第37話 姉の親友の母親と、話をする。
もう今はアフレコが始まっている頃だろうか。
本当だったら、東京をぶらぶらしながら、詩織さんの成功を祈りつつ、夕飯をどうしようか考えるつもりでいた。
こんな事態は微塵も予想していなかった。
「まだ混む前に座れてよかったわね」
ここは浜松町の駅前にあるファミレス。
窓際の4人掛けのボックス席に俺たちは座っている。
ちょうど窓を見ると、東京タワーを望むことができた。
ソフトドリンクを飲んでいる俺の対面で、女性がコーヒーを飲んでいる。
詩織さんの母親。
顔立ちはとても綺麗だが、どこか険のある表情をしている。
鋭い眼つきは詩織さんというより霧山シオンによく似ている。
詩織さんをスタジオまで送り、帰ろうとした俺は優樹菜さんに声をかけられた。
そして優樹菜さんに誘われるまま、ファミレスまで来ることになった。
――でね、その人はね、知らない女の子も一緒に連れ来てたの。
――一目見てわかったよ。目元や耳の形がそっくりだったから。
――弁護士を立てて、これ以上は近づかないよう警告してもらったの。
10年前。この人は詩織さんを捨てた。
そして数カ月前、詩織さんの前に妹を連れて現れ、金銭を要求した。
事務所の計らいにより、弁護士が動いたと聞いているが、詩織さんはこの件で深く傷つき、声優を休業するほどのトラウマを背負った。
詩織さんの話から聞いただけなので、優樹菜さんが実際にはどういう人なのかを知っているわけじゃない。
だからこそ警戒はすべきだ。
この人が詩織さんの近くに現れたのは偶然なのだろうか?
なぜこの人は、俺に声をかけたのだろうか?
本当はついてくるべきじゃなかったのかもしれないけど、優樹菜さんの目的を確かめる必要がある。
「でも、あなた……、そうそう、千川さんね。あの子の友達の弟さんだったのね。彼氏にしてはずいぶんと若いから、私、ビックリしちゃったわ」
優樹菜さんはコーヒーにミルクを入れ、マドラーでかき混ぜながら、ふふ、と笑う。詩織さんの声によく似ているが、ざらついた響きがある。
同棲していることは伝えていない。
それはこの人が知らなくていいことのはずだからだ。
「でも、不思議ね。友達の弟さんにしては、ずいぶんあの子と仲がいいのね?」
「詩織さんには昔から遊んでもらって、世話になっていたので」
「世話になって……、ふふ。世話になったねぇ」
優樹菜さんの顔に嘲るような笑みが一瞬浮かんだ。
俺はなるべく平静を装って、沸き上がる苛立ちに蓋をする。
「なにかおかしなことでも?」
「いいえ。あの子もやっぱり私に似たのかしらね。男の子に好かれる術をよく知っている」
「詩織さんはそんな人じゃないです」
「そういう子よ。私にはわかる」
「なぜわかるんです?」
「だって詩織は、私がお腹を痛めて生んだ、私の子だもの」
だからなんだよ、と、口に出しそうになる。
子供だった詩織さんを守らず、傷つけたくせに。
ようやく自分の道を歩き出して、成功していた詩織さんの前に現れて、また新しい傷をつくった癖に。
「娘さんは、今日は連れてきてないんですね」
俺の言葉に、優樹菜さんはきっと睨む。
「……そう。あの子から聞いたのね」
「あなたにはいま、守らないといけない娘さんがいる。どうして詩織さんのことを気にかけるんです?」
「子供を守るためにはお金が必要なの。家族は助け合わないと」
「10年前、あなたは詩織さんを助けたんですか?」
「……どうして私ばかり悪者になるの。あの子が声優として成功したのは、私のおかげよ。分け前を受け取る権利だってあるわ!」
「詩織さんの成功は詩織さんのものです。あなたのものじゃないっ」
こんなことを言う権利が自分にあるのか、と思う。
俺は詩織さんの家族でも、恋人でもない。
ただの同居人であり、他人だ。
それでも、俺はこの人より知っている。
詩織さんが声優という仕事にどれだけ誇りを抱いているか。仕事ができなくなり、どれだけ悲しんだか。自分の苦しみや傷跡に向き合って、どんな思いでふたたび立ち上がろうとしているのか。
権利はないかもしれない。
しかし詩織さんを守るために、全力を尽くすべきだ
じゃないと、俺は俺自身を許せなくなる。
「なんなのよ、あなた。なんの権利があって、そんなことを言うの」
「……権利なんてありません。俺は言いたいことを勝手に言ってるだけです」
「言いたい? どうして?」
「それは……詩織さんが好きだからです。悪いですか?」
だから引き下がるつもりなんてない。
そう宣言するつもりでの言葉だったが、少し興奮しすぎたかもしれない。
落ち着くためにウーロン茶を飲む。
対峙する優樹菜さんはコーヒーカップに手をつけず、じっと俺のほうを見すえている。目が完全に据わっている。
が、険しかったはずの顔が急に緩んだ。
「そうね。あの子の成功はあの子のモノだわね」
優樹菜さんは笑った。笑顔の仮面ではない。
本当に心から楽しそうに笑っている。
それが俺にはたまらなく不気味に見えた。
「あの子は幸せ者だわ。自分の成功を願ってくれる人間に恵まれている。ああ、本当に羨ましい」
そう言いながら、優樹菜さんは自分のスマートフォンを見せた。
画面には、霧山シオン――詩織さんと俺が握手している画像が映し出されている。先ほど、スタジオで別れたときの様子を撮った写真だ。
「よく撮れてるでしょ? これだけじゃないのよ」
さらに優樹菜さんは画像をスライドする。
今度は、タクシーから降りる詩織さんと俺の写真が表示される。
いつだ?
いつ撮られたんだ?
「私ね、これでも業界にコネがあるの。『アンセム×コード』の収録が行われるって話が入って来て、スタジオの前でずっと待ってたの。事務所のせいで、あの子に会いづらくなっていたから。なんとかあの子に挨拶できないかと思っていたところで、こんな写真を撮ることができてね?」
「……やましいことなんてないです。俺は何もしていません」
「でも、あなた。詩織のことが好きなのよね」
優樹菜さんは再びスマートフォンを操作する。
立ち上げたのは録音アプリだ。俺の背筋に冷たいものが走った。
「録音、してたんですか?」
「こういう大事な話をするときはね、ちゃんと記録しないと証拠にならないのよ。学校で習わないことが勉強できてよかったわね」
謡うように、嬲るように、優樹菜さんは話し続ける。
「休業して、いろんな人に迷惑をかけて、ファンを悲しませておいて。当の本人は若い男とくっついていましたーなんて話、納得できると思う? あーあ、かわいそうね。やっと復帰できそうだったのに」
それは、いつかマネージャーの行本さんから言われた言葉でもある。
この人は最初から、詩織さんを脅す目的で餌を探していたのだ。
そして俺がついてきてしまったことで、付け入る格好の口実を見つけた。
俺のせいだ。
俺が余計なことをしたせいで――
「千川さん。あなたは優しいし、頭もいい。詩織を想ってくれている。だったら最善の選択が何かはわかるんじゃない?」
「俺を脅してるんですか?」
「ただの交渉よ。あなたは、このデータを買い取ってくれればいい。まとまった額が難しければ、少しずつ払ってくれてもいいのよ」
胃袋がずんと沈んだような気持ちになった。
足元がぐらぐらと揺れる。
冷静に判断をしないといけない。わかっているのに、頭がぐるぐるして、なにもわからなくなる。
口の中がカラカラに乾いていた。
どうしたらいい?
いったい、どうしたら――
「うちの弟に変なモノを買わせようとするのやめてくれます? 買ったところで、クーリングオフさせますけど」
聞きなれた声がした
急に俺の隣に、誰かがどかっと座り込む。
小麦色に灼けた肌、金色に染めた左右非対称のアシメショート。片方だけ覗いている左耳にはピアスが2つつけられている。
姉である。
馴れ合いを嫌う狼のような目をさらに鋭く光らせながら、姉は俺の隣に陣取った。
優樹菜さんは突然現れた闖入者に困惑した様子で尋ねた。
「あなた、誰なの……?」
「はじめまして。詩織さんと仲良くさせていただいています、千川朝子です。ここにいる悠生の姉です」
姉は丁寧な物腰で挨拶すると、頭を下げた。
それでも姉の目線はずっと優樹菜さんのスマホを捉えている。
「優樹菜さんですよね? あなたのことはリンクエコーズの行本万智さんから聞いています。あなたから接触があったこと、行本さんにも伝えておきました」
「あの女に?」
明らかに優樹菜さんは狼狽した顔になった。
しかし姉は獰猛な目をますます光らせながら容赦なく詰める。
「いまの会話、録音してます。名誉を傷つけることを目的とした金銭の要求は、脅迫罪の要件を満たす行いです。言ってる意味わかります? 犯罪者としてあなたを起訴できる、って話なんですよ」
「き、起訴?」
狼狽を通り越し、優樹菜さんの顔面は蒼白になる。いま彼女の頭にはさまざまな考えが巡っているのかもしれない。
姉のスマホにLINEの通知が来る。
画面を見た姉は無言でスマホを優樹菜さんに見せた。
行本さんからのLINEだ。長文のメッセージが書かれている。
「万智さんに連絡したところ、あなたを訴える準備を進めるそうです。あ、週刊誌に売るのもやめた方がいいですよ。大した金にならないらしいんで。ま、それでも詩織の将来をめちゃくちゃにしたいなら好きにすればいいですが――」
姉は身を乗り出し、優樹菜さんに迫った。
「そしたら、あんたも大事なモンを失いますよ?」
優樹菜さんは唇をギュッと結び、わなわなと体を震わせる。
それからコーヒーを乱暴に飲み干すと、ソファから立ち上がり、さっさと出ていった。
すべてが終わり、俺は深く息を吐く。安堵した途端、身体中が震え出した。
隣にいる姉に背中をポンポンと叩かれる。
「お疲れさん。大変だったな」
「……なんで姉さんがここにいるんだよ」
「偶然。今日収録あるって聞いてたから、東京に戻ってきててさ。ここら辺でぶらぶらしてたら、お前とあの人が一緒にいるのを見かけたんで尾けてきた」
「もしかして、最初から聞いてた?」
「まぁな」
最悪だ。
俺は姉から顔を逸らした。
詩織さんへの気持ちが姉にバレた。
この人はなんて言うのだろうか。
「しっかしお前、ビビりすぎだろ。あんな写真、脅迫にもなりやしねーって」
「……でも、週刊誌にばら撒かれたら、詩織さんは――」
「その前に事務所があの人を脅迫罪で起訴する。ああいう手合いは自分が被害者だと思い込んでるから、犯罪者の汚名をかぶるのはたえられない。親権も取られたくないだろうし、たぶんもう手出しはしてこねーよ」
だから気にすんな、と姉は付け加えた。
俺は長い敗北感を抱く。
詩織さんを守ろうと息巻いていたのに、結局何もできず、姉に助けられてしまった。
やっぱり姉には勝てない。
「……妹さんのこと、知ってたの?」
「万智さんから聞いてた。詩織は隠したがってたから、触れないようにしてたけど」
「姉さんには言えない、って悩んでたよ」
「……っぽいな。バカだなぁ、あいつ。そんなことで友達やめるわけねーのに」
「俺もおなじこと言った」
「ってか、お前。詩織に対してずいぶん調子乗ったこと言ったらしいじゃん?」
「いや、それは……」
俺が口籠ってるあいだに、姉は間髪入れず付け加える。
「詩織のこと、好きなんだって?」
隣にいる姉が痛いほどの視線を向けてくる。逃げ場はない。
俺は勘違いをしていた。
詩織さんへの想いを抱えるにあたって、本当に立ち向かわないといけないラスボスが誰なのかを。
姉はなんともなしに俺ではなく、窓のほうを見やった。
俺は姉の視線を追いかける。
相手の眼差しの先にあるもの――それは、高くそびえる東京タワーだった。
いいことを思いついた、とばかりに姉は言った。
「東京タワーでも昇ってみるか」
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