第8話 危険なお持ち帰り

 寝落ちしてしまった椿原部長を起こしたり、押し除けたりする気力はもう俺にはなかった。

 ので、しばらくの間部長の胸に押し潰されて放心する時間が続いた。


 まるでつきたての餅を顔面に押し付けられているように、もっちりと流動的なそれは俺の顔面を覆い張り付き、かなり息苦しかった。

 しかし顔全体に広がる滑らかな肌の感触と、とろけるほどに温かい包容力が多少の苦しさなんて掻き消してくれた。

 濡れた衣服の不快感なんて、まるで気にならない。


 俺は自分から手を出さない代わりに、与えられるものを素直に享受することにしたのだ。

 そんな風に思考を放棄し、押し寄せる幸福な感触をただただ無心に感じ続けて。

 なんかもうこのまま死んでもいいかなぁなんてボヤッと思っていたところに、店員さんが閉店時間を知らせるために声をかけた。


 軽くドン引きしていた女子大生くらいの店員さんの冷え切った視線を受けながら、俺はお会計を済ませ、椿原部長を担いで店を出た。

 完全に酔い潰れてしまった部長はいくら強く起こしても全然シャキッとしてくれず、外に連れ出すのも一苦労で。


 肩を貸して一緒に歩く最中、全体重をこちらに預けて任せっきりにしてふらふらするものだから、溢れんばかりのお胸がぽんぽん気軽に俺にぶつかったりするのだけれど。

 美味しい役回りではあるが、この状況だと酔っ払いに対する面倒さが勝りつつあった。


 そんな椿原部長が一人で帰れるわけなんて当然なかった。

 放っておけばそこら辺で自身のわがままボディは容赦なく晒して爆睡することだろう。

 犯罪を誘発しないわけがない。これで相手方が罪に問われるのだから、その人に申し訳が立たない。


 そんな未来を予見した上で無視するわけにもいかないので、なんとか家に送り届けたいところだった。

 けれど、俺は椿原部長の家の場所どころか、どのあたりに住んでいるのかも全く知らなかった。

 終電が迫る中でも飲みに行けるのだから、そう遠くではないんだろうけれど。


 ちなみに、店を出たのは日付を越えた深夜一時前。

 俺の終電ももうなくなっている頃合いだった。


 ダメ元で桃木さんに、椿原部長の家のことを知らないかメールをしてみたけれど、時間も時間だからか返事はまるで来ず。

 俺に残された選択肢はもう一つしかなかった。


「ほら部長、着きましたよ」


 ぐにゃぐにゃのとろとろな椿原部長に一応そう声をかけ、パンプスを脱がせてやり部屋へとあげた。

 そう、俺の部屋だ。一人暮らしの自分の家に、部長を連れ帰ってきた。


 俺の家は電車で三駅のところにあって、一人なら最悪歩いてでも帰れるし、タクシーを拾ったってそこまで痛い出費にはならない。

 椿原部長のご自宅はわからず、その辺にほっぽっておくこともできないとなれば、もうこうするしかなかった。


 これで俺の家も帰れないほど遠いとなれば、もう割り切って会社に戻り、各々のデスクで一夜を明かすという選択肢もないではなかったけれど。

 なまじ帰れるものだから、体裁的にどう考えても良くは無いけれど、連れてきてしまった。

 だって俺もいい加減ゆっくり休みたかったから。


 意識があるのか無いのか、俺にへばりついて千鳥足な椿原部長を部屋の奥へと運び、半ば崩れるようにベッドへと転がす。

 仰向けにぐでんと体を投げ出した部長の胸は、ブラジャーで支えられているのにも関わらず、その自重に任せて左右にたぷんと広がり揺れた。

 よれよれのタイトスカートは太ももをかなり曝け出していて、寝返りでも打てば全て丸見えになりそうな状況だった。


「…………」


 もしこの光景を誰かに見られたら、きっと通報されるだろうなぁ。

 女上司を酔い潰して自宅に連れ込むクソ野郎として、世間様から白い目で見られるのは避けられない。

 それほどまでにこの状況はとてもよろしくない。


 そんな俺の焦燥なんてまるで知らず、椿原部長はスースーと穏やかな寝息を立てている。

 美人なので、大人しく寝ている姿はとても可愛らしい。

 普段とのギャップに少しドキリとするが、ここまでの労力を鑑みるとちょっと減点が働く。


 それにしても、寝息に合わせて上下する胸の膨らみが妙にエロい。

 開けっぴろげられた胸元だけでも刺激的なのに、そうも動きを見せられると注視せずにはいられない。


 とは言ってもこのままただ転がして置くわけにもいかない。

 さっきビールを被った椿原部長は、未だ胸元がビチョビチョなのだ。

 そのままだと風邪をひいてしまうかもしれないし、それにすごくビール臭い。


 ただ問題は、それらの正当な理由を踏まえた上で、女性の衣服を男の俺が脱がすことが許されるのか、ということだ。

 が、正直もうそんなこと知ったことかという気分だった。

 ここまで世話をかけ面倒をかけているのだから、それくらいのことでとやかく言わないでいただきたい、と。

 俺も俺で酔ってきて、思考が鈍ってきているかもしれない。


「椿原部長、失礼しますよ……」


 そう一応声をかけつつ、俺は部長へと手を伸ばした。

 先程自身で外してからそのままになっている胸元は、いつのまにか風前の灯だった糸が弾け、第三ボタンも完全解放されてしまっていた。

 通常時はそのはち切れんばかりの中身のせいでそこからはブラジャーを伺うことはできなかったが、寝転んでいることでそのタプタプの肉が上部に流れ、結果として赤い布地がインナーと共にチラ見えしている。


 一度深呼吸をしながら、俺は一つひとつボタンを外しにかかった。

 これは適切な介抱だと言い訳しつつ、拘束を一つ解放するたびに罪悪感がチクチクと俺の心を突き刺す。

 ボタンを外すための僅かな引き寄せ、それだけでも胸が寄せられ、その弾力がムニっと抵抗を見せるのだ。

 しかしそんなちゃちな罪悪感なんて、開け広げられたシャツから溢れ出すボリューム満点の膨らみを目にすれば、簡単に吹き飛んでしまう。


 胸のサイズに似合わない細いウェストや華奢な腰つき。

 着太り、とはまた違うんだろうけれど、普段窺えるものとはまるでは違う、メリハリが明確なボディーラインが顕になって、もう動悸が止まらない。


 本当はインナーも脱がせてあげた方がいいだろうけれど、流石にちょっと難しそうだ。

 ブラジャーなんてもってのほかだけれど、でもちょっと息苦しそうだし、ホックくらい緩めてあげた方がいいのか……?

 いやいやいや。それはもう完全にアウトラインを越えすぎている。いやでも……。


 そんな不埒なことを考えつつ、なんとかシャツを脱がそうとあくせくしていた、その時。


「んん……。草野、くん……?」


 椿原部長が目を覚ました。

 マズい、と咄嗟に手を放した時にはもう手遅れで。

 覆い被さるような体勢になっている俺と、開かれた部長の目がバッチリと合った。


「キャ、キャッ────!」


 甲高く悲鳴を上げ、しかし衝撃の方が強かったのか絶叫まではいかず。

 けれどもさっと血に気の引けた顔を浮かべた椿原部長に、俺は慌てて飛び退きながら即座に弁明の意を唱えた。


「ご、誤解です! 部長びょしょ濡れなので、せめてシャツくらいは変えないと風邪をひかれてしまうかと……! 決して、決してやましい気持ちは何も、これっぽっちも……!」


 嘘である。やましい気持ちは山ほどあった。

 たっぷりそのエッロい体を視姦させていただいていた。

 しかしここは建前を全力で述べる場面である。生死がかかっている。

 俺は普段とは違い真剣に土下座をした。


「えぇ? ……うわ、ほんと。何これ」


 かなり訝しげだったけれど、体を起こした椿原部長は自身の状態に気づいて呻き声をあげた。

 やっぱりあの辺りから全く記憶がないらしい。

 俺は頭を下げたままに、部長が自分でビールをこぼしたことを説明すると、その点には一応納得してくれた。


「でもっ、それにしたってここは、どこ……? ま、まさかあなた、酔っ払った私を、ホ、ホテルに────!?」

「ち、違います違います断じて! ここは俺の家です。部長をご自宅までお送りしたくとも、場所がわからなくて、仕方なく……!」


 かなり焦っているのか、いや状況的に仕方のない誤解をする椿原部長。

 俺は顔を上げて更に命がけで弁明を続ける。

 ホテルではなくとも連れ込んでいると言えばそうなのだが、これはもう許容してもらいしかない。


 俺が仕事中でも見せないような低姿勢で必死に弁明をするので、最初はかなり戸惑っていた椿原部長も、辺りを見回しながら徐々に落ち着きを取り戻してきた。

 少し時間はかかったが、最終的に部長は自分が酔い潰れて俺に迷惑をかけたことを理解してくれた。


「……そ、そう。それはその、迷惑をかけたわね……」


 椿原部長は自分のジャケットを手繰り寄せ胸元を隠しながら、珍しく素直にそう言った。

 普段なら自分の非なんて一切認めず、なんとか俺のせいにして責め立ててくるというのに。

 この状況ならどんなに俺が正当性を唱えようと百パーセントこちらを悪者にできるというのに。

 この機を逃すなんてどうしたんだ。見たこともないしおらしさが逆に怖い。

 徹底的に罵倒してくれた方がまだ気が楽だ。


 ただまぁ、ひとまずこの件で俺が責められることはないようだ。

 あっぶねぇ。本気で殺されるかと思った。

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