3-9


 昼飯を食べる気分にはならなかった。ただ時間をつぶしていく中で、胃がキリキリときしむ感覚だけが反芻した。何かを取り込むこともできただろうが、自分からそれをすることはなく、行儀悪く部屋の中でタバコを吸うくらいしかできなかった。


 空間に嫌なにおいがわだかまる。それをしたのは自分自身でしかない。結局、先ほどまでは吸いたくなかった煙草を吸って時間をつぶしているのだ、どこまでも自分自身に対しての無力感を感じずにはいられない。依存しているということを自覚することも、自暴自棄になって変な行動をとることに対しても。


 頭の中で繰り返し問いかけてくる人形の言葉、それを考えることはもうしたくない。タバコを吸っている間はその思考から離れることができるような気がした。気がするだけでしかなかったけれど。


 皐が帰ってくるまでどのくらいの時間があるだろうか。携帯に表示される時間を眺めてみるけれど、よくよく考えれば皐がいつも何時までアルバイトで働いているのかを俺は知らない。


 帰ればいつも皐がいて、そうしていつも学校に向かっている。当たり前に享受していた日常、特に気にすることもなかった風景の残滓。


 寂しい、そんな気持ちが心を占有するけれど、孤独感から皐を求めることは禁忌の肯定にはならない。いつまでも後ろめたい気持ちだけが反芻する。


 恭平に何も返信をすることはできず、皐に対面をしたとしても何かしらの言葉が生まれる気はしない。すべてを遠ざけて、どこかに逃げてしまいたい気分。


 結局、それを選択してしまえば、文字通りに俺という存在は終わりを告げるのだろう。だから、それを選択することはできないでいる。そんな自分がやはり無力で仕方がない。


 気分転換をしなければいけない、そう思って、俺は触れていたスマートフォンを充電器に挿して、片隅においていたノートパソコンを手に取る。


 ここ最近は文章に向き合っていない。詩も文章も、小説も、物語も。


 せめて、意識がそらせればいい。


 そんな気持ちで、俺はテキストエディターを開くことにした。





「あれ、今日は早いね」


 夕方近くになり、玄関のドアが開く音がした。そちらに顔を向けると、当たり前だけれどそこには皐がいた。高校とは違う鞄を背中に背負っており、格好も余所行きという服装。あまり見慣れていない彼女らしい服装という具合。それに少し違和感を覚えながらも、今まで知ろうとしていなかった彼女の一部分に触れてうれしくなる。きっとここでこそ後ろめたさを覚えるべきなんだろうけれど、いまだに彼女に対して知ることのできない何かがあることに、どうしてもうれしさを隠すことはできなかった。


「まあ、いろいろあったんだよ」


 彼女に言い訳は思いつかなかった。日中にあったことはそうとしか説明ができない。身体的な体調の悪さがあったわけでもない、精神的な調子の悪さがそうさせていて、具体的にどういう気持ちになっているかを表現することは自分自身でできないでいる。だからこそ、そんな表現を選んでしまった。


 皐は、まあそういうこともあるよね、と言葉に出しながら、家に上がり込んで肩に背負いっていた鞄を居間のほうにまで来て置く。見た目は単純なリュックサック、という感じなのに、置いた瞬間にドスンと重さを意識させるような音が響く。中には何が入っているのか気になったけれど、せっかく始めた文章の紡ぎを止めることに抵抗があったから行動はしない。おそらく、別に文章を書いていなくてもかばんを探るような真似はしなかっただろうけれど。


 ここからはいつも通りの日常でしかない。


 皐は学校に行く前にシャワーを浴びた。いつもであれば、俺がシャワーに入って、その間に皐が学校に行く支度をするけれど、今日に関しては逆転しているような感じがする。まだ学校に行くまでの時間はだいぶとある。だから、のびのびとした気持ちで学校の支度をしたあとは、適当に先ほどまで書いた文章を保存するようにした。


 ただ、ここで書いた文章を皐には見られたくなかったから、ファイルの位置は工夫して、彼女が見ないであろう場所に入れた。見られたくないというのならば消せばいいだけの話なのに、どうしてかそれを残して起きた気持ちがある。自分自身の感情を並べただけのものでしかないが、いつか振り返ることができれば、何かしらの清算ができるような、そんな気がしたから。


 文章を書いたおかげというべきか、昼間まで続いていた調子については拭えて来たような気がする。皐が来るまでノートパソコンの画面と向き合ってしかいなかったし、没頭していたから時間の経過というのも忘れてしまっていたが、その成果はあるといえるだろう。俺は静かに息を吐いた。


 しばらくして皐がシャワーを終わらせてくる。皐はシャワーを浴びた後、心地がいいと感じる匂いを漂わせながら着替えていく。同じシャンプーや石鹸を使っているはずなのに、彼女にしか感じない心地のいい香り、男女というだけでどうしてこんなに違うのだろう、とか、そんなことを考える。


 見慣れてしまった裸体は早々に布で覆われていく。そこに残念さを覚えることは後ろめたさだ。彼女が妹だから、とかそういうことではなく、きっと人としての話でしかない。


「翔也、今日はじっと見てくるね」


「……いや」


 彼女の体に見とれていることを悟られて、俺は視線をそらしてしまう。否定の言葉をだそうと、いや、と発言したけれど、そのあとに続く言葉を想像することができず、押し黙ることしかできない。


「翔也のえっち」


 皐は静かに笑いながらそういった。


 はは、と俺は苦笑を返す。


 それくらいの言葉で許されるのならば、それでいいと思ってしまったから。



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