第34話 姉の親友、ふたたび仕事に向かう

 詩織さんが仕事に復帰することになった。


 なんでも劇場アニメの仕事らしい。守秘義務があるとかで、タイトルについては教えてくれなかったけど、予想はつく。


「まずはこの仕事を受けて様子見かな。リハビリみたいな感じ?」


 詩織さんはまるでなんてことがないように言った。悲壮感も何もなかったので、俺も普通のテンションで話を受け止めた。


「俺にできることは何かあります?」

「発声トレーニングするから部屋に篭ることが増えるかも。炊事の担当、減らしてもらってもいい?」

「了解です。ほかは何かあります?」

「……身体を鍛え直したいから、早朝ランニングにまた付き合わせて欲しいんだけど、いいかな?」

「外を出歩くのは平気ですか?」

「大丈夫だと思うけど、まだ自信ないかも。それを確かめたいのが正直なとこかな。だからハルくんが付き添ってくれるとありがたい、です」

「わかりました。絶対に無理はしないと約束してください」

「うん、ありがとう」


 そんな感じのやりとりを交わしたのち、詩織さんの生活リズムは仕事の復帰モードへあっという間に移行した。


 まず食事では詩織さんのリクエストではちみつや大根を使った料理が増えた。

 なんでも喉のケアにはちょうどいい食材らしい。


 部屋にこもって、発声トレーニングをすることも増え、おなじ食卓を囲む機会が以前よりもだいぶ少なくなった。

 

 そのことに若干の寂しさはあったけれど、止まっていた詩織さんの時間が動き始めたことへの嬉しさの方が勝っていた。


 たまに差し入れをすると、詩織さんはとても喜んでくれた。そのことに密かな充実感を覚えていた。


 早朝のランニングは、以前と同じコースをゆったりめのペースで走り続けるように務めた。

 

 たまに詩織さんに邪な視線を向ける輩のつゆ払いをしながら、公園を折り返して走るコース。


 詩織さんは疲れも見せず、周りの目も気にしていなかった。


 発作を起こすこともなくなっていたが、一度だけ危ない場面に出くわしたことがある。


 あの公園でふたたびランニングをしている姉妹に遭遇したのだ。


 向こうも俺たちを覚えていたのだろう。出くわした時、「あっ」と声をあげていた。


 お姉ちゃんの方は会釈しただけだが、まだ幼い妹のほうは遠慮を知らない態度で言った。


「こないだのお姉さんだ! もう元気になった?」


 姉妹を見た詩織さんは一瞬強張った顔になった。まずいと思った俺はすぐに詩織さんを連れて引き返そうとしたが、詩織さんは逆に妹のほうに近寄った。


 目線を合わせるようにしゃがみ込むと、詩織さんは言った。


「心配してくれてありがと! ボク、もう大丈夫だからね!」


 いつもの詩織さんとは違う、元気いっぱいの男の子の声だ。

 姉妹は目を丸くし、ぽかんとした顔で詩織さんを見ていた。

 詩織さんは笑いながら、妹の頭を撫でて、しーっと唇に人差し指を当てる。


「ここで会ったのはナイショでお願い。また応援してね」


 そう言って詩織さんは公園を去った。後を追おうとする俺をよそに、姉妹は興奮したように話していた。


「お姉ちゃん、いまの声聞いた!? メリアちゃん! 龍殺のメリアちゃんの声だったよ!」

「えっ? ウソ……。ホンモノ?」


龍殺とは、社会現象級のヒットを巻き起こしたアニメ『龍殺しの魔女』の略称である。

 原作は少年漫画だが、下は幼児から上は中高年まで、幅広い人気を獲得している。


 詩織さんはその中でも人気キャラ、メリアを演じていた。


 家に帰ると詩織さんは汗をびっしょりとかき、息を切らしていた。


 走っただけの疲労ではなかったと思う。


「ははは、ちょーっと痩せ我慢しすぎたかな?」

「……発作の方はどうですか?」

「動悸はするけど、そっちは平気。油断すると足元すくわれるから気をつけないとだけど」


 詩織さんは無理矢理笑いながら言った。


「でも自分の担当キャラを演じるなんて、らしくないサービスですね。いつもはそんなことしないのに」

「あの子たちにはこないだ可哀想なことをしたからね。あれだけで龍殺だってわかるなんて、さすが国民的人気アニメだね」

「それだけ詩織さんの演技があの子たちにも印象に残ってたんじゃないですか? さすが人気声優」

「おっ、言いますねー、ハルくん」


 そんな話をして笑いながら、詩織さんはどこか安心した顔になった。


「でも、ほんとにありがたいよ。忘れられてないっていうのは」


 そして先にシャワーを浴びると言って浴室に向かった。


 多くは語らなかったけど、詩織さんの気持ちは俺にもわかった。


 トラウマは少しずつ、確実に癒えている。

 前進している。

 その実感を得られたからなのか、詩織さんの発声トレーニングはますます熱量を帯びるようになっていた。


 そうして仕事が決まったという宣言から1ヶ月が経ち――


 詩織さんの仕事復帰初日を迎えていた。


◇◆◇


 土曜日の朝。

 俺は朝食の準備をしながら、詩織さんが降りてくるのをソワソワと待っていた。


 しばらくして階段を踏みしめる音の後で、リビングにひょっこりと姿を見せた。


「お待たせ、ハルくん」


 現れたのはいつもの詩織さんじゃなかった。桃色のショートヘアのウィッグをつけ、タレ気味だった目元に吊り上げるようなメイクを施している。


 心なしか声もいつもの甘い感じの声ではなく、ややハスキーな大人びた声になっていた。


 彼女の姿を見て実感した。

 いまここにいるのは姉の親友・絹田詩織ではない。人気声優・霧山シオンである。


 が、そう思ったのも一瞬のこと。


「ハルくん……、そんな驚いた顔をしなくても……ふふっ」


 何がツボに入ったのか、俺の顔を見て急に肩を震わせて笑いだす。

 カリスマ性の欠片もない、そのあどけない笑いはまぎれもなく見慣れた詩織さんのもよだった。


「仕方ないじゃないですか。その格好を生で見たの初めてなんですから」

「ははは。素顔を知ってるハルくんでもそんなに驚くのか。もしかして私、顔出しの女優でもいけるのでは?」

「最近増えてますよね。ドラマに出演してる声優さん」

「前に親子役で共演したヒトミさんも大河出てたしなぁ。私も狙ってみようかな、大河。いや、いっそハリウッド目指してみる?」

「夢広げすぎでは?」

「夢なんてナンボでかくても困ることはありませんよー。あっ、ハルくん、なにか手伝う?」

「いや、もうこっちの準備は終わってるので、詩織さんは座っててください」


 俺は丼にご飯をよそり、フライパンで作った具材を乗せる。

 朝食には似つかわしくないボリューミーなメニューである。

 食卓に運ぶと詩織さんは手を叩いて喜んでくれた。


「わー! きたきた! これが食べたかったんだー!」

「……作った俺が言うのもなんですけど、ほんとによかったんですか? 朝から重くないですか?」

「いいの! 私がリクエストしたんだから!」


 詩織さんのリクエストに応えて朝から作ったメニュー。それは親子丼である。

 

 玉ねぎと鶏肉を白だしとおつゆで炒め、そこに卵を投じただけの、どこにでもあるふつーの親子丼である。


「アサちゃんが言ってたんだよね。受験の朝にはこれを食べて気合を入れて挑んだって。勝負に挑む時は親子丼を食べるのが、千川家の伝統なんでしょ?」

「伝統というより、なにかあると母が作りたがっただけですよ」


 母曰く、鶏肉を食べて精をつけて欲しいからついつい作ってしまうのだという。

 俺も中学受験の時、作ってもらったのを思い出す。


「お腹壊さないように気をつけてくださいね?」

「大丈夫! 私、胃は丈夫だもん」

「胃薬あるから持ってきます? 緊張に効くかも」

「処方してあるから平気。ハルくんのほうが緊張してない?」

「そんなことは……」


 正直に言えば、緊張はしてる。めちゃくちゃしている。

 自分の受験よりしているかもしれない。


 だけどそんなこと、詩織さんの前では絶対に言えない。

 なにしろ今日は詩織さんの人生がかかった大勝負の日だ。

 俺の緊張なんて、詩織さんが感じているプレッシャーと比べたら、チリのようなものだ。


 それなのに当の詩織さんの顔はとても穏やかだ。いつもよりもリラックスしているように見える。


「不思議だなぁ。スタジオに行くのは久しぶりなのに、全然不安がわかない」

「全然?」

「うん。全然。病期になる前でも、こんなに穏やかな気持ちになったことはないかも」


 強がっているわけではなさそうだ。詩織さん自身、自分のいまの心境を不思議そうに語っている。


「昨日とか、ネガティブな気持ちになって寝れなくなると思ったのに8時間ぶっ続けで眠れたんだよね。人間、ちゃんと眠るって大事だね。おかげでいま、とても気持ちは清々しいもの」

「治ったってことですか?」

「……ううん。そういうんじゃないと思う」


 詩織さんは微笑みながら答える。


「派手に転んじゃったおかげで、私の心は傷だらけになっちゃったからね。ほら、一度骨折すると癖になりやすいっていうでしょ? それと同じ。心が怪我してできた傷は、またいつぱっかり口を開くかはわからない。傷が塞がることはあっても、跡は残るんだよ。たぶん、私が私である限り」

「じゃあ、ずっと治らないってことですか?」

「治るっていうのが、休業する前の状態に戻るって意味なら、そうかもね。起こってしまった出来事がなかったことにはならないし、時間を戻すこともできない。結局、今の自分を受け入れるしかないんだよ」


 それは聞きようによっては諦めの言葉にも聞こえる。しかし、詩織さんが言いたいのはそういうことじゃないと、俺はわかっている。


「詩織さんは、今の自分、好きですか?」


 俺の質問に、詩織さんはなんの衒いもない笑顔で答えた。


「うん。好き。大好きだよ」


 それを口にした詩織さんの笑顔があんまり眩しくて、俺はしばらく見惚れていた。


 この1ヶ月があまりに穏やかだったので、あの時の出来事が遠い日のことのように思える。


 あの時、俺の部屋で詩織さんを抱きしめた夜――


 結局、俺たちは抱き合ったまま、いつのまにか眠り、朝を迎えてしまっていた。

 

 一線は超えていない。超えていないはずだ。


 起きた時には詩織さんはいなくなっており、リビングに降りるといつものように詩織さんは朝食を作っていた。


 ――おはよう、ハルくん。よく眠れた?

 ――おはようございます、詩織さん。おかげさまで爆睡です。


 いつもと変わらない挨拶。

 結局、今に至るまで俺たちはあの時のことについて話をしていない。


 なかったことにしたのではない。

 俺たちのあいだで、わざわざ言葉にする必要がなかったからだ。


 あの夜の出来事を、きっとこの先、死ぬまで忘れないだろう。


 詩織さんもそれは同じではないかと思う。

 だから詩織さんは今、こうして前に踏み出すことができたと信じている。


 同じ気持ちを、感情を共有できた。

 それのなんと素晴らしいことか。


 そんな俺を見て、詩織さんは優しげに微笑む。心臓がひときわ大きく跳ね上がりそうになった。


 もしかして、詩織さんも今、おなじタイミングで、あの夜のことを思い返していたのだろうか。


 だとすれば、なんというタイミング――

 

「ハルくん」

「はいっ」

「ここ、ご飯粒ついてる」

「うおっ!?」


 慌てる俺を見て、くすくすとおかしそうに詩織さんは笑った。


 うわぁ、恥ずかしすぎて死にたい。


 それから俺たちは親子丼を完食し終え、いよいよ出発の時間になった。


 出ていく詩織さんを玄関まで見送る。

 スタジオまでの迎えはマネージャーの行本がやってくれることになっていた。

 ここから最寄りの駅前で落ち合うことになってるらしい。


「駅まで送りましょうか?」

「いい、いい。短い距離だし。それになんとなく一人で歩いてみたい」

「そうですか?」


 俺の返事に、詩織さんはなぜかにたーと笑い顔を浮かべた。


「あれあれ? 残念そうだね、ハルくん。もしかして私と手を繋いで歩きたかった?」

「なっ!?」


 正直、願望はあった。妄想もちょっとしたのは認める。しかし顔に出るほど、残念がっていたのか?


 恥ずかしすぎて、顔から火が出そうになった。


「昔はよく手を繋いで歩いたよねー。リクエストしてくれれば、いくらでも手を繋いであげてもいいよ?」


 こ、この人は〜〜!

 また隙あらば年上マウントをしてくる!


 せっかく綺麗にお見送りしようと思ったのに。


 言い返そうと思った俺はそこで気づいた。


「詩織さん」

「ふふ、なーに?」

「詩織さんも顔真っ赤になってますけど」


 返事はなかった。

 これ以上、表情を見られるわけにはいかないとばかりにくるりと背を向ける。


「じゃあ、行ってくるね、ハルくん! 万智さん待たせるといけないから!」

「あっ、逃げるなんてずるい」

「に、逃げてないしっ!」


 投げという言葉には敏感に反応する。さすが負けず嫌い。


 だが俺も引き下がるわけにはいかない。

 詩織さんが今のイジリで恥ずかしくなっていた理由などひとつしか考えられないからだ。


「詩織さんこそ、俺と手を繋ぎたかったんじゃないですか? だから、あんなこと言ったんじゃないですか? どーなんですか?」

「…………黙秘権を行使します」

「ほぼ肯定じゃないですか!」

「あ、待って。万智さんからLINEが来た」


 ちょうどいいタイミングで、とばかりに、詩織さんはスマホに届いたLINEに反応する。


 届いたメッセージを見た詩織さんは「あれ」と声を出した。


「万智さん、前の案件がトラブって迎えに来れなくなったみたい」

「えっ、じゃあ詩織さん、一人でスタジオに行くんですか?」

「まぁ、そうなるかな」


 詩織さんはちょっと考え込んでいたが、すぐに俺の心配を和らげようと、わざと明るい声を出した。


「心配いらないって。タクシーつかまえて行けばいいだけの話だし。メンクリ行く時は一人で出てたしさ、大丈夫だよ」


 そう言い切る詩織さんの表情には影が差し込んでいた。


 こんなのは、なんでもないトラブルだ。

 しかし、なんでもないトラブルだって、塞いだはずの傷口をちょっと引っ掻くことはできる。

 そこからまたばっくり傷口が開かないと、誰にも保証はできない。


 少なくとも今、詩織さんの頭にはその考えがよぎっているはずだ。


 だから俺は言った。


「詩織さん。俺、スタジオまで付き添いますよ」

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