第6話 悲鳴
蜂ヶ谷は旅を続けていた。道端で苦しんでる老婆がいたので助けてあげた。彼女は喘息だった。
老婆から周遊きっぷをお礼にもらった。
都之城にやって来た。天授元年/永和元年(1375年)、島津氏の支族である北郷氏(都城島津氏)第2代当主北郷義久が築城し、以後北郷氏の本城となった。
都島に築城されたために都之城と名付けられ、後に一帯の地名の由来となった。『庄内十二外城』と呼ばれる支城群を備え、都城盆地全体を守る構えとなっていた。
築城後の天授5年/永和5年(1379年)、宗家で従兄の島津氏久が室町幕府の九州探題今川了俊と争い、北朝から南朝方についたため、了俊の5男満範が率いる南九州の国人衆の大軍(南九州国人一揆)を迎え撃つこととなるが、辛くもこれを撃退している(蓑原の合戦)。
伊集院氏が支配していた慶長4年(1599年)には庄内の乱の本拠地となった。庄内の乱後、再び北郷氏支配となるが、元和元年(1615年)、一国一城令により廃城となり、北郷氏は現在の都城市役所敷地内にあった領主館に移る。
現在の城址は城山公園として整備され、本丸跡には城郭風建築の都城歴史資料館が建てられている。また、本丸から掘割を渡った西城跡地には、神武天皇を祭る狭野神社が建立されている。なお、南側は日豊本線により分断されており、さらに南まで城域を有していたが、現在では住宅地となっている。
都之城は大淀川の突き出す台地にあり、壮大な空堀と水堀で多数の曲輪を作り出す、いわゆる南九州タイプの典型例である。また、城の北西に「取添」と呼ばれる外郭があるが、伊集院氏が取添をつくった時期は文禄4年(1596年)から慶長5年(1600年)に限定され、その早い時期に島津氏との抗争がありうるとの判断で、城郭本体部の外で最も危険な場所に最前線の曲輪をつくったと考えられる。
「キャーッ!」と悲鳴が聞こえてきたので、蜂ヶ谷は悲鳴がした方へ向かった。蜂ヶ谷は周囲の人間と協力してドアをぶち破った。現場は書斎だ。初老の男性の遺体が床に転がっていた。部屋のドアは施錠され、内側から鍵が差し込まれていた。窓は50センチほど開いていた。
蜂ヶ谷は遺体に魔法を掛けたが無駄だった。
「外からこの隙間を通して撃たれたのかな……」と、蜂ヶ谷。入射角を見ると、射撃地点は中庭の池になってしまう。
駆けつけた捜査員が徹底的に調べたが、空薬莢は見つからなかった。
豊臣警部は不可解なことに気づいた。背中を撃たれたのにスーツには穴が開いてない。
「犯人は射殺したあとにスーツを着せたのか?」
蜂ヶ谷は取調べを受けたが、石川警部補が「彼は怪しいところはありません」と言ったので釈放された。
城に来たのは昼過ぎだったが、城から出ると宵の明星が輝いていた。蜂ヶ谷は真犯人を憎んだ。奴のせいで旅行が頓挫した。
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