第3話 入学式の騒動

(入学式の騒動)


 そして、入学式は体育館で開かれた。


 体育館といっても、この中学校の体育館は少しばかり違う。


 中学校の地域に、ピアノをはじめとする楽器製造会社の本社ビルがあったおかげで、体育館改築のおり、この会社の資金と街とで、地域の人にも利用できる、楽器の街にふさわしい多目的ホールを建設した。


 普段は中学校の体育館として使い、夜や学校の休みなどは、地域の人に音楽会や演劇など文化面においても使用できるように設計された。


 そこには最新の音響設備を整え、バスケットコート四面が取れるフロアーの回りには、三千人を収容できる観客席が設けられていた。

 実際、この街の交響楽団がここを住処に活動していた。


「うっを―お―! 凄い体育館だね―」

 麗子があたりをきょろきょろしながら、はずむような声をあげた。


 さすがに音楽堂をかねるだけあって、鉄骨むき出しの体育館とは違った。

 しかし、愛美は体育館の美しさも気に入っていたが、舞台正面から聞こえてくるピアノの演奏に注目していた。


「レイ、凄いピアノだね。誰が弾いているのかしら……?」


「そうねー、少しは出来るわね……」


「でも、あのピアノ、音がへんよ?まるでガラスを叩いているような音……」

 愛美は、演奏もさることながら、ピアノそのものに聴き覚えのない不思議なものを感じていた。


「そうねー。弦の濁りがない。それに立ち上が速すぎる。電子ピアノ?」

 麗子は、いち早く最近流行のコンピューター仕掛けの電子楽器を思い浮かべた。


 しかし、愛美は……

「電子ピアノにしては音が生きている。スピーカから作られた音ではないのよっ!」


「何かしら……? ね―え、後で行ってみない?」


「うんっ!」


 二人の気持ちは、もはや入学式よりも、謎めいたピアノに心を向けられていた。


 式は、四十分ほどで終わった。

 そして、新入生の退場に合せて、またあのピアノの演奏が始まった。


 各組それぞれ教室に向かう流れの中、愛美と麗子は、流れとは逆に舞台へと急いだ。

 そして、ピアノに近づくほど、その音は更に勢いを増し、愛美たちの心を高鳴らせた。


 ピアノは、床より三段高い円形の舞台の上に堂々とした存在感をもって置かれていた。


「やはり、この先生、桁外れに上手い!」

 愛美は、麗子に耳打ちした。


 会場の新入生が全員退場したところで演奏は終わった。


「先生、私にも弾かせてっ?」

 愛美が、唐突にも子供っぽく舞台に向かって叫んだ。


 三十歳くらいの、少しハンサムな青年教師は、振り向き愛美たちを見下ろした。


「おっ、新入生だね。こっちに上がっておいでっ!」

 青年教師は、笑顔で愛美たちを手招いた。


 愛美たちは、勇んで階段を登って、円形の舞台にあがった。


「わ―あっ、大きい。これ、コンサートピアノより遥かに大きいんじゃない?」

 愛美は、昔から知っている友達のような口振りで話した。


「よくわかるね―。たぶん世界一大きなピアノだよ」

 青年も友達のように話しながら、愛美にピアノの席を譲った。


「先生、このピアノ、八十八鍵以上あるよっ!」


「ちょっと流行を取り入れてね。九十六鍵あるんだ。実用性はないけどね。共鳴弦としての役割がおもだよ」

 青年教師は誇らしげに、ピアノの特徴を説明した。


「先生、弾いてもいいっ?」


「もちろんさっ!」


 愛美は、おそるおそる鍵盤に触れた。


 そして、得意のベ―ト―ベンのソナタ「月光」を弾こうと鍵盤を押さえた瞬間、愛美は未だかつて経験したことのない空を切るような手応えのない鍵盤に驚いた。

 しかし、手応えがないのにも関わらず、その音の大きさと、音の跳ね上がりは、普通のピアノの二倍三倍は響いた。


 愛美は、思わずお腹に力を入れて上半身の力を抜いた。

 そして、やさしくやさしく、ピアノに言い聞かせるように、演奏を始めた。


「驚いたね。まさかこんなに綺麗に弾けるとは思わなかったよ―」

 青年教師は、感心したようすで愛実を見た。


 そして、愛美の演奏に心を捕らえられたのは、青年教師だけではなかった。

 教室に移動しようとした父母たちも、愛美の演奏の響きに誘われて、まだ式が続いているのかと思い、もう一度体育館に集りだした。


 その場にいた先生方ですら、式の続きと勘違いして、愛美の演奏に聴き入ってしまっていた。


 さっきまでの人の動きが止まり、会場は愛実が放つ月光の中で鈍く照し出されていた。


 その響きは今日、見てきた校庭の満開の桜の木を会場の中かに咲かせた。

 闇に月光に照らされる夜桜。

 そして、吹く風は春の嵐にも似て、花吹雪を散らす。

 月光は、その花吹雪を操るようにキラキラと踊らせた。


 回りの変化に最初に気づいたのは麗子だった。


「これはやばい。先生方が、演奏に注目している……」と、麗子は小声で愛美に伝えようとしたが、しかし愛美の心は、すでにピアノの中にはい入り込んでいた。

 すると、青年教師が麗子の肩に手を乗せた。

 麗子は、冷や汗をかきながら、もうじき終わる第一楽章を待つしか手がなかった。


 そして、愛美が最後の音を鍵盤に置いたとき、青年教師は、愛美に大きな拍手を贈った。

 その拍手につられるように、回りの先生方も愛美に拍手を贈った。

 父母たちも、それを見て拍手を贈った。

 会場は一変して拍手の波でおおわれ、愛美はびっくりしながら、おそるおそる立ち上がった。


「ちょっと、これ、まずい雰囲気……」

 愛美は、麗子の顔を見た。


「……、……」


 麗子は、顔を引きつらせている。


 しかし、愛美は何気ない顔で、青年教師に丁寧にお辞儀をした。

 そして、体の向きを変えて先生方にも丁寧にお辞儀をした。


 すると、愛美はいきなり麗子の手を取って、拍手の鳴り止まない中を出口へと駆け出した。


「アミ、ちょっと待って!」


 麗子は、またも足がもつれながら愛美を追った。


 愛美たちが去った後、司会を勤めていた先生が、事情がわからないまま……

「式は、これをもって終了します。父兄の方は教室の方へどうぞ……」と、再びアナウンスした。


 これが、愛美とセラミックス・ピアノとの初めての出会いだった。






 愛美たちが教室にたどり着いたときには、すでに担任がいて、新学期の予定などを生徒たちに話しているところだった。


 愛美たちは、教室の後ろから父母たちの間を抜けて、こっそり席に着こうとした。


「こらっ! そこの二人。入学そうそうどこに行っていたっ!」


「あちゃ―」


 見つからない方がおかしいのだが、あっという間にクラスの注目を浴びてしまった。


 愛美は、ちょっと恥ずかしそうに……

「トイレ……」と言った。


 クラスの生徒は、どっと笑った。


「そんな長いトイレがあるかっ!」と、担任は声を荒立てて怒って見せた。


 愛美は、仕方なく開き直ったように

「先生、女の子には色々あるんですよ―」と、明るく言ってのけたので、生徒たちだけではなく周りの父母たちまで、どっと笑いだした。


 担任はあきれながら……

「もういい、早く席に着け」と二人を着席させた。


 担任の話は、それから、まもなく終わり、愛実たちは帰ろうと振り返ったとき、廊下からこちらを見ている栄二郎と文枝に気がついた。


「あちゃ―」


 そして、麗子もビデオカメラを持っている両親に気づいた。


 二人は、それぞれ、神妙に近づき……


「何やっとるんだ。お前は、入学早々!」


 麗子の父親のけんまくが聞こえる。


「ま―ま―、元気な娘でよかったじゃん!」と麗子の声。


 愛美は、愛美で……

「よく来たね。何も言わないんだもんっ」


「ちょっとな。でも、来てよかったよ。思わぬところでアミの晴れ舞台が見れたよ」


「いえっ、あれはですね。先生が是非弾いて欲しいと頼まれましてねっ!」


「いい演奏だった……」


「そうでしょう。あのピアノ最初、聴いたときからおかしいと思ってたのよ。それで、弾いてみてびっくり、鍵盤が指に張りつくみたいに軽いの。そのくせ、音は普通のピアノの二倍三倍くらい大きく響くのよ。あんなピアノ初めて……、とてもこの世のものとは思えなかったわ」


 愛美がいつのまにか興奮して話し出すと、その話が終わらないうちに……


「俊之介や真理さんにも見せてやりたかったよ……」


 栄二郎はぼそっと呟いて、文枝の顔を見た。文枝は目を細めてほほ笑んでいた。


 愛実は小学校の音楽会でもピアノは弾かなかった。

 今日のような大観衆の前で弾いたのは生まれて初めてのことだった。


「そうね……、じゃ―帰りましょう!」

と愛美は先頭をきって歩き出した。


「来てくれてありがとう……」

 愛実は、二人に背を向けながら小声で囁いた。


「いやっ、これからは、ちょくちょく様子を見にこよう。いいものが見れそうだっ」


 その言葉に、愛美は急に振り返り……

「だから、いつもはちゃんとお淑やかに、いい子にしてるってばー!」


 ぜんぜん説得力のない愛美の言葉だった。


「アミ、一緒に帰ろう―」

 麗子が、駆けてきて愛美の手を取った。


「おじいちゃんおばあちゃん先行ってるわよ―」と、二人は逃げるようにして、その場を去った。


「だんだん手に負えなくなりますよ……」

 麗子の父親が栄二郎に愚痴をいった。


「いやっ、まだまだ子供ですよ。先が楽しみじゃ―ないですか……」


 栄二郎は、嬉しそうに、駆けて行く二人を見ながら微笑むだけだった。


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