現代編 第二話
それじゃあ聖誕祭の当日に。
打ち合わせを終えて仲間たちと別れたジノンであるが、夕暮れまでにはまだ時間があった。
「うちによってく?」
キュピオクが言う。
ジノンは否が応もない。むしろ初めからそのつもり。
だからといって別段色っぽい話などでは全然ない。
キュピオクの家は修練場。
未来の英雄、騎士、兵士を夢見る少年たちを、いっぱしの戦士に教育する場所。
彼女と知り合った幼少のみぎりから、ジノンは修練場に入り浸っている。
父親の作るご飯の次くらいには鍛錬が好きだ。
そして修練場にいないときは、大抵街で悪さをしているかの二択であるから、分かりやすいといえばこれほど分かりやすい行動範囲もなかったかも知れない。
だだっぴろい修練場は無人。
他の練習生は既に引き上げてしまったそこで、キュピオクと二人きりで向かい合う。
なれた手つきで訓練用に刃先を潰した剣を油断なく構えるジノンの姿は、十四という年齢にしてはしっかりと板についている。
対するキュピオクの得物は、愛用の槍斧ではなく訓練用の鉄の棒だ。
なんの装飾もない無骨な代物だが侮るなかれ。取り扱いは非常に難しい。
なにせ素人が下手に扱えば、逆に簡単に人を死に至らしめる物騒なもの。
そこに彼女の技量と膂力が加われば?
凶器と称するのに、なんら遜色はない。
「―――やっ!」
短い気合を発し、キュピオクが疾った。
迫り来る袈裟斬りの鉄棒を、ジノンは刃先を斜めに立てて受け流す。
相変わらず冗談みたいに威力がのった一撃は、まともに受け止めれば鉄剣は歪み、腕の骨が砕けてしまうだろう。
筋肉を引き締め、痺れそうになった両腕に気合を入れれば、キュピオクの初弾はまだ終わりではない。
振り下ろす方向を逸らされた一撃は深々と庭の土を抉り、全く勢いが衰えぬまま再び振りかぶられる。
さすがに二撃目はかわす余裕があったジノンは、自身の身体を半回転させながらキュピオクの懐へ。
腰溜めにした体重を乗せた一撃を放ったが、胸の前にかざした鉄棒にあっさりと弾かれた。
「くっ!」
仕切りなおしだ。
体勢を整える意味も込めて後退したジノンに、すかさずキュピオクが追いすがってきた。
容赦のない鋭い振り下ろしの追撃は、残念ながら間合いが甘く、ジノンの眼前を過ぎて地面へ叩きつけられる。
そこに隙が生じた。
勝機と見たジノンは後退を急停止。踏みとどまって勢いを相殺。重心を取り戻すと、かかとに力を込めて大地を蹴る。
逆に間合いを詰めてやる!!
引き絞るように剣を構え、キュピオクに迫る。
寸前、死角から飛んできた鉄棒の先端が、下から空へと顎先を掠めていった。
攻撃を喰らったと自覚する間もなく、ジノンの意識は空白に囚われた。
さきほどの振り下ろしの一撃は、実はキュピオクの仕掛けた罠で、彼女の真の狙いは次の一撃。
空振りで地面を抉った鉄棒の先端を、足の爪先で勢いよく蹴り上げたのだ。
狙いは違わず迫り来るジノンの顎先を捉えている。勝負はあっさりと決着を見た。
「ちくしょー…」
大の字にひっくり返ったまま、ジノンは目をつむっていた。
強烈な一撃は、顎先を掠めただけなのに脳みそを揺さぶる。
まだ頭がクラクラして、手足に力が入らない。
「…ん?」
ざばざばざばー、と突然顔面にぶちまけられる大量の水。
「ぷはっうっ!?」
「あ、気がついた?」
馬鹿でかい木製の器を両手にこちらを見下ろしてくるキュピオクに吼えた。
「最初から気絶してねーよ!」
「ごめんごめん」
声には微塵も悪びれた調子はない。
ぺたんと、女性特有の骨格でしかできない座り方で、キュピオクはジノンの傍らに腰を降ろす。
何が楽しいのか見下ろしてくる顔には笑いが耐えない。
「…何でおまえってそんな馬鹿力なんなんだ…?」
「そう?」
小首を捻る仕草は、この年頃の少女特有の、見ているこっちの方がむず痒くなるような柔らかさがある。
しかし、単純な腕力だけなら、彼女の力はガーンズより勝るというおそろしい事実が。
「きっと胸まで筋肉なんだな。だから胸が育たないんだ…」
ブツブツと独り言めいて言っているのは負け惜しみというか嫌味というか。
「そんなことないって。何なら見てみるー?」
「よせよ、そんなの見たくねー…」
やおらジノンの表情は真剣なものになった。
愛用の皮鎧をガサゴソと脱ぎ始めたキュピオクの傍らで勢いよく上体が跳ね起きたのは、決して幼なじみの暴挙を止めようとしたわけではない。
長い前髪の隙間から空を仰ぐ瞳に映る色。
橙の空の境界線が群青へ。そして濃い藍色へと変わっていく。
「…やべえ!」
一声上げるなり、ジノンは立ち上がる。
多少足元がふらついたが、すぐさま駆け出した方角に迷いはない。
「またな、キュピオク!」
「ふがっ!?」
皮鎧が頭に引っかかって脱げずにもがいている幼なじみにそういいおいて、ジノンは全力疾走。
修練場を飛び出し、夕暮れに混雑する街を走る、走る。
抜け道、横道、ひとさまの庭先。
あらゆる近道を駆使して若葉亭までたどり着いたジノンだったが、切れる息も虚しく店は夕闇の中で光を放っていた。
考えてみれば夕暮れ時という定義は曖昧である。
されどそれを判断するのは母カレン。
機嫌が良ければ多少の猶予を見てくれるけど、父ジャンの話から想像するに不機嫌であろうから、今を夕暮れ過ぎと判断してくるのは十中八九間違いないだろう。
温かな光は放つ店先の佇まいと裏腹に、一気にジノンの血の温度が下がっていく。
いっそこのまま家に戻らず、誰か悪友のところにでも逃げ込もうかと思う。
割と本気で迷っていたようだが、結局首は振られた。
しょせん問題の先送り。仮にそうしても母の怒りは増せど減りはしないだろう。
そっと裏口から中に入る。
薄暗い井戸の前に誰かいた。
すわ母かと身構えれば、エプロン姿の影は小さすぎる。
ジノンは長いため息とともに胸を撫で下ろした。
こちらに気づいたように振り返ってくるのは妹のレニだった。
ちょうど井戸の水を汲みに来たらしい。兄と真逆の行動でご近所でも評判の少女は、ちょうど十歳になる。
「レニ、ちょっといいか、ちょっと!」
「…?」
軽く小首を傾げパタパタと近づいてくる妹に、ジノンは頭を下げて頼み込む。
「母屋に行って、お兄ちゃんの部屋から着替えを持ってきてくれないか? 大至急!」
こくりと頷くと、レニは母屋の扉を開けて中へ消えた。
嫌がる素振りも全く見せない。素直で気立てのいい、ジノン自慢の妹だ。
「さてと」
汗まみれの上着を脱ぎ捨て、ジノンは頭から井戸水をかぶった。
適当に脇やら背中やらを擦り、水の滴る前髪を絞る。
間もなくレニが着替えを持って来てくれた。万事心得た妹は、タオルも一緒に持って来てくれている。
「ありがとうな…」
手を拭ってから、クシャクシャと頭をかき回してやる。
くすぐったそうに身じろぎする妹に水を汲んでおいた桶を渡し、ジノンは清潔な肌着を着込む。
とりあえず身支度はこれで良し。
あとは何食わぬ顔で父の店の手伝いをしていれば、いきなり母に怒鳴りつけられたりはしないだろう。
多少の怒りの軽減も見込んでいるわけだが、これを姑息と言うなかれ。
絶対的な狩猟者に対する、哀れな小動物の当然の自衛策だ。
「ただいま、父さん、手伝うよ」
勝手口を開けて水場を覗き込めば、相変わらず惚れ惚れする手つきで調理器具を扱う父親がいる。
「おかえり、ジノン。ちょうどいい、これをもっていてくれないか?」
どんと置かれたのは鶏の丸焼きが乗った巨大な皿。なるほど、これはさすがにレニの手に余る。
こんがり焼けて香ばしい鶏料理の匂いを腕にかかえ、ジノンは客席に違和感を覚えた。
普段ならそこそこ混み合っている時間帯なのに、ほとんど客がいない。
それなのに、なにやらリュートを奏でる音まで聞こえてくる。
…この旋律はもしかして?
澄んだ音に導かれ、おっかなびっくり奥まった個室へ向かえば、予想通り奏者は母カレンだった。
思わず顔を引き攣らせたのも一瞬のこと、母の対面にいる人物を見て一気に胸の内が晴れ渡る。
「よう、坊主。大きくなったな、久しぶりだなあ」
こちらに気づいたのだろう。熊のような巨漢が、冗談みたいに厚くて大きな手をかざして挨拶をしてくる。
まずはペコリと頭を下げて、ジノンは大皿をテーブルの上に置いた。
そうだ、そういえばこれは父の特別料理だった。なにゆえに特別かといえば、供される人物は限られているという点で。
「バルバドゥス、久しぶり」
遠慮呵責なくジノンは巨漢へ向かって言った。
バルバドゥスと呼ばれた巨漢の方もまるで礼儀にうるさいタチではない。脂塗れの手で酒盃を仰いでガハハと笑う。
「ほれ、おまえもこっちに来て一緒に喰え」
促されて巨漢の脇に腰を降ろす。着ている獣の皮の匂いと酒の匂いがする。
座りながら、横目でチラリと母の様子を伺った。
長い金髪は無造作に腰まで流れ、白磁の顔は相変わらずハッとするくらい整っている。
足を組んでリュートを爪弾く姿は、美神ルミリウスの化身と称されても良いほど絵になっていた。
むろんジノンは知っている。人は見かけによらない。美しい肌を一枚捲れば、その下にいるのは古代竜もかくやと思われる激しい気性。
そんな風に息子に称されているとも露知らず、母カレンは上機嫌の様子。
「今日はゆっくりしてってよ」
手を拭きながら、ジャンもやってきた。
さっそくバルバドゥスは酒を勧め、ジャンは並々と注がれたそれに形ばかり口をつけた。
おまえは相変わらず下戸なのか、と厳つい顔に苦笑を刻む巨漢は、半年も来なかったと思えば、一月に二度三度と若葉亭にくることもある。
そんな時は店は大抵貸切となる。
両親ともに大歓迎で、昔馴染みとの食事と会話に花を咲かせるのだ。
まだ小さかった頃は早々にベッドに戻るよう母に指示されたものだが、最近は結構遅くまでご相伴させてもらえるようになったのはジノンには嬉しかった。
「そういやあ、昔ヒノイ辺りの寂れた村に行ったときなあ…」
程よく酔いが回ってくるとバルバドゥスはよく昔話を披露してくれる。
きっと歴戦で現役の冒険者なのだろう。だから店に来る機会がまちまちなのだ。
ジノンはそう見当をつけている。
憧れて焦がれた存在が目の前にいる。これで興奮しないわけはない。
「まったく、アンタはいっつもホラばっかり吹くのよねえ」
バルバドゥスの荒唐無稽とさえ思える話に、母カレンは美貌に苦笑を浮かべた。
父は相槌をうちながらもっぱら微笑んでいるわけだけど、この両親とバルバドゥスはどういう経緯で知り合ったのか。
そこのところにジノンは興味があった。
ジャンの料理の評判を聞き及び、実際に若葉亭に出向いて店主と意気投合、というのが妥当な考え。
しかし会話の節々から察するに、どうもジノンが生まれる前からの付き合いらしい。
両親がこの街に住み着いたのは、自分が三歳になったころの話だ。
それ以前はどこで暮らしていたのか、実のところジノンはあまり覚えていない。
もしかしたらバルバドゥスとの出会いも、その曖昧な記憶の彼方にちゃんと記されているのかも知れない。自分が忘れているだけで。
ジャンが空いた皿を片付けて、カレンが中座する。
絶好の機会に、ジノンは巨漢の太い腕の側に擦り寄った。
まるで岩の塊のような重厚感を羨望した。鍛えているのに、いっかな太くならない自分の腕が恨めしい。
「ねえ、バルバドゥス。訊きたいことがあるんだけど」
「なんだ?」
誰に対してもおいそれと昔のことを詮索しちゃいけないよ。父にそう固く戒められていることを、ジノンは忘れたことはない。
ジノンが訊きたいのはもっと別のこと。ずっとこの機会を待って、質問を温めていた。
「オレに才能ってあるのかな?」
どんな才能でもいい。剣でも体術でも。いっそ冒険者に向いているなどと言われれば、天にも昇る心地だっただろう。
バルバドゥスはニヤリと笑って、どれどれとジノンの肩と腕をなぞり、それから掌を取った。
「どうしてなかなか鍛錬を積んでいるようじゃねぇか」
灰色の瞳には酒精が浮かんでいたけれど、冗談を言っている風な口調ではなかった。
「これくらい真面目にしてりゃあ、そのうち俺様に勝てるくらいにはなるだろ」
なかなかに解釈の難しい言葉だった。バルバドゥスは強そうに見えるけど、彼の剣技のほどまではジノンは知らない。
「歳を取れば嫌でも強くなれるさ。逆に、盛りを過ぎれば後は弱くなるだけってことだな」
今から伸びるものと、頂点を極め降るもの。
双線の交わりで戦うとするならば、なるほどジノンがバルバドゥスに勝てる日が来るのも道理かも知れない。
だが、ジノンの期待した答えは異なる。
「そうじゃないんだよ。オレに剣の才能はあるのかってことを」
「才能? そんなもん、端から持ってるやつなんてほとんどいねぇよ」
バルバドゥスは赤ら顔で一笑。呆気にとられているジノンの頭を鷲づかみに左右に振る。
「誰だってな、一つのことだけをやり続ければいっぱしの名人になれる。そういう風に世の中出来ているのさ」
継続は力なり。
確かに、職業にせよ技能にせよ、打ち込めば打ち込むだけこなれてくる。熟達していく。
経験が肉となり、時間が技を磨いていく。
そうやって生きているものの姿を見たければ、街に繰り出せばいい。
先生、教官、親方、頭。
錚々たる呼ばれ方で敬われているではないか。
「…バルバドゥスもそうなの?」
「俺? 俺かあ」
赤ら顔の巨漢はやおら真剣そうに考え込んでしまったものだから、逆にジノンが狼狽してしまう。
「……駄目だな。俺にはろくな才能がない。結局、この歳になってまで何も実らん半端ものさ」
だから―――だからな、ジノン?
仲間を大事にしろ。自分を助けてくれる仲間をだ。
そして仲間が困っていたら、絶対に助けてやれ。
説教というには、いささか声に情感が籠もり過ぎていた。
感づくなり、思わずジノンは口にしている。
「うちの父さんも母さんも、昔、バルバドゥスの仲間だったの?」
「それは―――そうだな。そういうことかもな」
歯切れの悪い言葉を取り繕うように、バルバドゥスは口調を変えた。
「しかし、世の中にはな、天才ってものもいるんだよ」
「!?」
ジノンは目を白黒させた。さっきまで才能のある人間はいないって言ってたじゃないか!
朝令暮改も甚だしいが、バルバドゥスは全く悪びれた様子もない。
「本人はたいして努力したつもりはなくても、他人だったら何年、何十年もかけてやっと出来るようなことを、あっさりやってのけたりする。
こういうのは、いわゆる天稟、生まれ持った素質ってやつか。天賦の才能。天才だ。ごく稀に、そういう人間がいるにはいる」
呂律は少し頼りなくなりつつあった。
今までの巨漢の会話を反芻するジノンだったが、どこから本気でどこから酔っ払いの戯言だったのやら。
安直に信奉せず、参考程度にしておこう。全部が全部、口からでまかせとは思えないが、念のため。
「天才って、もしかして母さんみたいなのをいうのかな?」
ポツリと冗談めかした口調で漏らした声は、なにげに本気の純度が高い。
ジャンの妻にしてジノンの母カレン。
年齢不詳の、絶世と表現してもおかしくない美女である彼女の生業は、調薬師だ。
よろずの病気に限らず、美容健康、果ては惚れた腫れた絡みの怪しげな薬まで調合して売りに出している。
特に美容の薬は、本人の容貌も相まって凄まじい人気を誇る。
三日に一回の出荷分は、店頭に並べられる端から売り切れると評判だ。
だけでない。
読み書きも堪能で代筆を頼まれることも多く、あげく古代文字にまで精通しているから、王立学院の学者が若葉亭に書物を持ち込んでくることなんてのもしばしばだ。
また、ジノン自身もおそろしくて詳しくは訊いてないが、魔術も能くするということらしい。
それは凄まじい魔力の持ち主だったそうで、でもジノンが生まれるころにはめっきりワンドは手放したそうな。
まあ今は家を出た姉の言うことなので、ジノンは話半分は差し引いている。
しかしもし本当なら、カレンは良妻賢母どころの話ではない。文字通りの大魔女、大魔王だ。
「カレン、カレン、あいつか…」
口の中で呟くバルバドゥス。
「アイツは天才なんかじゃないな」
厚い唇の端が苦いものを舐めたようにゆがんで見えたのは、ジノンの気のせいだろうか?
「アイツは天才なんかじゃねえ。バケモノだ」
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