百四十七話 南苑の花
「梅のつぼみも、色付いてきましたね」
夕方のお祈りが終わった後。
塀(へい)紅猫(こうみょう)貴妃が、中庭の梅を見てそうおっしゃられた。
色々バタバタして少しやつれられたけれど、塀貴妃は引き続き、私たちと一緒に夕方のお祈りに参加している。
お城の各所に植えられている梅が開花する頃に、水治めの大きな祭りごとがあることは前にも知らされていた。
祭祀の主催は皇帝陛下ということになっているけれど、後宮側の現場監督は塀貴妃であり、彼女の責任は重い。
「私たちも精一杯、支えさせていただきます」
「ありがとう、麗。あんなことをした私なんかを励ましてくれて」
ぐす、と塀貴妃は湿った鼻を鳴らした。
私たちの邪魔をして、万事なかったことにしようとしたことを、まだ悔いておられるのだ。
実際、あのとき一番ヤバかったのはこの人の呪禁だったと思う。
なにせあの翔霏(しょうひ)ですらまったく太刀打ちできない、強い戒めの力が働いたのだ。
その上、塀貴妃は位の高い公爵家のお姫さまであり、南苑統括のお妃さまである。
玄霧(げんむ)さんたち司午家(しごけ)の面々がいくらゴネたところで、政治力で揉み潰すくらいのことは、できたはずだからね。
もう少しだけ、塀貴妃が酷薄であり油断しない方であったなら、私たちの目論見はすべて頓挫していたに違いない。
「過ぎたことですし、塀殿下に邪念がなかったことは、私たちみんな、深く承知しています」
結果としてはそうはならなかったわけで、その抜けているところが塀貴妃のチャーミングポイントかなと、私は失礼ながら思うのである。
この人を憎む気持ちには、どうしてもなれない。
周りにそんな印象を持たせるリーダー像というのも、それはそれでアリなのだなと思う。
翠(すい)さまや玉楊(ぎょくよう)さんに勝るとも劣らない、素敵な統括ですよ、自信を持ってください。
私は心の中で、塀貴妃にそうエールを送るのだった。
自己評価が低い人って、見てて可愛いんだよね。
と闇っぽい感想を胸に抱いているのも、秘密である。
多分これ、漣(れん)さまも同じように感じているはずだし。
「麗、一勝負、受けてくれますか」
夜の支度もほぼ終わり、漣さまが寝入った後。
侍女の詰める部屋で、卓上におもちゃを広げた孤氷(こひょう)さんが、きらりと瞳を輝かせてそう言った。
「軍兵(ぐんぺい)ですか。いいですね。やりましょう」
前にも遊んだ、将棋にも似たその盤上遊戯の道具。
寝る前に一局、孤氷さんは駒を握って私と勝負したいらしい。
「前は奇策に意表を突かれました。今回はそうはいきません」
ぱち、と駒を進める孤氷さん。
以前の対局では私が姑息な一発芸で勝利したのを、悔しいと思い続けていたのだろうか。
慎重かつ堅実な駒運びで、おかしな小細工には翻弄されないぞ、という意志を感じる。
「なら私も、堂々と受けて立つだけですっ」
駒たちが右へ左へ、前へ後ろへと躍動する。
一手、また一手とお互いに差し合いながら、私たちは言葉にならない会話を交わす。
「これはどうです」
じわりじわりと駒を取られ、自陣に攻め込まれ、私の側がじり貧になって来た。
「ぐぬぬ、このまま負けてたまりますか」
私は起死回生を狙い、前線から離れた位置の駒を突出させるけれど。
「苦し紛れの攪乱ですね。捨て置いても問題ないでしょう」
冷静に受ける孤氷さんの指し手を揺るがすことはできなかった。
結局、横綱相撲のような王道の攻めに抗しきれず、私の陣は削られ崩壊して、旗手の駒を詰められた。
「ギィ、参りました。もうありません」
「ふう、なんとか勝ちましたか」
いつの間にか二人とも白熱していて、額の汗を揃ってぬぐった。
その動作の偶然の一致が面白くて、私たちは顔を見合わせて笑った。
「麗」
「はい、なんでしょう」
駒を片付けながら、私は孤氷さんの言を受ける。
「あなたが、どうやら尋常な女の子でないことは、私も薄々わかります。だからこれからする私のお説教なんて、あなたにとっては塵ほどの価値もないかもしれません」
「そんなことはありません。私は孤氷さんを、頼りになる先輩だと、深く尊敬しています」
漣さまと同じく、孤氷さんはずっと、ブレなかった。
こんなに強い人たちが世の中にいるのかと、私は自分の不明と不見識を恥じるしかない。
戌族(じゅつぞく)の頭目たちが振るう暴威や、首狩り軍師の持つ狡知や性情だけが、強さの形ではないのだ。
「ありがとう。なら遠慮なく言いますが、今のように、奇策が通じるのは運が良いときだけなのです。運に頼らずに物事を成し遂げるためには、どうしたって愚直に習慣づけ、蓄積するほかないのです」
耳に痛い話だけれど、まったくその通りだ。
私は今まで、運良く生き延びたし、運良く敵を撃退し、打ち倒すことができた。
それを運ではなく自分の力と経験に変えるためには、揺らぐことのない軸を定め、愚直に習慣として、積み重ねて行かなければならない。
毎日を、文字通り三百六十五日、休まず漣さまとともに祈り続けてきた孤氷さんには、積み重ねたからこそ見える世界が、強固にあるのだろう。
雨の日も、風の日も、夏の日照りにも冬の寒さの中にあっても。
ひたすらに漣さまの背中を支えて、祈り続けた果てに龍神の光を垣間見た孤氷さんだからこそ、私にそう言い残すのだろう。
「私は、私にとっての『なにか』を定め、一生懸命に繰り返し、積み重ねなければいけないんですね」
「そうなのだろうと、思います。麗のように頭が良く、目端の利く子は今までに何人か見て来ました。けれどその子たちの多くは、自分の才に浮かされ胡坐をかき、一つのことを積み重ねることを怠りました。結局は不本意に中途半端な立ち位置で、生に意味を見いだせない、退屈な日々を送っているようです」
重い訓戒であった。
ちょっと勉強ができるからと言って、調子に乗ったりすることがある私には、クリティカルに刺さる説諭である。
できることと、足ることとは、別なのだ。
覇聖鳳(はせお)もこの世から去り、いずれ翠さまもきっと可愛い赤ちゃんを産む。
神台邑(じんだいむら)の復興は、そもそも余所者である私がいたっていなくたっていいことだ。
そうなったとき、私の人生には、なにがあるのか。
私はなにを支えに生きて、なにを積み重ねて日々を送るべきなのだろうか。
それを決めるのは、見つけるのは、私自身にしかできないことなのだ。
例えば翠さまにとってのそれは、皇帝陛下への愛情と、国や後宮、あるいは司午一族に対しての責任感なのだろう。
同じように私も、強く太い柱を、自分の心の中に立てなければいけない。
「ありがとうございます、孤氷さん。じっくり、考えたいと思います」
感謝を述べて頭を下げる私。
孤氷さんはいつものすまし顔を少しだけ赤くして。
「軍兵駒の勝負は、一勝一敗です。あなたが偉くなった暁には、思い出話の中でそのように周りに言ってください。私も一目置かれるでしょう」
どこかぎこちないお茶目を言い、私の腹筋を痛めるのであった。
そして夜が明け、翌朝。
「ありゃ、こんにちは。どしたの?」
私は後宮で思いがけない女性と会い、思わず声をかけた。
「忘れ物を取りに来たのよ。ついでに麗さんの顔も見ようかなと思って」
かつて南苑の欧(おう)美人の下で働き、そこを首になってからも私のアリバイ工作を手伝ってくれたりした、下働き侍女ちゃんである。
小刀を投げて私に悪戯を仕掛けてきた前科があるので、心の中では小刀ちゃんと呼んでいる。
「そっかあ。結局、司午の別邸で働けることになったんだっけ?」
「うん。ついでに獏(ばく)さんも、秘書みたいな感じで司午家に隠れてお世話になるみたい。まだ中書堂には戻れないだろうから」
欧美人と不倫遊びの果てに捨てられた、軽薄ナンパ書官の獏さん。
彼も今回の事件で私たちに情報をリークしてくれた立場なので、その身柄はできる限り保護しなければならない。
玄霧(げんむ)さんが良いように取り計らってくれたのなら安心ではある。
けれど。
「あの人、隙あらば口説いて来るから、気をつけなよ」
私は小刀ちゃんにそう忠告した。
しかし。
「フフ、大丈夫よ。ご心配ありがと」
彼女は色っぽい流し目で言って、自分の用事に戻って行った。
な、なんだあの意味ありげな微笑は。
まるで「お子ちゃまにはこれ以上話すことはない」とでも言いたげだったぞ。
まさか獏の野郎、すでに小刀ちゃんに手を出して、懇ろの関係になったのか!?
いかん、いかんぞ、想雲(そううん)くんの教育に悪いことを、司午別邸で繰り広げられては!!
「そ、そうだ。玄霧さんにチクろう、そうしよう。男女の別を明らかにして不埒に目を光らせてくれないと」
などと勝手な思い込みと余計なお世話でオタオタしながら、私はとりあえず銀月(ぎんげつ)さんの姿を探し求め、後宮をうろつく。
私が後宮を離れられるような余裕はここしばらくなさそうなので、代わりに伝言してもらうためだ。
もっとも、こんなことを告げ口したいと話したところで、一笑に付されるのが関の山だろうけれど。
「なにを慌てているのです。朱蜂宮(しゅほうきゅう)の中で塵を立てて走り回るものではありません」
みっともなく取り乱していたら、そんな突っ込みを受けた。
「せ、正妃殿下。これは、無様を晒して申し訳ございません」
正妃、素乾(そかん)柳由(りゅうゆう)さまが、後ろにイヤミ宦官の川久(せんきゅう)太監を連れて、南苑にいらっしゃったのだ。
「ちょうどいい所でした。これから紅猫(こうみょう)の部屋で少しお話があるのですが、漣も同席して欲しいと伝えてくれますか」
「はっ、かしこまりました」
正妃さまに命じられて、私は漣さまの部屋に戻り、事の次第を伝えた。
改めて、漣さまや塀さまに揃って聞いてほしい話というのは、なんだろう。
「水治めの段取りについてでしょうか」
私の質問に、漣さまは中空をぼんやり見て。
「あ、おめでたい話や。いやあ、良かったわあ」
それだけを答えた。
悪い話でないのなら、結構なことだ。
そう思って集まった話の席、正妃さまが難しい顔で、話し始めた。
「私も、元は南苑に籍を置く妃の一人。幸運にも主上の正妃として傍に侍る機を賜りましたが、あなたたちを姉妹家族として思う気持ちは変わらず」
「大妃(おおきさき)さん、小難しいことはええねん。赤ちゃん、できたんやろ?」
話の途中、ぶった切る形で、漣さまが言ってしまった。
なぜ知っているんだ。
とでも言うような大きな驚きの表情で、正妃さまは漣さまを見つめたのだった。
正妃柳由殿下、このタイミングでまさかの、ご懐妊。
翠さまの出産が遅れることもあり、お世継ぎ事情がさらなる混迷の中に放り込まれるのであった。
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