2章 コードブラック①

 午前八時。日勤の就業開始時間の三十分前になり、霊病科室にばらばらとエリクや和佐が出勤してきた。


「えっ、じゃあ夜のうちに、うおちゃんたちが解決しちゃったってこと?」


 男子大学生たちが逮捕されるまでの事の顛末を話すと、エリクは昼食であろう院内併設のカフェのロゴが入った紙袋を冷蔵庫に入れながら、びっくりしていた。


 パソコンの前で昨夜の記録に目を通していた和佐は舌打ちをする。


「また、そっちがリードかよ」


 記録を打ち込んでいた翔太はうんざりしたように、キャスター付きの椅子ごと和佐のほうを向いた。


「こっちは仕事でやっただけだから」


 そのドライな回答に、和佐は「けっ」と気に食わなそうに返す。


「あ、そういえばあんたの兄貴に会った」


「……は?」


 勢いよく翔太を振り返った和佐の顔は、心底嫌そうだ。


「なにそれ! 僕も見て見たかったなーっ」


 エリクが騒いでいる横で、ポットの前にいた京紫朗がコーヒーの入ったカップを手に一叶と翔太を振り返る。


「あ、赤鬼くん、黄色くん、オンコール用の携帯を水色さんたちに渡しておいてくださいね」


「はいこれ!」


 エリクから携帯を受け取り、自分のデスクに戻って夜間帯の記録を書いていると、ポケットの中でスマホが震えているのに気づいた。


 スマホを取り出せば、画面には母からメッセージが届いている。


(そういえば、昨日家に帰れなかったから、霊病科に強制配属されたこと、お母さんに言えてない……)


 気が重くなるのを感じながら、アプリのアイコンをタッチして、トークルームを開いた。



 【今日は帰ってこないの? 午後9:03】


 【どうして返事がないの? 午後9:15】


 【早く連絡しなさい 午後9:17】



 etc(エトセトラ)……母からのメッセージが鬼のようにたまっていた。それも数分刻みで、初めのメッセージに辿り着くまでに時間がかかる。



 【ごめんなさい、夜勤でした 午前8:14】


 【それから国の命令で霊病科に配属になりました 午前8:15】


 返事はすぐにあった。


 【病理科じゃないの? すぐに部署を変えてもらいなさい 午前8:17】


 【国の命令だから無理だよ……一年は強制労働だから。退職しても次の職場で霊病科に配属されるかもしれない。職歴に傷がつくし、一年はいないと 午前8:20】


【そんな病院に入るからよ。お母さんの言った通りにすれば、こんなことにはならなかった。第一、霊病科ってなによ 午前8:23】


【信じてもらえないかもしれないけど、霊が引き起こす病を治療する科のこと。公にはされてないけど、どこの病院にもあるんだって 午前8:25】


【嘘つき 午前8:26】



 どくりと心臓が嫌な音を立てる。正直に話して信じてもらえるとは思っていなかったけれど、そんな言い方をしなくても。


 ショックで返事ができないでいると、向こうから連投でメッセージが送られてくる。



【本当は病理科に行く気なかったんでしょ。霊の起こす病気を治す? もっとましな嘘はつけなかったの? この嘘つき できそこない お母さんの失敗作……】



 もう見ていられなかった。一叶は勢いよくスマホを裏返して、視界に入らないようにすると、込み上げてくる言葉にならない憤りを深く息を吐いて逃がした。


(嘘じゃないのに。私が決めたことじゃないのに。どうしてお母さんは、私を責めるの)


 じっと胸の痛みに耐えていると、


「平気?」


 デスクが隣同士の翔太が、心配そうにこちらを見ていた。もしかしたら、一叶のなにかを感じ取ったのかもしれない。


「あ、ちょっと母に返事をしてて」


 笑みを繕って、急いでスマホを白衣のポケットへしまう。


「そっ……か……なら、いいんだけど……」


 翔太はなにか言いたげだったが、適度な距離でしか人とは付き合わないと公言していただけに、それ以上は踏み込んでこなかった。




「ふたりとも、もう上がっていいですよ」


 夜勤明けの申し送りを済ませると、部長から帰宅の許可が出た。


「今のところ新患しんかんもいないですし、連続勤務じゃなくてよかったですね」


「でも、素直に喜べない。俺たち、オンコールの呪いに囚われてる」


 デスクでげんなりしている翔太に、エリクが「まあまあ」と言いながら冷蔵庫を開け、エナジードリンクを二本取り出した。


「その呪いは霊病医であるうちは解けないだろうけど、はいこれ!」


 エリクは翔太にエナジードリンクを差し出す。


「ポーションを授けてしんぜよう」


 くだらねえと和佐は呆れていたが、エリクはなかなかノリがいい。仕事で疲れていても、エリクの明るさには救われる。


「マジ神」


 翔太は両手を合わせてエリクを崇めていた。


「はい、うおちゃんも」


 こちらにやってきたエリクが、一叶にもエナジードリンクをくれる。


「ありがとう」


 よく気の回る人だ。自分も見習わなければと、それを大事に受け取った。


「どういたしまして」


 エリクはにっこりとして、今度は京紫朗と和佐のほうを向いた。


「ふたりのぶんも冷蔵庫にありますよー。好きなときにどうぞ」


 そう言いながら、エリクが自分のデスクに戻る。


 翔太と荷物をまとめ、鞄を手に腰を上げたとき、エリクたちもタブレットを脇に抱えて席を立った。


「僕たちこれから井上さんの診察に行くんだ。途中まで、ご一緒しましょ?」


 一叶たちは一階で降りるので少しの間しか一緒にいられないのだけれど、嬉しさを噛みしめつつ「うん」と答えた。


「てめえら、多分帰れねえぞ」


 先に戸口のほうまで歩いていった和佐が、意味深な言葉を残して部屋を出ていく。


「えっ、なにその予言」


 怖っと翔太は腕をさする。


「そんなことより、待ってよ大王!」


 エリクが慌てて和佐を追いかけ、翔太もあとに続く。一叶も歩き出そうとすると、後ろで京紫朗が小さく息をつくのが聞こえた。


「松芭部長?」


 振り返れば、京紫朗は肩を竦めて笑う。


「いえ、なんでもありません。私たちも行きましょうか」


 一叶は首を傾げながらも「はい」と返し、エレベーターで待ってくれていたエリクたちに合流した。


「松芭部長はこのまま通し……ですか?」


 自分たちと同じ夜勤明けなのに、帰る気配のない京紫朗に一叶は尋ねる。


「はい。皆さんが育つまでは、患者がいる以上、そうなりますね」


 休んでくださいと言いたいところだが、京紫朗以外が全員フェローのこの状態では難しいだろう。


(早く即戦力にならないと……)


 京紫朗の負担を減らすことはできない。

 ひとりで意気込んでいると、京紫朗がくすっと笑った。


「ありがとうございます」


 気持ちを見透かされているのだとわかり、なんだか照れ臭い。一叶がつい視線を落としたとき、翔太が「あれ?」と焦り出した。


「一階で止まらない」


 一叶も「え……」と顔を上げる。


 更衣室に行くには一階で降りなければいけないのだが、エレベーターの階数表示板の階数は上昇を続けていた。


「ボ、ボタン、押したよね?」


「ん、絶対押した」


 実際、一叶も翔太が押したのを見ている。


「とりあえず、次の階で降りる?」


 エリクが苦笑しながら間に合いそうな三階のボタンを押すが、エレベーターはまたも止まらず通り過ぎていく。


 皆で階数表示版を見上げて固まっていると、エリクがぽつりと呟いた。


「……今日は気分が乗らないのかな」


「どんなエレベーターだよ」


 すかさず和佐が突っ込んだ。


(誰かが引き止めてるのかも……)


 京紫朗も心当たりがあるのか、さほど動揺した様子もなく、真剣な表情で階数表示版を見上げている。


 あの女子高生の霊も、エレベーターを使えなくして、非常階段を使うよう一叶を誘導した。


(もしかして……)


 階段の踊り場で一叶を助けてくれた男性の霊の姿が頭に浮かんだ。


 一叶たちを引き留めているのは、彼かもしれない。そんなふうに考えるなんて、我ながら霊病科に馴染むのが早すぎないだろうか。


 初っ端からムンクの叫び像が映ったレントゲン写真や窓越しにストーカーの幻覚と対面する羽目になり、患者の胸からは女の叫び声が聞こえてくる。極めつけは夜勤中にふたりの霊に遭遇……一種のショック療法かもしれない。


 やがて、エレベーターは到着音を鳴らしながら、精神科のある七階で止まった。仕方ないのでぞろぞろと降りると、窓に雨粒がついている。


「雨……」


 霊視のときも降ってたな、となぜだか胸がざわつく。思い出して、いい気分になれる光景ではなかったからかもしれない。


「せっかくだし、俺たちも井上さんのところに行く?」


 前屈みになった翔太が、ひょいっと顔を覗き込んでくる。


「そう……だね。なんか、心配だし」


 一叶は肩を竦めて頷いた。

 翔太はなんでとは聞かなかった。彼はエンパスだ。一叶が雨を見て、あの霊視の光景を思い出し、春香が気になったことを感じ取って声をかけてくれたのかもしれない。


「ありゃ、いないね?」


 春香の病室の前まで行くと、エリクの言ったように中に春香の姿はなかった。


「今の春香さんをひとりにするのは心配です。お手洗いならいいんですが……水色さん、念のため中を見てきてもらってもいいですか?」


「わかりま……」


 返事をしながら廊下の途中にあるトイレに目を向けると、あの男性の霊がいた。廊下の真ん中に立って、こっちだと一叶に知らせようとしているかのように突き当りのほうを指さして、すうっと消えてしまった。


「案内してくれるみたい」


「いるの? 旦那の霊」


 翔太が一叶の視線を辿るように廊下を見つめる。


「たぶん……」


 本人に聞く前に消えてしまったので確証はないけれど、なんとなく彼が旦那なのではないかと思う。


「霊がいるの? どこどこ? 僕には全然見えないや」


 きょろきょろしているエリクの隣で、和佐が「おい」と威圧的に一叶を見下ろしてきた。


「そいつに、ついていって大丈夫なのか?」


「ど、どうでしょう?」


「はっきりしやがれ」


 ぎろりと和佐に睨まれる。


 そんなこと言われてもと思わないでもないけれど、実際見えるのは自分しかいないので考えなければ。


「わ、私も彼のことを知ってるわけではないので断言はできないんですが……昨日、女子高生の霊に会ったときに霊視の中で溺れそうになって、それを彼が助けてくれたんです。だから、ついていっても大丈夫だと……思います」


「では、行きましょう。なにかあっても、大の男が四人もいるんですから、怖くはないでしょう?」


 京紫朗は和佐の性格をよくわかっている。挑発されたと思った和佐は鼻を鳴らしながら我先にと歩き出し、数歩先で足を止めて一叶を振り返る。


「案内!」


「あ、はい!」


 不機嫌そうに言われ、慌てて男性の霊の指さす場所へ足を向けた。


 渡り廊下を進み、空き病室の多い別棟のB館に移ると、壁に貼られていたチラシがぺらりと落ちる。


「わっ!」


 エリクが和佐の腕にしがみついた。


「ひっつくんじゃねえ、気持ち悪い!」


 和佐がエリクを引き剥がそうとしている間にも、壁に貼られた他のチラシまでもがぱらぱらと廊下に落ちていく。


「まるでこっちだと案内されているようですね」


 姿は見えないけれど、彼だと思った。

 一叶たちは慎重に先に進む。すると廊下の先で、ある病室の前の電気がチカチカと点滅していた。


「うわ、あそこに行けってこと?」


 翔太もちゃっかり和佐の背を盾にして、後ろにぴったりくっついている。


「どさくさに紛れて、てめぇもなにしてやがる」


 和佐は前を向いたまま、額に青筋を作った。


「『セブンナイトサーガ』ではさ、アンデットって、魔族の大王の配下なんだよ」


「知らねぇよ。つか、なんだよ。そのセブン……なんちゃらってやつは」


「俺のやってるRPG。大王のあんたもアンデット、死霊の仲間みたいなものだし、襲われる可能性低いから大丈夫」


「意味わかんねえオタク用語で喋んじゃねえ。俺を盾にしてるだけだろうが」


 和佐はますますチンピラ顔になる。


 和佐には悪いが、ふたりのやり取りにいくらか恐怖が和らいだ。ひとりだったら前に進めなかっただろうから、皆がいてくれてよかったと心底思う。


 点滅する電気の真下までやってくると、皆で目の前の病室に向き直った。すると、エリクが入口の横のネームプレートを見る。


「ネームプレートがない……空き部屋みたいだね」


「開けるぞ」


 和佐がドアの取っ手を掴み、カラカラと音を立てながら開く。


「井上さん!」


 エリクが叫ぶ。


 室内に春香はいた。だが、その身体は数センチほど宙に浮いており、首を押さえてじたばたと足をばたつかせている。


「ちょっ……浮いてる!」


 翔太は信じられないものを見たとばかりに放心していた。


 皆には〝春香だけが宙に浮いている〟ように見えているようだ。けれど、一叶の瞳には別のものも映っている。


「ち、違う……」


 一歩後ずされば、翔太が「どういうこと?」と声をかけてくる。だが、一叶は目の前の光景から視線を逸らせない。


 はあっと荒い呼吸を繰り返し、眼鏡を曇らせ、春香の首を絞めながら持ち上げている――ふくよかな男の影が見えるのだ。その身体には無数の目玉があり、ぎょろぎょろと動いたり瞬きを繰り返したりしている。


「く、黒い男に首を絞められてる……!」


「……っ、すぐに下ろしますよ!」


 京紫朗に続いて、翔太や和佐も春香に駆け寄る。三人がかりで彼女の身体を下に降ろすと、春香は激しく咳き込んだ。


「春香さん!」


 一叶も彼女に駆け寄り、意識状態を確認する。


(目の焦点も合ってるし、唇の色も悪くない)


 ひとまずほっとして周囲を見ると、すでに黒い男は消えていた。けれど、彼女の首にはくっきりと手で絞められたような指の痕が残っている。


「……っ」


 先ほどの出来事が現実だったのだと実感し、ぶるりと身体が震えた。


「……して」


 春香がなにか言ったような気がして、「え?」と顔を覗き込む。すると、春香はきっとこちらを睨みつけ、一叶の白衣を引っ張った。


「どうして邪魔したの! 一緒に……っ、あっちに行ってあげられたのに……!」


「井上さん……あれは旦那さんではなくて……っ」


 たぶん、ストーカーの霊だった。彼が死んでいないのなら、生霊だ。夫の霊は別にいると説明しようとした一叶を京紫朗が「水色さん」と止める。


 京紫朗を見れば、首を横に振られた。確かに、ストーカーの生霊の存在を知らせるのは取り乱している彼女に追い打ちをかけるようなものだ。


「病室に戻りましょう」


 京紫朗が春香を立たせ、皆で病室を出ようとしたとき、後ろでキィッとガラスを引っ掻くような嫌な音がした。鳥肌が立つのを感じながら、皆で一斉に振り返る。


 ――キィッ、キィ~ッ、キッ、キィッッ、キィーッ、キキッ、キィ~~~ッ。


 窓ガラスに傷ができ、大きく文字が浮かび上がる。


【僕ガイルヨ】


 窓ガラスの端いっぱいまで使って書き殴られている文字を見て、一叶はひっと喉の奥で悲鳴をあげた。文字の端から水が垂れて伸びている様がいっそう気味悪い。


「んだよ、あれ……」


 和佐も顔をしかめている。


 これがストーカーの生霊からのメッセージだったらと思うと、恐怖とは別になにかが喉までせり上がってきた。だが、嘔気を催したのは一叶だけではない。


「うっ」


 翔太が口元を押さえながら身を折った。


「央くん、平気?」


 一叶は彼の背に手を当て、その顔を覗き込む。血の気は引き、汗をびっしょりとかき、問うまでもなく平気そうではない。


「ごめ、ちょっとやばい……」


 額を押さえて座り込む翔太に、エリクが近づく。


「手、貸すよ。ほら、大王も手伝って」


「仕方ねえな」


 エリクと和佐が翔太に肩を貸し、一叶たちは逃げるように病室を出た。

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