為信は額に浮き出た玉の汗を拭う。もうじき夏が終わるが、季節は巡り巡って夏が一年後にまたやってくる。そう思うと北国育ちの彼にとって憂鬱だった。

 かつての小田原攻めのようにどうして局面とは夏にやってくるのだろうか。しかも、故郷よりも段違いで暑い関東や京の地で。

 為信は聚楽第にて秀吉の下を尋ねた後、大坂の武家屋敷が並ぶ道を馬に乗っていた。

 福は相変わらず大坂で人質生活を送っているが、彼女のおかげで、秀吉の茶人である千利休切腹や甥の秀次一族の処刑など、諸大名の地位が揺らぐ中で津軽は東北の大名達よりもいち早く領内にいる反乱の火種を消すことで、秀吉へ忠義を誓うことが出来た。

 津軽というまだまだ小さい大名が生きていくためには畿内の大名に取り入らなければならない。福のおかげで為信は取り入る者を巧みに変え、領土を安堵されたまま生きてきた。

 朝鮮への出兵など財政を圧迫させる危機もあったが、家康などが工面をしてくれているという噂を聞きつけた福が為信に相談し、おかげでどうにか乗り越えた。

 そして、再び福を頼ることになる機会が訪れた。

「戻った」

「あら、随分と早いのね」

「見舞っただけだ」

「で。どうだった」

「もう一年は持つまい。噂では明日よりは関白の許可なくば直臣でなければ会うことも出来ぬらしい」

 為信は固まっていた肩を回しながら座る。

 秀吉は弟の秀長の死去の後、利休の切腹や甥の秀次の処刑など理解し難い決断を取るようになった。さらにさほど利益の無い朝鮮への出兵を強行して大名からも反感を買うようになっていて、反乱が起きなかったのが奇跡といえるほどであった。

 それだけ秀吉の求心力があったのだろう。しかし、齢も六十となり、寝込むことも多くなっている現状で再び生き残りと勢力拡大を図る時がきた。

「それで、死んだ後はどうするの」

「開口一番にそれか」

「ええ、だってもうそろそろいなくなるのは事実だし」

 もはや福の頭から秀吉への興味は失せたらしい。彼女らしいが、生きている間に何が起こるか分からないのだからそこまで急がなくても、と思ってしまう。口にすれば「何があってからだと遅いわ」と叱責と折檻が待っているため、言わない。

「太閤は側近や親族を遠ざけている。これではとても長くは続くまい」

 秀吉が今最も頼りとしているのは側室の茶々や息子の秀頼ぐらいだ。秀頼はまだ幼く、天下を治められる訳もない。茶々は福曰くただの世間知らずで、父母との別れを忘れたかのように豪勢な暮らしに酔っているらしい。

 そこで側近が必要になってくるが、大谷から聞く限りだと石田三成ら五奉行と加藤清正ら武闘派の対立は水面下で火種となっている。

 燃える頃合はおそらく秀吉の死んだ後になる。それがすぐか、何年も後になるか。

「これはよくよく見定めないとな。津軽の家名存続にも関わる」

「下手をすれば私達の野望どころじゃなくなる。慎重に動いて良いと思うわ。けど、何もしないわけじゃないわよね」

「無論だ」

 為信はいつも以上に時間をかけて思案を重ねる。豊臣の世の中が続くのか、はたまた誰かの手に落ちるのか。

「徳川殿が動いているそうよ」

「ほう……」

「徳川の側室の須和が色々な大名の奥方に声をかけていたからね。ま、その様子じゃ、私の方に関心は向いていないのでしょうけど」

 図星だが、ここは拳を握って耐える。家康が動いているのなら東国の大名である津軽にも声をかけるはず。

「誰に話しかけていた」

「伊達とか最上」

 為信は俯く。ここぞとばかりに東北の有力大名を上げるあたり、福もだいぶ津軽の小ささを嘆いているのだろう。もしかしたら為信への当て付けかもしれないが。

「それ以上は聞かないの」

「どのような話をしていたかは知らないだろうし。結論を出すのは最上と伊達だ」

「いつまで泰平の世が続くか……」

 盗み聞いた。

 まさかと思い、顔を上げる。だが、為信は福の顔を見た途端、問い詰めることが出来なくなった。福の表情は化け物でも憑いているのでは、と思ってしまうほどにあくどい笑みを浮かべている。その内、目の色まで赤くなるのではないか。怒りが恐怖へと塗り変わっていく劇的な感情の変化に付いていけずに為信の体は金縛りにあったように動かない。

「お察しの通り、聞いたわよ。あくまでもたまたま、偶然にね」

「……」

「聞こえちゃったのだから仕方ないわよね」

「……そうだな」

「内容、知りたいでしょ」

「……聞こう」

 為信は諦めたと溜め息を吐きたいのを耐えて福の話に耳を傾ける。

 人の知らないことを話す嬉しさは下手な蜜よりも甘く心に快感を与える。福の声は歌を詠んでいるかのように軽やかで耳に残したいと思える可憐なものだ。彼女の人となりを知らない男であれば、今にでも部屋に誘い込むだろう。

 彼女曰く、須和という女性はなかなかの切れ者で寵愛を受けている大名の奥方を茶や遊びに誘い、乱世の頃の恐怖を思い出させることで、心を掴み、巧みに徳川への関心を高めようとしているらしい。しかも、対象となる本人の趣味嗜好や性格を見て、話す内容を変えるなどかなり強かに動いている。

「お前に声が掛けられる気配は」

「全く。目すら合わせてくれない」

「やはり、徳川殿は大きな力を欲しているのか」

「だけど、良いかもしれないわね。無関心の方が好きに動けるし」

 福は笑みをますます深め、為信も合わせて唇を歪める。

 警戒されていない中で謀を巡らし、物を掠め取っていくのは甘美な味を頂ける福の言う通りかもしれない。しかし、男として武士として目を掛けてくれないことはかなり悔しいことである。

 その点は秀吉に劣るのかもしれない。彼はどのような小名にでも声をかけ、為信が近衛の猶子になったことで、実質の義兄弟になった時も嬉しそうにしてくれた。

 やはり、人は他人からの仮初めの喜びも嬉しく思えるものである。これまで東北の片田舎で、謀のみを駆使し、本当に嬉しい時のみ振る舞っていた笑みでは世の中で生きていけないと教えてもらえた。

 当分、日ノ本で戦が起きないと考えた為信は領国の振興に努めた。

 それまであまり家臣を見てこなかったが、一人一人の性格や嗜好を観察して話しかけるようにしたり、威厳のために厳しく接していた民には減税を行い、代わりに普請や新田の開発に努めさせた。どういう風の吹き回しかと多くの者が首を捻ったが、自分達に対しての損も無いためにすぐに疑問は消えていった。

 近世大名としての地位を認められ、国力を増幅させたが故に、生まれた為信の自信が誇りに加算され、関心を持たれないことへの不満に繋がった。

「私から須和に声をかけてみるから、徳川には貴方からよろしくね」

「興味を持たれないこと。お前はこれをどう思う」

 福は話が終わったと思ったのか目つきを鋭くして為信を睨んでくる。

「別に、今までだって油断をさせて人から掠め取ってきたんだから。今更、何を言うの」

 唇を噛む。確かにこれまでのやり方はそうだった。どんなに汚い手を使ってでも欲しいものを奪い、手に入れてきた。

 しかし、為信の勘が囁いている。戦はもう少しで終わると。

 ならば、一度くらいは華々しい戦に身を投じても良いのではないか。最終的に勝って、領地を安堵されるならそれで良い。

「確かに、そうだな……」

 為信は視線を落とす。口で言っても心はまるで違う。福に従うと決めていた心が本当にそれで良いのか、と問い掛けてくる。森岡を殺さずにきたこととは違う。

 おそらく為信にとって三成は長年の付き合いがあった森岡よりも大切な存在なのだ。

 改めて気付かさせると自然と首を左右に振ってしまう。

 三成への拒絶ではなく自分への自嘲を込めて。

「機は逃さないことね。以前のように」

 横目で睨み付ける福に為信は項垂れるしかない。九戸の乱の際、為信があくまでも制圧を優先して南部を攻めなかったことを根に持っている。趨勢が決まっている戦で南部家の統率力の無さを責めるのは理解できるが、力で奪い取れと福は言ってきていた。

 それは無理だと為信は福に珍しく従わずに秀吉に従い、乱を制圧しつつ南部信直の失態を追及した。しかし、秀吉は九戸の乱をただの下剋上の名残として南部を不問にし、天下の完全なる統一を宣言した。

 結果として南部は大名としての地位を確立し、御家の統率に力を注ぐ環境が出来てしまった。

 今思えば、九戸の籠城戦の際、討伐軍はあっさりと城を落とすと思っていた。しかし、九戸の粘りは凄まじく、数万という敵に対して奇襲を幾度も使い、善戦をしていた。

 業を煮やした豊臣軍が策略にて主だった者を暗殺したが、いくらでもその間に付け入る隙はあった。

 夜襲に乗じての同士討ちなど南部の力を削いでおけば、領地や軍事力共々、上回ることが出来たかもしれない。さらに津軽は第一線で活躍したにもかかわらず、東北の総検地にて元々あった四万五千石の領地の内、一万五千石を秀吉の蔵入地にさせられた。これが福の逆鱗に触れて為信はこれまで味わったことの無い折檻を受けた。

 鉄扇で何度も顔を叩かれ、男の象徴たる髭も小刀で一部を切り取られた。

「次にしくじったら顔が腫れるだけと思わないことね」

 そう吐き捨てて出て行った福の目は獲物を狩る虎のようだった。

「分かっている」

「あと、森岡のことはそろそろいい加減にして。乱世もきっと徳川が終わらせるし。用済みでしょ」

 為信は目を吊り上げる。

 確かに乱世が終われば森岡は為信と福が行う政に邪魔となる。もし、福が言うように徳川が天下を取るなら二人の仲を暴く者として滅するべきだろう。だが、やすやすと天下の手中が家康の手に入るのだろうか。そもそも、近年はますます用心深くなった森岡を殺す機会が訪れるのだろうか。

「支度は整える」

 為信はそう言って話を締めくくると屋敷を出て、伏見城へと向かった。

 福の言う通り、徳川が動いているのであれば諸将も何か知っていることがあるかもしれない。屋敷の中は天下人の終焉を悟ってか、にわかに慌ただしくもあり、不気味なほどに沈黙を保っている所もあった。

 明確に二分されていた動きを推測で回るのは良くない。為信はひとまず、上洛している諸大名から探ることにした。

 数多の武家屋敷が並ぶ伏見城下はいつもと変わらず、商人や武士達が往来している。しかし、表情からは今後について考えをまとめているのだろうと伺えた。

 ひとまずは伊達や最上などから当たろうと為信は屋敷を訪ねたが、今は主が不在と追い返された。真か嘘かは分からないが、どちらにせよ今の状況で他家の者と関わっている暇など無いのであろう。国に戻っているのであれば戦の支度を、止まっているのであれば諸大名の動向を見定めている。もし、津軽が伊達や最上と並び立つような大国であれば会ってくれたかもしれないが、所詮、最北端の田舎大名。会う価値が無いと思われているのだ。

 だが、それでこそ為信の反骨心に火がつく。油断しているところを見返してやることで勝利を掠め取ってきた時にように。ほくそ笑みながら為信は伏見城の方へと向かう。太閤には会えないだろうが、三成達奉行には会えるだろう。

 まず大谷の屋敷を見舞いと称して訪ねると簡単に門番は通してくれた。彼も五奉行には入っていないが、彼らを支える者として今は大変な時期なはず。通してくれただけでも有り難いが、まさか確認もせずに入れてくれるとは思わなかった。

「お待ちしておりました。津軽殿」

 客間に通され、待っているとすぐに大谷が入ってきた。待たされることを覚悟していたが「今は務めが捗っていてな」と自虐気味に笑う彼を見て、笑顔が引っ込んでしまった。

 目だけを露わにして、他の顔の部分は隠れる頭巾をまとっている。大谷の体に異変が起き、人とあまり関わらなくなったのはもう数年前からのこと。来客が少なければ役目を迅速に進められるが、物事は体裁で動くのが人の世の常。人と会わなければそれだけ憶測で物事が進み、人の噂も大抵は悪い方へと向かう。

「突然のご無礼を」

「良い。この状況下ではいたしかたなさそうなかろう。殿下のことがなればなおのこと」

 既に他の大名が豊臣恩顧の将に様子を伺っていることは大谷の耳にも入っている。用件を伝えなくても伝わりそうだと彼が口を開くのを待つ。その思いが伝わったのか、大谷は一つ息を小さく吐くと口を開いた。

「はっきり申さば。太閤殿下は今しがた、辞世の句を詠まれた」

「なんと」

「これよりは、太閤殿下亡き後の世を如何にすべきか、見極めねばなるまい」

「刑部殿、貴殿は如何に思われる。殿下亡き後も戦無き世が続くとお考えか」

「言いにくいことを聞かれるな……」

 性分であると詫びつつ、為信の目は大谷の目を真っ直ぐ捉える。津軽だけでなく、大名にとっても今後の御家の行く末を左右することになる。豊臣の直臣である大谷の忌憚ない発言は為信にとって万金の価値がある。

 大谷は腕を組み、しばらく考えると眉間にしわを寄せながら口を開いた。

「……秀頼様はこれより天下を導けるようにお支えできれば必ずや天下を安寧に導くであろう」

「では、このまま刑部殿は戦無き世の為に……」

「されど、如何に動こうとも私が一人動いたところで変わるようなこともない」

 沈黙が落ちる。そして、為信の中で大谷の評価が大きく変わった。これまでは人の中心に入り、病を得ても心折れずに表裏無く政を行う珍しい御仁と思っていた。しかし、今の大谷はどちらでもないと答え、決して簡単に天下に口出しすべきでないと釘を打った。

 おそらく、大谷も腹の内では一波乱あると思っているのだろう。しかし、為信の腹を読み、明言を避けて秀吉生きている間は動かないと明言した。それによって中立を保ち、より多くの情報を集めて手土産を作ろうとしている。

 為信は大谷もやはり生粋の策士なのだと認識を改めた。以前、関白が彼に大軍を預けてみたいと言っていたことも頷ける。強かであり、周囲を見事に統べることが出来る能力は秀吉以上のものがあるかもしれない。その才能を示す時が近くなっている。

 関白への恩義を思い、豊臣の天下を守るのか、義に背いて徳川に天下を売るのか。

「刑部殿は如何されるおつもりで」

「秀頼様はまだ幼く、徳川殿が天下の実権を握ることになりましょう。されど、それを面白くないと思う者がいるのも事実。戦はまだまだ続きましょう」

 誰とは明言を避けたが、大谷はおそらく特定している。あえて深くは聞かずに為信は大谷に話を合わせる。

「されど、早う戦無き世を築き、民が安心して暮らせる世を作らねばなりませぬ」

「誠に津軽殿の仰る通り。故に、某も戦を避けんと動いておりまする」

「いかにして」

「まだこれからのこと。津軽殿も気を付けられた方がよろしいかと」

「ご忠言、有り難く頂いておき申す。では、某はこれにて」

「津軽殿、定めた相手を見間違うことがないよう」

 互いに頭を下げ、短い面会は終了した。

 屋敷を出ると為信はもう少し踏み込んだ情報が欲しいと馬首を伏見城の方へ向けた。城内に入ることは出来ないが、噂話も情報のうちである。しかし、背後からかけられた声に為信は一気に不機嫌になった。

「津軽殿、よろしいか」

「これは治部殿、いかが致した」

「お話したきことがある故、よろしいか?」

 断る理由が無いため、津軽は不承不承付いていく。道中、為信の頭は目の前の三成ではなく、家康にどうやって取り入ろうかという思いで一杯だった。

 彼の屋敷は諸大名もなかなか入ることがなく、外見の質素な造りとは裏腹に中には財宝が眠っているという噂もある。しかし、実際に確かめてみるとそのような物は置かれてもいなければどこかに隠している気配も無い。

「こちらへ」

 通された茶室を見渡すとかつての千利休のような威厳や今の古田織部のような面白さも無い、理に沿った普通の造りで、彼の真面目さと理に沿わなければ駄目だという考えが素人でも分かる。

 茶はただ客をもてなすだけのものと捉えているから利休と関わっていた大名達に嫌われているのだとも気付いていない。その上で、文で大名達の利益を考えずに正義を問うのだからますます家康に付く者が増える。

(おそらく死ぬまで気付かぬ欠陥だな)

 悪いことを考えている間に差し出された茶を飲み干し、碗を返す。受け取ると同時に三成の口が開いた。

「私は豊臣が天下のため、これまで忠誠を尽くしてきた。されど、それを邪魔する者がおり申す」

 おそらく徳川や伊達のような東国の有力大名だろう。しかし、それは彼らを御しきれなかった豊臣の責任でもある。対処がしっかりしていた上で話をするのであれば、心に響くが、今の三成の言葉は為信にはただの責任逃れにしか聞こえない。力を貸してほしいと思っているのは良いが、成すべきことも成していないのに、どうして助力出来るのか。しかも、これまで三成は東国の大名に睨みを利かせてきた張本人。為信も例外ではなく、彼から見下されていると思える指示を受けたのは何度もある。それが今になって過去を払拭出来るような手土産もないのに味方になれなど、虫が良すぎる。

「それ故に、某に力を貸してほしいと」

「貴殿の智謀は東北の最北地にて収まる器ではござらぬ」

 胡散臭さが滲み出ている。当人にそのつもりがなくても状況下を考えるとなおさらだ。しかし、はっきりと断るにもまだ早い。

「ふむ……」

「貴殿の南部との戦で行ってきた所業。某も聞いておる。某が同じ目にあえば到底許し難いことであろう。されど、味方に対する慈悲深さを持っているが故、貴殿はこうして主として振る舞える。それは某には無い」

 無言のまま為信は目を見開く。豊臣にしか目が無いようなあの三成に外様の自分に期待を込められた純粋無垢な真っ直ぐな目を向けられている。だが、為信もここで簡単に流されるような柔な男ではない。

「これまで、貴殿が我らのみならず、東国の大名にしてきたことをお忘れではなかろう」

「それについては誠に弁明の余地もござらぬ。ただ、殿下のために生きてきたが故に……」

「言い訳は無用」

「津軽殿がお味方下さるならば、南部を含めた陸奥の所領を認めましょうぞ」

 適当に流して帰ろうかと思っていたが、浮きかけた足が止まった。それを見た三成がさらに畳み掛ける。

「貴殿の願いは陸奧の統一と盤石。そうであろう」

「何故にそのことを」

「南部殿より、津軽殿が相応しいと思ったまで。さらにその飢えた狼の如き目、隠していても某には見える」

 三成の目は真っ直ぐではったりをかましているようには見えない。

 少し揺らいできた為信の心をこじ開けるように三成は

「津軽殿、貴殿もまた太閤殿下に大恩を受け、本領を安堵された方であろう。今こそ、それに報い、さらに私と共に野望を実現せぬか」

「まったく、石田殿の言う通りにござる」

「では……」

「時を見て知らせを致そう。その時は同じ陣営にて会おうぞ」

「真、感謝致す」

 三成はその後も幾度も礼を述べると上機嫌で次の席の支度をするために出て行った。


「……かようなことがあった」

「随分と焦っているのね」

 笑い話にと持って帰ると福も肩を震わせた。

 夜もふけ、為信が三成の下で起きたことを話していると福は最初は驚き、聞き終えた時には笑っていた。

 かつて、関東で為信に対する辛辣な言葉を忘れたかのようだ。否、おそらく忘れているのだろう。

 彼にとって秀吉は神仏のような存在であり、秀吉によって統一された日ノ本こそが至高であると信じている。それを守るために見境無く必死になっているようだ。だが、相手を見誤るほどになっていると考えれば三成はやはり戦には疎い。

 秀吉が死んで家康が徐々に態度を表面化していくのであれば分かるが、まだ彼の動きにそのような兆しは見られない。

「早とちりも良いところだ」

「そうね」

「……どうした」

「何が」

「嘲るのではと思うていたが、違うのか」

 人の笑いには至福や蔑みなど種類がある。今、福が浮かべている笑みには為信が想像していた蔑みではなく、親が子を見るような穏やかさがある。

「まるで、貴方の若い頃のようね」

「石田がか」

 福は扇子を広げ、口元を隠して笑う。

「忘れても無理は無いわ。まだ互いに元服も髪結いもしていなかったもの」

「お前が昔を懐かしむとはな」

「何がいけない」

「珍しいこともあるものだ」

「石田は周りから茶坊主からの成り上がりと妬まれているけど、自らの思いのためには手段を選ばず、ひたすらに進む。貴方も昔はそんな目をしていたわ」

「今はどうなのだ」

 静かに為信に近付き、爪を立てた人差し指で顎を上げる。

「見事に汚れきったわね。でも、まだ清さがある」

 福は溜め息を吐きながら手を離す。

「もう少しで完全になるのに。何か邪魔をする存在がいる……森岡とも違う。何か増えた……それを排しなさい」

 殺気のこもった目を向けられては、上辺だけでも為信は頷くしかなかった。

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