百四十五話 朱筆

 梅が咲いたら、水治めと呼ばれる祭祀がある。

 これは後宮だけの話ではなく、皇帝陛下が執り行う国事。

 雨が適度に降り、川が氾濫しませんようにと、水神である龍に祈るのだ。


「さすがに、また顔を出してくれたりはしませんよね、龍の神さま」

「二度も三度もあってたまりますか。神威(しんい)を浴びすぎて心身がおかしくなってしまいます」


 部屋仕事の最中、私が聞いたことに孤氷(こひょう)さんが答える。

 ありがた過ぎるものは、滅多にお目にかかれないし、ないほうがいいのだ。

 逆説的なメタ発言をすれば、神さまが頻繁に姿を現すようになり、非日常が日常に転倒するようになってしまっては、もうこの国も終わり、世界の破局(カタストロフ)が近いのである。

 本当にわずかな光栄に与れたことを、畏れなければ、いけないのだね。

 かしこみ、かしこみ。


「麗侍女、そろそろよろしいですかな」

「あ、銀月(ぎんげつ)さん。はい、大丈夫です」


 今日は書官や宦官の皆さんと、前に続いて中書堂周りのお仕事がある。

 皇城内がバタバタしたことで東庁(とうちょう)への出入り禁止令も有耶無耶になった。

 大手を振ってお手伝いすることができるぞ。

 後宮を出ると、工事現場では相変わらず、軽螢(けいけい)が中書堂の建設に加わって、少年たちと一緒に元気に作業していた。

 私たちは彼らに礼をして、向こうもぺこりと礼を返し、仕事に戻った。


「想雲(そううん)くんは、今日も馬蝋(ばろう)さんのところですか?」

「いかにも。玄霧(げんむ)どのも話し合いに参加されております。なにせ司午家(しごけ)にとっては一大事とも言えることでござりますからな」


 翠(すい)さま昏睡事件が明るみになったことで、司午家の人たちと国の偉い役人さんは、調査や補償についての難しい問題を乗り越えなければならない。

 なにせ、敵は煮ても焼いても食えぬような首狩り軍師なのである。

 翔霏(しょうひ)はボディガードとして玄霧さんに一時的に雇われており、ひょっとして来るかもしれない姜(きょう)さんからの刺客を待ち構え、指を鳴らしながら過ごしている。

 そう、翔霏と言えば。

 私は彼女に戌族(じゅつぞく)の呪いがかけられているなんて、姜さんと話を合わせた大海寺(だいかいじ)の生臭坊主の与太話だと思っていたのだけれど。


「呪いがあるかないかで言えば、おそらくあるのだろうな。言葉にはしにくいが、体の芯の部分に、なにか不愉快に重いものを感じるのは確かだ」


 龍の神さまを見送った後、そんなことを話していたのだ。

 

「な、なら私が呼んだのなんて無視して、そのままお寺にいてよ! 解けなくなっちゃうかもしれないでしょ! って言うか早くお寺に戻りなさい!」


 私は驚いて、翔霏にそう命じたのだけれど。


「あんなかび臭く退屈な部屋で、薄気味悪い木人形と寝起きするのはもううんざりだ。やはり私は沸(ふつ)の坊主どもはいけ好かんな」

「そんなこと言ってる場合じゃないじゃん!」

「呪いを解くにしても、別の方法を探すさ。貴妃さまが目覚めたら相談してみる。破邪の権能に関しては専門家だ。寺よりずっと良い」


 変なところでワガママで好き嫌いの激しい彼女は、頑として大海寺に戻るのを嫌がったのだった。

 そんなに嫌われるなんて、よっぽど雰囲気の悪いお寺だったのかな。

 もしくは、出てきた食事が好みでなかったか、単に翔霏は閉暗所恐怖症だとか。

 逆に興味が湧いてしまったわ。


「ってことがあって翔霏ってば、お寺に行くのを嫌がってるんですよ。もう立派な大人の淑女なのに」


 回想から意識を戻して、翔霏の聞かん坊ぶりを銀月さんに愚痴る。

 歯医者に行きたがらない子どもだよ、まるで。


「それは、解呪の途中で呼びつけてしまった麗侍女に、気を遣わせぬための配慮でございましょう」

「ですかねえ」

「なににせよ、翠さまがお目覚めなされば、万事良き方に向かわれます。信じて待ちましょうぞ」


 そうだね、それしかない。

 最新の情報では、翠さまは「寝てはいるけれどピクピクと反射反応は示すし、口元に運んだ水分も飲み込む、お腹の子も現状維持」な状態である。

 翠さまの生命活動をゆっくりさせ、体の衰えと命の危険を可能な限り小さくした上で、時間をかけて緊縛昏睡の呪いを解いている、というのが現状だ。

 以前に知らされたことと劇的な変化はない。

 あの強い翠さまのことである、心配はいらないのだろう。

 しっかり顔を上げて、自分を奮い立たせて、東庁へ入る。


「今日も多くの方にお集まりいただき、まことにありがとうございまする。無学で役に立たぬ身にはございますが、ご入り用がれば拙になんなりと申し付けくだされ」


 居並ぶ男性たちの前で、銀月さんが恭しく述べた。

 馬蝋さんは除葛(じょかつ)姜(きょう)陰謀事件の対応のため、ここにはいない。

 代わりとして中書堂再建関係の仕事の多くを、銀月さんに引き継いだのである。

 そしてなぜかここに、椿珠(ちんじゅ)さんがいた。

 身なりを良くしていれば品のあるイケメンなので、まったく違和感なく溶け込んでいるのが怖い。

 椿珠さんは銀月さんの肩に優しく手を置き、聞いた。


「銀月兄、工事ももう終盤に差し掛かる。組み付けた柱や床にどうしたって細かな隙間が目立つようになるが、前の中書堂ではどうしていたんだい」

「それでしたら、膠石(にかわいし)を使うか、細かい場所は麦漆(むぎうるし)などが良いでありましょうな。もちろん、楔を打ち込むのが最も丈夫ではありましょうが……」


 膠石というのは要するにコンクリートやモルタルなどの、石灰系建材である。

 銀月さんが工芸や手仕事に詳しいのは、お父さまが国の工兵だったからだそうだ。

 大卓に紙を広げて銀月さんが絵を描き、建材や補修材の使い方をみなさんに説明する。

 絵も上手いな~。

 私も以前から出していたアイデアの細部情報を、下手くそな絵で紙面の余白に描いた。


「こうやって溝を切った床の上に本棚をはめ込めば、人の力でスイーと押して動かせるんですよ」


 図書館の資料室にあるような、スライド本棚である。

 レールの上を移動するように組み付ければ、小さな力でも重い構造物を動かすことができる。

 しかしその説明に、あとから来た一人の優男が渋い声を返した。


「引き戸の形で書棚を作るということですか。しかし天井から吊り下げねば結局は重いままでは?」

「それはですね、溝の噛み合わせ部分の中に、小さな丸い鋼の玉を並べて詰めて」


 と、ボールベアリングや下部の可動車輪について話そうとしたら。


「って、百憩(ひゃっけい)さん! 帰って来てたんですか!?」


 久しぶりに会った怪僧を前に、私は驚きの声を上げた。

 西方出身の沸教僧(ふっきょうそう)、百憩さんその人である。 


「今朝、河旭(かきょく)に着いたばかりです。仕事に戻る前にこちらに顔を出しておこうかと思ったら、面白そうなことになっていますね。まさか央那さんがいるとは」

「あはは、お久しぶりですネ~」


 なんだ貴様、私をおもしろどうぶつ扱いしてるのか、アァン?

 スライド本棚の話は椿珠さんと銀月さんに任せて、私は百憩さんとともに外へ出る。

 どうしたって、話しておかなければならないことがあるからね、この人には。

 いつかもこうして二人で話した、後宮の外にある人工池の畔。

 まず食って掛かるように、真っ先に言うべきことを私は言った。


「あんたの仲良し姜ちゃん、とんでもねーことしてくれたんだけどぉ!? どう落とし前取ってくれるつもり!?」

「事情は聞いていますが、それを拙僧に言われても……」


 小娘の恫喝などさほど答えないのか、気まずそうな顔をされたのみ。

 私は八つ当たりと思い込みから、次のようにまくしたてた。


「私、思うんだ。百憩さんが都にいたら、姜さん、こんなことしなかったって。変なことしても、百憩さんなら気付いて止めたでしょ」

「ことが起こっている中心は尾州(びしゅう)と角州(かくしゅう)でしょう。拙僧が河旭にいたとしても、できたことはありません」

「ほんとかなあ」

「今でも、他の方に話を聞いたからなるほど、そういうことがあったのかと、かろうじて思えますが、正直、拙僧は幼麒(ようき)が本当にそんなことをしたのかが、信じられませんので」


 幼い麒麟というのは、姜さんのあだ名である。

 もっとも今現在、その可愛い名であの人を呼ぶのは百憩さんしかいないけれど。


「そりゃ、百憩さんは昔からの知り合いだし、姜さんを可愛がってたからそう思うんでしょうよ」

「違います」


 きっぱりと言って、真面目な顔で私を見つめ、百憩さんは言い切った。


「幼麒がなにか大がかりなことを仕掛けたのなら、発覚したころにはすべて終わっているでしょう。しかし今回は央那さんに見破られて反撃を打たれ、手に縄がかかろうとしている。もちろん、央那さんが良くやったと言えばそれまででしょうが」

「ああ、そういう方向ですか」


 私が勝ったのが信じられねーとは、失礼な物言いだな、おい。

 私もこの人に対して今更、変に気を遣わず話しているので、そこを汲んでいるのだろう。

 言われてみれば、確かにね。

 姜さんが本当の本気と書いてマジモードだったら、私がどうこうできる余地はなかった。

 下手すりゃ私一人や二人、殺されていたに違いないのだ。

 その上で百憩さんは、状況を整理してくれた。


「除葛美人を可愛い親戚と思い、陰から良くしてやろうという幼麒の思い、これはおそらく間違いないでしょう。美人が宮中で良い立場になれば、除葛氏全体の利益になる、これも曲がることのない事実です」

「ふむふむ、続けて」


 随分と偉そうな私であった。


「ですが、そのためだからと言って、司午貴妃に危害を加えるという発想になるでしょうか?」


 少し考えて、私は答えた。


「いくらなんでも危ない橋過ぎるし、姜さんにとっては別に翠さまが憎いわけじゃないんだから、本当はそんなこと、したくないですよね。司午家だけじゃなく、お城も混乱するし、陛下のお心だって乱れるわけだし」


 人の姿をした怪魔なら、そんな破れかぶれをするかもしれないけれど。

 姜さんは魔物の皮をかぶっているだけで、本質は合理主義者である。

 全体として得られるものがつり合ってないと、バクチを打とうとも思わないはずだ。

 百憩さんも同じ意見らしく、こう推論した。


「おそらくですが、周囲の親戚につつかれたか、一族の有力者に忖度したか。幼麒が実行に移さざるを得なかった事情はその辺りでしょう。彼の本意本心であれば、もっと周到でありかつ迅速なことが行われていたに違いありません」

「肝心なところは片手間かよ……」


 悔しいけれど、この坊さんの言う通りだわい。

 姜さんは翠さまにも私にも、手加減していた。

 不本意な陰謀であっても、周囲の期待から行わずにはいられない状況だったので、私がそれを止める可能性を増やしたとも考えられるのか?

 げんなりしている私に、百憩さんが優しく声をかける。


「もし、幼麒に会うことがあれば、拙僧からも厳しく叱っておきます」

「好きにしてください」


 猫背のまま、私は東庁の残ってる仕事も打っちゃって、漣さまのお部屋に戻るのだった。

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