手から逃れて地面に突き刺さった。その間も縄は男たちの動きを封じるように絡みついて、ひとりでに彼らを縛り付けていく。
「リンダ、やめろ!」「お前、こんなことをしてはただでは済まされないぞ!」「馬鹿、取り返しがつかないって、リンダ!」
「……ごめんね。ちょっとのあいだの時間稼ぎだから。痛かったかな」
リンダは螺旋階段をゆっくりとおりるあいだに、いくつか呪文を覚えておこうと思い、ぱらぱらとページをめくって確認していたのだ。束縛を解く呪文であるイクスリベルスは、また、同時に相手の自由を奪う呪文でもある。ウェルシュヴァルツ重さを操るための呪文。男たちが手にしていた武器が手からこぼれ落ちたのは、急速にそれらの重みが増したからだ。
「待て、待つんだ、リンダ!」
後ろで男たちの声がする。次第に遠ざかっていく。
——そうか、螺旋階段で聞いていたあの足音は、きっとこれだったんだ。
声は小さくなっていった。
リンダの手は震えていた。逃げ切れたことに安堵していたものの、自分の手にした力の大きさに恐怖していた。
なんだってできると思ったが、それだけの力を得たことがいいことなのか、自分でも判断がつかない。この力を正しく使えるのか、あるいは彼らのいうように、取り返しのつかないことをしているのか、わからなかった。それでも、進む以外の道を、リンダには想像ができない。
——やるしかないんだ。
リンダは森を抜け、村に戻った。
村人たちはまだなにも知らない様子だった。だが、リンダにとっては誰もが信用できないような気がした。毎日のように見てきた景色が、まるで知らないものに感じられた。自分が、全くの異邦人になったかのような……。
家に帰り着いた。すぐに書棚の裏側を確認した。やはり、全く同じ本がそこにあった。
夜更け頃、リンダは小さな旅束を纏めて、村を抜け出した。旅に出るのだ。まだ、村人には気づかれていない。月明かりの下、暗い森を歩く。梟の鳴く声が聞こえた。
リンダは未知なる言語の秘密と力を手にいれ、新しい世界へ足を踏み出そうとしていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます