瀝青を割る
瀝青を割る①
ユキは山手線に乗って渋谷に向かった。
渋谷が谷だというのは嘘ではない。山手線は土手のように高くなった場所を通って、高いビルの群れを縫うように進んでいく。代々木を過ぎたあたりから樹々がにわかに高さを増して、しばらく電車は樹々の梢を見上げながら走り、原宿を過ぎてからはビルや樹々に深く沈んで、最後には森の奥の洞窟にでも潜るかのような薄暗い谷底の駅へとたどり着く。相変わらずホームは暗かった。
実際のホームは底からは遠い。ただ、印象的には谷底といって相違ない。
渋谷はかつて、若者の街として栄えたという。今では古びたビルが樹々のように並び立つだけで、中身はほとんどからっぽ。あるいはどこからか流れてきた人々が勝手に棲みついていて、不気味な静寂が満たしているだけ。ビルの大半は壁面緑化と自然の脅威的な回復力により鮮やかな木の葉や草で覆われていて、人の棲みつかないビルに至っては、倒壊しているものもある。谷底に沈んだビル群と森の樹々の奇妙な調和がある、衰退した街だった。
電車を降り、改札を出た。デッキ広場からは樹々に囲まれたスクランブル交差点が見下ろせる。交差点というよりは、草のしげった広い原っぱのようだった。周囲を低木が囲っていたものの、高い樹木は見当たらない。そこを一日に数十万人が行き交っていたといわれているが、事実かどうかは疑わしい。外国から観光客も訪れ、写真や動画を撮影する人も多かったという。どうしてこんな原っぱを見によその国の人が来るというのだろうか。アスファルトの地面と行き交う人々と点滅する信号機とネオンと、ユキにはどうも判然としない。
デッキの最上階まで階段でのぼり、ヒカリエへと向かった。
銀座線の渋谷駅の天井が道になっている。床はガラス張りで、傷や汚れで白く濁っているものの、中に展示されている車両は百年以上前の姿を残していた。
樹々や草木が繁茂した渋谷の風景からは切り離され、冷たく輝く無機質な過去の記憶が滞っている。博物館に並ぶ恐竜の化石みたいだ。かつてその車両が動き、多くの人々を輸送していたのだと想像してみると、なんだかおかしい。表面のガラスはいずれ経年劣化で割れ、鳥が種子を運び、植物が芽吹き、育ち、ガラスをさらに破り、この道だって崩れていくのだろう。自然の時間はのんびりしたものだが、人の繁栄の記録を着実に削ぎ落としていき、たっぷり降り積もった時間の下に隠してしまう。ここだけは、まだ少し遅いだけだった。
明治通りは草木が鬱蒼と繁茂し、遠くまで見通すことができなかった。恵比寿の方へとさらに進んでいけば、渋谷や新宿ほど自然の支配は及んでいないはずだ。
——まだ、だけどね。
アスファルトやコンクリートを割ってひとたび草が生えれば、それを契機に次々と草が割って芽吹き、低木が根付き、落ちた葉や枝を小さな虫や細菌が分解し、土を作り、さらに樹々は成長する。最後にはクヌギやクスノキなどの広葉樹が立ち並ぶようになる。新宿や渋谷のように。
自然の循環。回復力。外国ではレジリエンスなどというらしい。産業革命以後、世界の自然は急速に失われていって、地球全体の生態系の喪失、大量絶滅が危ぶまれた。確かにその通り、多くの種が絶滅したのだろうけれど、既存の動植物はたったの数世代で環境に適応し、むしろ勢力を拡大していった。
そう、なにもかも時間の問題だ。
ユキはヒカリエに入り、最奥の非常階段で高層階を目指した。
エミリーがユキにとってなんて続柄に当たるのかわからない。血が繋がっていることは確からしいが、関係性を説明するのに相応しい一語が日本語に存在しているのかすら知らないし、関係を一度整理してから調べてみる気にもならない。そのくらいに、血縁があっても遠い人だった。
数年前、大叔母の紹介で二人ははじめて顔を合わせた。若く美しいエミリーを見て年が近いのだろうと思った。同世代は稀だから、少しは期待した。だが、実際は二百歳間近だという。例の病だった。
二十一世紀半ば、全世界に猛威を振るった疫病は多くの命を奪った。十九年に発生したコロナウイルスの大流行の比ではなかった。正真正銘のパンデミックは世界人口はあっという間に半分近くまで減少させ、中でも日本は悲惨で、九割近くの人々が命を落とした。一方で、生き残った一割の人々には奇妙な変化をもたらした。その多くは見るからに若返った上に、永遠とも呼べるような生命力を得たという。
彼らは不老不死や長寿の研究者たちにエルフと呼ばれた。
誰もが若く美しく、肌や瞳、髪の色素を失い、空のように澄んでいた。彼らに生じた変化の背後にどのようなメカニズムがあるかを調べる間もなく、全人類は瞬く間に衰退へと向かった。不老長寿どころか、次の日に食うものがないとなれば、研究にうつつを抜かしてもいられないといったところだろうか、もしくは単に研究者たちの多くが命を落としたことで、単に人材が不足していただけかもしれない。
そんなエルフに謎が多いというだけでなく、エミリーにも謎が多い。
大叔母の話では、彼女にとっても遠い親戚にあたるのだという。大叔母は母方の祖母の妹にあたる人で、確実にユキとの血のつながりがあった。その大叔母が遠い親戚だというのだから、エミリーとユキは確かにどこかでつながっている。
階段をのぼる。長い。ヒカリエの階段には、ところどころ気休め程度の照明が施されていたが、どうにも暗かった。カツン、と自分の足音が響くと、しばらくしてからどこからかその足音が返ってきた。中層階まで至った証拠だ。息が切れてきた。太ももが引き絞られるように痛み、筋が引っ張られる感覚があった。苦しい。ペンライトで照らし、階の表示を確認する。二十五階。エミリーが住む三十階まであと少しだった。
二十七階からは照明が少しだけ増えた。一段いちだん、踏みしめるようにのぼった。足が重い。踏面に足をのせ、次の足を持ち上げようとするにも、手すりの助けを必要とした。さらに明るさが増す。ようやく三十階に辿り着くと、無骨なコンクリート作りの長い通路があった。そこに、それぞれ十数メートルの間隔を保ちながら、扉が何枚か並んでいた。一枚だけ浮いている。剥き出しのコンクリートにはどうにも不似合いの、木製の無垢材の扉があった。
ユキはその前に立ち、息を整えようと思った。が、整える間もなく、にわかに扉が開いた。
「あら、お久しぶりねえ」
エミリーはまるでなにも待ってなどいなかったかのように、のんびりした調子でいった。約束の時間をとうに過ぎていた。それに、まだユキの方では準備ができていなかった。不意をつかれた。
肩で息をしながら、喉からなんとか声を絞り出した。
「……ご無沙汰してます」
銀色の髪は照明のしたでも金属のような冷たい光を放っていた。肌は透明で、その下の緑と紫の静脈が浮いて見えた。電気配線が有機的に伸びていたらちょうどそんな感じかもしれない。
エミリーは人間なのに、どこか木のような生々しい冷たさがある。嫌いじゃないけど、気を許せそうもない。油断すれば一瞬にして自分が飲み込まれてしまいそうな、静かな迫力。人間にも、植物にも、あるいは機械にだって似ている。もしかしたらどれにも似ていない。なんとも不思議な存在だった。
——なるほど、これがエルフか。
会うのはこれで何度目かになるのに、いつものようにそう思う。
ユキは物語のエルフのことをほとんど知らない。
エルフの物語が、これからはエミリーによって上書きされていくのだ。と、同世代にしか見えない美しい少女を目の前にして、ユキはぼんやりそんなことを考えていた。
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