夜明け⑧
春になって小麦が十分に伸びれば、細かな仕事は急激に減る。つまり、収穫までの間は、トマスの活躍の場が失われることを意味した。
トマスの焦りはますます高まっているようだった。
初夏になると小麦は勢いよく成長を続け、その分だけ、カラスミロスの肥やしと、雨とを必要とした。アリアンはもちろんのこと、リリスをはじめとした四人の奴隷は大いに役立った。
トマスはただひとり、風や水の及ばない小さな区画をその手と足を使って追肥して回った。それだって重要な仕事であるはずなのに、トマスは、マルコやレナートが彼を認めるようなことをいっても、素直には受け取れない。彼のその貢献を認める言葉は、どうしたって届かないようだった。
「まあ、若いからね。思春期のようなものだろうよ」
レナートがいった。
一日の作業が終わり、皆はグレイの家に戻っていた。グレイはちょうど街に出ていたため、マルコがその留守を任されていた。
窓の外を鮮やかな橙色の空が埋め、部屋のなかも薄暗い。灯したばかりの蝋燭の火が憂鬱そうに揺れながら、今にも消えそうな光を放っていた。夜が近い。
「……そう単純に割り切っていいものか」
マルコにとっては一大事だった。というのも、順調に進んでいた農場の状況とは裏腹に、春先から妙な胸騒ぎが消えなかったからだ。原因がトマスの存在だとはいいきれないが、さしあたって他に注意すべきことがあるようにも思えなかった。目にみえる唯一の懸念がトマスのことだったのだ。
「トマスの力さえ使えるなら、僕は四倍だって不可能じゃないって思ってるけどな」
アリアンがいった。
彼のいうとおり、もしトマスの力がリリスに匹敵するならば、四倍の収穫量は単なる夢物語ではなくなる。そうなればきっと、森を守るというだけの話にとどまらず、奴隷を解放するという確約だって王から引き出せるかもしれない。そして、人間と奴隷の隔たりがなくなり、多くの人が自由に生きられる国を作ることができる。
——そして、自由とはなにか。
リリスの問いかけが今でも耳の奥で長くとどまり、こうして何度もマルコに問いかけてきた。マルコ自身、奴隷の身に落ちるのを避けるために、グレイの元へと駆け込んだ過去があった。グレイの保護の元で生きることが自由だったのか。あるいは、監視人としての仕事をしながらも、食うに困ることもなく生きることが自由だったのか。今、こうしてグレイの農場を手伝いながら森を守ることや奴隷たちの立場を少しでも良くしようとすることが自由なのか。
——少なくとも今、トマスが誰よりも縛られている。
トマスが囚われているのは、自分が無能なのではないか、何の役にも立たない存在なのではないかという不安だ。誰もがかかえる感情だ。マルコだって例外ではないし、アリアンもレナートも、あるいはグレイだってそうかもしれない。トマス以外の四人の奴隷もそうだ。集団の中で他者に対して貢献できるかは、その人間の価値を決めるように錯覚するものだ。
だが、誰かの役に立ったとして、能力が証明できたとして、それは本当に自由の根拠となるのだろうか。
リリスがいうように、どうせ人はいつか死ぬ。いずれは死が待つ身の上で、つねに死を恐れる身の上で、人間が自由だといえる瞬間など存在するのか。奴隷であろうと市民であろうと、誰もがこの大きな牢獄の中ではいつ執行されるともわからない死刑を待つだけの囚人なのではないだろうか。そして、それが下された後、なにひとつとして残るものはない——。
「マルコ?」
「ああ、すまない。ちょっと考えごとをしていた……。少なくとも今はまだ四倍の収穫量ってのを目指す段階ではないし、そんなことを考えればかえってトマスを焦らせることになるかもしれない。具体的な解決策もないのだからしばらくはそっとしてやるのがいいんじゃないのか」
「まあ、そうかもしれないけど……」
やはりアリアンは納得いかないらしく、腕を組んで悩ましい表情を見せた。
「明日の朝も早いんだ。もちろんアリアンにもたくさん働いてもらう。人の心配をするよりもまず、自分の体力の心配をするんだな」
「……わかったよ。もう寝る」
アリアンはまだ言いたいことがありそうだったものの、納戸のような奥の小さな部屋へとこもった。その晩、それきり出てこなかった。
翌朝、まだ早い時間にグレイが街から戻ってきた。農場で作業する奴隷たちをマルコとレナートとが並んで監視しているところへ直接、急用を伝えに来たのだ。
「王からお達しがあった。今年の夏の収穫から三倍にしろ、とな」
レナートが驚きと共に眉を寄せ、半ば憤るような口調でいった。
「そんな馬鹿な。二倍でもすさまじい成果だというのに、三倍なんて。はじめから無理な要求じゃないですか」
「いつまでも森を切り倒さないわけにもいかないということだろう。冬の間、奴隷たちに束の間の自由をやったのが悪かったという。妙に活気だっているというか、農場ではどうやら胡乱な気配が漂っているという噂だよ」
「なるほど、王の真意はわかるけれど、奴隷たちの空気が変化するというのもわかる気がする。この農場でも変化はあった。それがあれだけ大規模となると、今の監視人の数で管理するには無理があるだろうね」
「まあ、そんなところだろう。奴隷というのは徹底的に気力を削いでやるのが監視するのに一番容易だからな。信頼関係を築けば生産性はもちろんあがるが、それだけ緻密に奴隷たち個人との対話が必要になってくる。それをできる監視人も臣下もおらんからな」
「そんな……。ようやく二倍というのが現実味を帯びてきたというのに」
「まあ、やってみるしかないだろう」
マルコがいった。
胸騒ぎはこのことだったのだろうか、とマルコは思った。直轄の奴隷農場との力関係をあらかじめ考慮に入れるべきだったと反省する。が、今となっては遅い。グレイは引き続き政治を続けてくれるだろうが、マルコはマルコでグレイの農場を任されているからには、現状でできることを積み重ねていくしかないが……。やはり、打開策はひとつしかない。そのひとつは、一人の奴隷を犠牲にしかねなかった。
「まあ、そうなるとトマスをどうにかするしかないよね」
いつからそこにいたのか、アリアンが傍に立っていた。
「一か八かの賭けになるな。焦りが彼を潰してしまうか、才能を開花させるか」
「どっちにしても僕たちにできることなんて少ないとは思うけどね。後押ししようにもどんな言葉も届かないんだから」
「ああ、言葉なんて無力だな」
「そうかもしれない」
午後になり、アリアンはトマスを呼び出した。
他の四人たちはそれぞれ風や雨を駆使しながら、広い農場を余すことなく豊かに肥やし、また、清らかな風で病や虫を遠ざけていった。だが、それでもまだ手が足りない。必要なのは三倍なのだ。
「トマス、久々にちょっと試してみようよ」
「おらには魔法なんて使えません。村でも、奴隷になってからも、魔法なんてものは一度だって使ったことはありません。見ればわかるでしょうが、おらにはエルフの血など流れていないんです」
「君に無理かなんて聞いてないよ。それは僕たちが決めることだから。さあ、試すよ」
アリアンの口調は今までにないほどきつく、冷淡で、有無を言わさぬような重みがあった。
「手をあげて」
トマスは黙ってアリアンのいうとおりに、手を高く掲げた。アリアンはその手をつかみ、風を呼ぶ呪文を唱えた。
「シンディリス・アルカラミア」
アリアンの手の平からあわい緑色の光が漏れ、高い空にのぼっていく。
「さあ、トマスも唱えて」
「……シンディリス・アルカラミア」
張りのない、気の抜けた言葉は空虚に宙に消えた。魔法云々の問題ではなく、これではどんな言葉だって通じない。対話を諦めたものの声は、どんなものにもその声が届かなくなるのだ。
「さあ、もう一度」
「シンディリス・アルカラミア」
なにも起こらない。風を呼び、雨を降らせることまでは、アリアンと四人の奴隷の力でどうにかなった。だが、高い空の雲を晴らすことまではまだできなかった。六人のエルフの血を用いれば、それも可能なはず。あるいは、七人ならもっと確実に。アリアンはそう考えていた。
「さあ、また」
「……シンディリス・アルカラミア」
農場では四人がそれぞれカラスミロスを巧みに引き込み、降らせていた。肥やしの風は尽きることなく吹く。自然の循環に、ほんの少し力を貸してやればいいのだ。風の声をよく聞く。風の気配を感じる。風と対話する。風に囁く。なにも信じないトマスにとっては、その一つひとつがますます難しくなる。悪循環に陥っている。
「……やっぱりおらには無理です。時間がもったいねえので、手や足を使って働かせてください」
「……ああ、わかったよ。頑張ってくれ」
トマスは背を丸め、寂しげに丈の伸びた小麦畑の中へと紛れていった。
西の空から暗雲が垂れ込めてきた。鈍色の雲から灰の帷がおりるように景色が閉ざされたかと思うと、たちまち遠雷があたりに轟いた。
「引き上げよう。ちょっと荒れそうだ」
農場全体にできるかぎり届くよう、レナートは精一杯の大きな声を張り上げた。それも遠雷にたやすく消される。
「引き上げよう」
また、声を張り上げた。
西の雲は次第に真上に迫り、またたくまに周囲が闇に包まれる。さっきまで烈しく照っていた太陽はどこへやら、大きな雨粒がぱちぱちと小麦の葉を打ち始める。
「さあ、急げ、急げ!」
もはや怒鳴り声だ。トマスも同じように叫び、奴隷たちも互いに声を掛け合っては、逃げるように畑の中から出て、宿舎へとつながる農道へと駆けた。レナートやトマス、アリアンもまた、彼らとともに奴隷の宿舎へと避難した。グレイの家に行くよりもずっと近かったからだ。
「みんな大丈夫か」
レナートが避難してきた彼らを見る。アリアンとトマスはもちろんいる。レイラ、ケイン、アリアもいる。リリスが遅れて戻ってきた。足りない。
「……トマスは?」
リリスがいった。
「馬鹿野郎が、あいつ、戻ってきてないんじゃないだろうな。声が聞こえなかったわけがねえ」
レナートが雨に濡れた頭をかきむしるようにしてしずくを払った。
「責任感の強い男だ。作業が遅れぬようにと、まだ作業をしているのかもしれない」
「馬鹿野郎。こんな中でなにができるってんだ」
レナートがそういった瞬間、青い閃光が闇を切り裂いた。それはプラタナスに真っ直ぐに落ち、たちまち赤い炎をあげた。
「……待つしかない。危険だ」
「同感。助けるにしても、僕らの安全を確保できてからだよ」
宿舎の庇の下で雨を避けながらも、四人の奴隷たちはなにかいいたそうに監視人たちを見ていた。
「どうすることもできないだろう」
「……わかっています」
ケインがいった。
一番離れた場所でリリスがうつむいていた。彼女は誰とも視線を交わそうともせず、濡れた地面をじっと見つめ、ひとりなにかを考え込むようだった。そして、不意に思い立ったように顔をあげると、言葉もなく雨の中へと飛び出した。
「おい、リリス!」
レナートの声はむなしく雷鳴にかき消され、リリスの姿もすぐに見えなくなった。
マルコは苦しさを感じたかのように、ぎゅっと胸のあたりの衣をかたく握りしめると、その表情を歪め、睨むようにして暗い雨の中の麦畑を見た。
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