星の輝きの下で③

 一日で雲の上に出ようと思えば、行けないことはない。だが、大量の荷物と疲れを考慮すれば、どこかで一度ゆっくりと休むほうが効率がいい。エドははなから休憩を兼ねて、夜のうちに簡単な観測を始めるつもりだった。街から遠く、しかも空に近い場所を求めていたからこそ、山小屋では休憩をしなかったのだという。

「山の日暮れはとても早いんですね。わかってはいたのですけど……」

 太陽はとうに山の向こう側に隠れ、東の空を濃い藍の夜が覆い始めていた。

「そりゃね、山に近ければ近いほど早く日は沈むから。まあ東の外れのあたりはまだ日が当たってるだろうけどね。……ほら」

 今まで登ってきた道を見下ろすつもりで振り返ると、大きな景色が広がっていた。そこには山の稜線と日の光の境目に正確に線を引くかのように、南北に渡って長く影が伸びていた。

「はぁ……美しい景色ですね。セリアさんはこの景色の中で育ったのですね」

 セリアは背後から聞こえた言葉に反射的に拒否反応を示した。全身が総毛立つのがわかった。遠くにかすむように見える牧歌的な風景のなかに隠された不条理を、エドは少しも知らない。農場では、人は人として扱われることはなく、種や肥料や家畜と同じく、生産のための手段にすぎない。何故この男についてきてしまったのだろう、効率よくお金を稼げていたはずなのに……。にわかに激しい後悔が襲った。


 ——パシンッ、と鞭の弾ける音が耳の奥で鳴った。

 背中の皮膚が破けて血が滲み、痛みで膝の力が抜けてしまうのを必死にこらえる。膝を突きでもしたら、すぐにでも次の鞭が打たれる。それを身体が覚えていた。セリア以外の奴隷たちは否応なしに次の鞭を受け入れた。彼らははじめから諦めていた。どうせなにをしたところでここから逃れる術などないから、どうせ鞭で打たれるのだから、一生懸命に働くのも手を抜いて理不尽に苦しめられるのも結果は同じことなのだと……そうした農場に蔓延していた精神から逃れるために、セリアは誰とも交わらなかった。交われば同化してしまうと理解していた。だからこそ、セリアは他の奴隷よりも余計に鞭を喰らった。懸命な判断だったのか、今となってはわからない。鞭や他の罰によって動かなくなった奴隷はいくらでもいた。

 奴隷が使いものにならなくなると、監督官も同時に罰せられる。そうなれば罰は緩むように思うが、実際は逆のことが生じた。ひとり奴隷が死ぬと、罰はより厳しくなり、生産性が落ち、生産性が落ちると、さらに罰は厳しくなった。となれば、さらなる奴隷が必要になる。農場の規模が大きくなるにつれて、奴隷はそれ以上の速度で増えていった。

 セリアはそのうち増えすぎた奴隷に紛れるようになった。自分を消すこと。集団に紛れて、普段は人から見えなくすること。鞭を喰らう機会は減った。幼少期から働かされていたことで他の者よりもずっと仕事はできたし、手や足を止めずに一日中働き詰めでも嫌な顔一つしなかった。他にもそういう奴隷はいたし、監督官に目をつけられるのは、反抗心をむき出しにする愚か者か、労働に不向きな愚図だけだった。

 ある日の朝、街から奴隷を買いにくるものがいるとの噂がたった。そうした噂は頻繁にたつものの、実際にそうした機会が訪れるのは十回に一回あれば良い方だ。奴隷たちのここから出られる唯一の手段が、農場の外から来たものに買われることだったため、噂が立った日だけは元気よく、威勢よく働くものが増えた。監督官もそれを理解していたために、噂をうまく活用する。噂の効果で生産性が向上するからだ。だが、今回の噂はどうやら真実らしかった。

 セリアが農場で働き始めると、畦道を歩く二人の人の姿があった。一人はよく知っている男で、ここの農場主であるヴァルガン・ブラックハートだった。だが、もう一人の中年の女は、どう見ても畑仕事をするような類の人種ではない。体格はよく、溌剌としてはいるものの、毎日のように土に触れているような野暮な雰囲気はなく、派手でなくともどことなく洗練されている。街の人だった。その人の声が聞こえた。

「働き者で頭のよく回る子供が欲しいんだよ。祭りが近いもんでね」

「ああ、でしたらあそこの少年なんかはいかがでしょうか」

 セリアは会話を聞き逃しはしなかった。ヴァルガンが示した少年は持病持ちで、長くはないだろう。見た目にそれがわからない上に、発作的にしか症状に現れることはなかったため、お払い箱にするにはうってつけだった。だが、それでは買い手は損しかしない。どうにかそこに割って入る隙を見つけなければならない。セリアは手を動かしながらも、なにか策がないかと思案していた。

 聞き耳を立てながら、課された作業を最大限に効率よくこなす。まずは動かなければ目に止まることもない。周囲の奴隷たちはまだ、自らが品定めされていることに気づいていない。

「うーん……確かに男手はとても助かるわね。でも、どこか気が抜けているというか、酷使しすぎなんじゃないかしら。あんたたち、召使たちにはきちんと食事を取らせてるの?」

「もちろん! 農場の奴隷……いえ、召使どもには、労働に値する食料と居住空間を与えておりますよ。だからこそ、これほどの巨大な農場の運営が成り立っているのではないですか。ヴィクトリアさんだって、そのことはご存知でしょう?」

 その言葉には含意するものがあった。ヴィッキーもまたこうした農場に働き手を探すからには、貧富の差や残酷な仕打ちが背景にあることを今まで看過してきたということだった。誰かを咎めることはできない。最も悪どい商売をしている農場主のヴァルガン・ブラックハートですら、誰も咎めることはできない。経済の仕組みの中で、法に則り、正当な手段で人を道具として扱っているだけだからだ。ヴァルガンと同じく、ヴィッキーも人間を労働力として買いに来ている。なにひとつ否定すべきところがない。

「ああ、その通りだともさ。あんただってわかるだろう。こちとら商売で来ているんだから不良品を売りつけられても困るわけだ。もっと良質な商品を、少なくとも値に見合った商品を売って欲しいんだよ。すぐに壊れるもんじゃなくってさ」

 ヴィッキーはヴァルガンに協調するような態度を見せた。

「……さすがはスターライト・レトリートの女将、今は亡きスターライト旦那の意思を継ぐどころか、ずっと強い志と慧眼をお持ちのようでして。……となれば、どの奴隷をご所望で?」

 セリアはその瞬間、ヴィッキーと目が合うのがわかった。彼女はヴァルガンに足元を見られぬように、ほんの刹那、セリアに合図を送ったものの、何食わぬ顔で農場主に向き合った。

「あの少年はどうかね。よく働くようだし、動きも機敏、さらにはいくらか賢そうでもあるよ。あれなら五百は払ってもいい」

 交渉が始まった。セリアはすでに目をつけられていることを意識していた。となれば、二つの選択の中庸を見出さなければならないことになる。

 ヴィッキーにとっての最安値で買ってもらうこと。ヴァルガンにとってはお払い箱にせざるを得ないと思わせること。手のかかる奴隷は能力が高くとも手放したいはずだ。だが、そこからはそれなりの利益を得たいとも考える。買い手からすれば、値切るための交渉材料が欲しい。差し引きの均衡が取れる場所をセリアは見つけ出さなければならなかった。

 とにかく奴隷の骨の髄までしゃぶり尽くしてやろうというのが農場主の考えだ。逃れるにはそれなりの運と力が必要だ。

 セリアはわざと手を止めた。当然のように、監督官の鞭が降ってきた。膝から崩れ落ち、地べたに這いつくばった。

「馬鹿野郎が! 手を止めるなって何度言わせる気だ! 立て、ほらっ、立ちやがれ!」

 さらに鞭が飛んでくる。避けもしなければ、腕で防ごうともしなかった。痛みや苦しみには意味があるとしたならば、今、この瞬間だけだ。一か八か、やってみるしかない。同情心を煽って買わせるなんて手段は、セリアの自尊心が許さないはずだったのに、この時だけは、なぜかそうするしかないと思った。

「クソッ! いつまで寝てやがるんだ! 立てってんだ!」

 鞭が背を強く打ち、服の下で肌が裂けるのがわかった。痛みや苦しみには慣れきっている。慣れきっているが、受け入れたわけではない。怒りが込み上げてくる。生という理不尽、生まれてきたらその生にしがみついてしまうという理不尽、暴力という理不尽、自由を奪われる理不尽。セリアは怒りを叫びに変えた。雪熊が威嚇するかのような太く低い叫びだった。

 唐突な叫びに驚いたのか、鞭を打っていた監督官は驚いて飛び退いた。もちろん、その叫びは農道を歩くヴィッキーとヴァルガンのところまで届いていた。

「ありゃ、いかれちまったかな……」

 ヴァルガンは、隣を歩くヴィッキーに聞こえるか聞こえないかの微妙な声でつぶやいた。奴隷一人が使い物にならなくなる損失を頭の中で計算し、チッと舌を打った。それはヴィッキーにもしっかり聞き取れた。

「ちょうどいい、あの娘をもらうよ」

「正気ですか? ありゃきっともう戻らないですぜ」

 セリアは叫び続けていた。さっきよりも高く、薄い声になっていた。喉がつぶれて声は掠れていった。怒りであったはずの声はやがて、咽び泣くような、息を吸うのも吐くのも拒むような嗚咽へと変わっていった。驚いて手を止めていた監督官は、あわてて声を荒らげた。「愚か者! お前の代わりなどいくらでもいるのだ、ゴミクズが! この場で首を掻き切って、畑の肥やしにしてやろうか!」

 さらなる鞭が飛んだ。セリアは背中を打つ鞭の痛みなどもはや感じず、この世界に対する怒りと、悲しみとで、心が押しつぶされそうになっていた。一つ演技をしてやるつもりだったのに、演じる自分を追いやるように、今まで心の奥に押し込めてきた感情が溢れ出してしまった。どうして、こんなはずではなかったのに、壊れてしまっては、冷静さを失ってしまえば、手が差し伸べられる可能性だってなくなってしまうというのに。嫌だ、もうこんな世界は嫌だ、どっちにしろ今日でおしまいにしてやる。これで全部、最後だ、もう最後なんだ。最後なんだ。

 不意に、振り下ろされる鞭が止んだ。もはや嗚咽すら漏れず、虫の息で地べたに這いつくばるだけだった。雲間から日がさすかのように、にわかに周囲が明るくなった。セリアは顔をあげた。

「あんた、うちで働かないか」

 水をたたえるような鳶色の瞳が彼女を見下ろしていた。

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