瀝青を割る③
「屋上、行く?」
日は西に傾き、東側の窓から見える景色は赤い日に照らされていた。
「屋上になにかあるの?」
エミリーの問いにユキも問い返す。
「ビオトープがある。屋上緑化の名残りかな。春の夕暮れを過ごすにはなかなかに気持ちのいい場所よ。それに、運が良ければ沈む太陽が見えるし、富士山も見える」
「へえ、ここからも見えるんだね」
「ユキの家からも見えるの?」
「うん」
ユキはそういってから、すぐに後悔した。エミリーの声には落胆の暗い色が滲んでいた。つい友達のように話してしまうが、親戚のお婆さんなのだ。見た目が若いせいで忘れてしまう。それに、ユキにはエミリーがどこか子供のようにも感じられた。
「……屋上行こうよ。ここから見える富士山の方が綺麗だろうしさ。うちからじゃあまわりのビルが目障りだもん」
「まあ、ヒカリエの屋上からもすぐお隣のスクランブルスクエアがなかなか目障りなんだけどね……」
「いいじゃん。どうせほとんど崩れちゃってるんだから」
スクランブルスクエアの高層階にもかつてはエルフが暮らしていたという。
百年ほど前から上層階が急速に植物に蝕まれ、じっくり崩れ、今では二十階ほどの高さになってしまった。
エルフと植物が感応し合うと、植生に爆発的な変化が生じる。スクランブルスクエアは当時、電気も通っていて、エルフたちが集中的に集まっていた。それが、植物の激烈な成長を促したのだろう、とエミリーはいう。
——ヒカリエも、いずれは同じ運命を辿る。
エミリーだけでなく、ヒカリエにはエルフが何人も住んでいるという。おまけに屋上にはビオトープがあり、植物の爆発的な変化がいつ生じてもおかしくないのだろうと思う。
「スクランブルスクエアそのものが今では一本の大きな樹木のようになっているからね。まあ悪い景色じゃないね」
「だよね。私も見てみたいな、富士山と夕日」
「……そう。じゃあ一緒に見に行こうかしら」
いつのまにかエミリーの声に鈴のような豊かな音色が戻ってきていた。どっちが子供なのかわからない、とユキは思う。
「うん、行こう!」
ユキも負けじと、努めて朗らかな声を出す。わんわんわん、と声は響いて、ジャングルのような観葉植物の葉を揺らした。
外側を一周ぐるりと囲むように低木が植えられていて、風除けになっているらしい。それでも三十階を超える高さなだけあり、風は強かった。季節柄もある。梅の花が咲き、メジロやミツバチが花の蜜を吸っていた。冬が終わり、春が始まろうとしている。その季節と季節の境目に沿って、強い風が吹いているのだろう。
「すごい……。よくこんな場所を作ったもんだね」
「ね。でも、高すぎるせいか、外から鳥や虫が訪れることは滅多にないんだけどね。ここにいる鳥や虫、植物、小さな魚や蝦、細菌とか茸なんかも、この小さなビオトープの中でしか増えないし、きっと生きらないんじゃないかな。外界とは隔絶しているから」
「そっか。それはそれで、ちょっと寂しいね」
「うん」
エミリーは頷いてから、黙ったまま西側の縁の方へと歩いて行った。ユキも黙って後に着いて行く。小さな池があり、その中央を二分割するように橋がかかっている。そこを渡った。覗き込むと、水の中で魚が泳いでいた。さらに進んだ先には、風除けの低木が途切れている場所があった。エミリーはそこから外へ出た。なにひとつ隔てるもののない空がそこに、ただ茫漠とひろがっていた。
「ほら、どうよ」
やはり、エミリーの声はどこか誇らしげだ。
「ほわあぁ……」
ユキはなにか適当な言葉を探したけれど、ため息のような間の抜けた声を発したきり、言葉が見つからなかった。
西の山の稜線に日が沈もうとしているところだった。富士山も見える。頂はまだ雪に覆われて白い。それもよくわからないくらい西の日の燃えるような赤が空を染めていて、高い場所から次第に紺色が滲むようにおりてきていた。昼夜がせめぎ合って、ゆずりあって、互いの美しさを競う瞬間だ。新宿からではこんな光景は一度だって見たことなかった。ヒカリエから見る空は特別だった。そして目線のすぐ下に、一本の樹木のように伸び、途中で頓挫したかのような歪な緑のビルがあった。終わる途中と始まりの途中とはよく似ている。今、今日が終わろうとしていた。
「さいっこうでしょ?」
「……うん。さいっこう!」
二人は並んでベンチに腰掛けた。言葉はいらない。ゆっくりと沈んでいく太陽をただ眺めていた。沈んでからもまだ空は赤く燃え、次第に光は弱まり、紫色から紺色へと変わると、不意に冷たい風が吹いた。
「部屋、そろそろ戻る?」
エミリーがいう。促すというよりかは、むしろもう少しここで過ごしたいと懇願するような響きがある気がした。
「うーん、どうしよっかな」
ユキは判断できず、曖昧に答える。
「冷えてくるから毛布だけ持ってこよっか」
「それ、さいっこう」
エミリーが立ち上がった。ユキも立とうとしたが、ぱっと目の前に光が閃いた。エミリーが手のひらを広げて、ユキを制止した。手のひらの、肌の下の薄く透けて見える静脈が、蛍のようなあわい光を放っている。すっかり暗くなっていた。
「私が持ってくるから。それに、ほら。宵の明星ね。すぐにたくさんの星が見えるから」
「ありがとう」
ユキはひとりだった。
ビオトープでは、夜になっても水の流れる音や、鳥や虫、魚の気配がどこからか感じられた。地上から隔絶された楽園のようでもあるが、空の小さな空間に閉じ込められた牢獄のようでもある。毎日のように鮮やかな落日を目にしているエミリーが、楽園に暮らしているのだと思いたかった。
しばらくしてエミリーが戻ってきた。橙色の空と一緒に金星は沈んだ。その代わりか、まだ冬の名残のある星々が空に少しずつ現れてくる。シリウス、プロキオン、ペテルギウス。双子座のカストルとポルックス。ぎょしゃ座のカペラ。おうし座のアルデバラン。エミリーの口から出てくる言葉は耳に馴染みのないものばかりで、エルフのおまじないか何かのように聞こえた。
「ユキはプラネタリウムって行ったことある?」
「ないよ。だって、東京のどこにいたってこんなに星が見えるのに、そんなの行く必要ないじゃん」
沈む太陽といい、この星空といい、どうしてか新宿よりもずっと美しく感じられた。不思議だ。空気は変わらないし、光だって山手線に沿って淡く残るだけでほとんどない。同じ空のはずなのに、どこか違っていた。そんな空をいつでも眺めることのできるエミリーへの嫉妬だったのだろうか、声にはいくらか棘があるような気がした。
「あはは。だよね。昔さ、渋谷にもプラネタリウムがあったんだよ。桜坂をのぼった場所なんだけどさ。そこによく通ったの。渋谷で唯一、静かに時間の過ごせる場所だったわ」
「ふーん、そっか」
「私はね——」
エミリーは時間を惜しむかのように言葉を紡いでいく。絶え間なく、滔々と言葉が流れていく。春の夜のなんとなく不穏な空気のなかで鳴く鳥や虫の声に似ていて、新しい命が溢れる季節への期待と、同じ数だけ生まれる死への不安をはらんだような、鈴のような震える声。
「星の名前も星座の名前もぜんぶそこで覚えたの。六回通うとね、一回分だけ無料で入れるから、毎回チケットを取っておいて、七回目のときは必ずといっていいほど好きな解説員さんの回を選んだ」
「好きな?」
「……うん。私の好きな人」
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