キスとドーナツ

[遡ること数時間前]


(……ッロ!…マシ…ロッ!……)


「真珠!」


 真珠が目を覚ます。体中あちこち痛みが走る。自分を覗き込む二人の影が映る。ぼんやりと見慣れた病室の天井が見えてきた。


「真珠! ああ! よかった!」


 泣き声がする。誰かがきつく自分を抱きしめる。慌ただしい音がする。ガシャガシャとキャスターの走るような音。ピッピッという電子音。


 いったい自分の身に何が起こったのか?


 わたしは……確か……マッシュと……女王の森に入って……。霧が濃くなって来て……足を……踏み外して……。


 はっきりと真珠の記憶が蘇った。瞬きを繰り返し、瞳孔の揺らぎが収まる。


 母親が自分を泣きながら抱きしめている。その後ろでは見慣れた担当医が看護士に指示を出している。


「真珠! ああ、私の真珠! 気がついたのね! 本当によかった!」

「お母さん!?」真珠は半身を起こした。

「ここは? マッシュは?」


 真珠が何を言ってるのかわからず、不安になった母親は担当医の顔を見る。


「おそらく長時間の意識混濁が続いたことによる軽いショック状態でしょう」


 母親は不安げに肯いて、担当医を頼るように場所を譲った。真珠はまるで納得がいかない。


「どういうこと!? マッシュは? フランクは!?」


 担当医が真珠の腕を取り、ガウンをまくりあげてチューブを巻きつける。


「なに? やめて! どうしてわたしは病院にいるの? みんなはどうなったの!?」


 真珠は暴れたが、上半身は抑えられるままに身動きが取れない。ベッドの掛け布団が乱れて床に落ちた。医師が注射器を取り出して、真珠の腕に突き刺す。


 母親はうろたえて、真珠のあまりの錯乱ぶりに再び涙を滲ます。


 だんだんと薬が効いてくる。


 だんだんと意識が朦朧としてくる。


 真珠は再び眠りに落ちていった。


 しばらくして真珠は目を覚ました。


 頭の中に濃い霧が掛かっている。静まりかえった病室。消灯時間は過ぎているんだろうか?時計に目をやると午後十時を差している。


 ――十時……。


 ベッドから起き上がり周囲を見回した。何かが、あまり綺麗ではない。病室の壁は、素人が白いペンキをただべったりと塗り潰したかのように粗い。天井に蛍光灯が四本。その中の一本だけが白昼灯を使ったかのように黄色く点滅している。


 部屋に設置された窓はひとつ。カーテンは落ち着いた深緑。


 ――誰の趣味だろう?


 カーテンをあけて窓から外を見た。部屋の光が窓ガラスに反射してよく見えないが、外が真っ暗なことはわかった。何かしなくてはならない気がするのに、病室を見回す限り、自分には眠ることくらいしかなさそうで、なんだか変な気分だ。


 気分転換のために外の空気を入れようと窓に手をかけた時、母親が病室に入ってきた。


「お母さん? どうしたの? こんな時間に」


 面会時間は過ぎている。あなたが心配で堪らなかったのよ 母親はそう言って背中の後ろからドーナツの紙袋を差し出した。


「あなたの好きなドーナツを買ってきたわ。一緒に食べましょう」

「こんな時間に? 先生に知られたら大目玉よ?」


 母親は笑いながら真珠にウインクし、口に人差し指を当て「バレなきゃ大丈夫よ!」と言って、真珠の横に腰掛けた。


 狭いベッドに寄り添うように二人は一緒にドーナツを食べた。


 真珠は母親が大好きだった。真珠にとって母は――真珠の調子の悪い時を除けは――双子の姉のようでもあり、親友のようでもあった。


 ドーナツをかじりながら他愛もない話をする。母親はただ微笑んで真珠の話に耳を傾けていた。それは真珠にとって本当に幸せな時間だった。


「そろそろ寝なさい。こんなに遅くまで起きてたら体に毒よ」

「よく言うわ、こんな時間にドーナツ持ってきといて!」


 まるで親友同士のように笑いあった。


 優しく促され真珠はベッドに横になった。母親は真珠の髪をそっと撫ぜ、優しく触れるようにおでこにキスをした。


「おやすみ、私の真珠」

「明日も来てくれる?」

「もちろんよ」


 母親は愛しい真珠の頬にキスをもうひとつ繰り返し、わざとついばむように軽い音を立てた。真珠は幸せに包まれる。本当に心地好い。


「おやすみなさい。お母さん」


 母親が頬を緩め、目を細めて無言で肯いた。


 そっと病室から出ていく。足音が静かに響き離れていくのを子守歌のように感じながら真珠は瞼を閉じた。眠りに落ちていく。


 誰かが自分を呼ぶ声が聞こえたような気がした。だが真珠はそれを風の音だと思い、そのまま眠りに落ちた。


 翌日、母親の声で真珠は目覚めた。


「真珠。着替えを持ってきたわ」


「おはよう、お母さん」


 母親は笑いながら、もうお昼過ぎよと教えてくれた。


「そうなの?」


 いつの間にそんなに眠ってしまったのか? 昨日は何をしてたんだっけ? 頭の中にモヤが掛かって思い出せない。


 担当医が病室にやって来て調子を訊ねる。


「すごく良いわ、今日にでも退院じゃないかしら?」


 担当医と母親は笑っていた。母親が今日の分の薬をぐずる真珠に飲ませる。


 買い物に行ってくるわねと言い残して、担当医とともに病室を離れた。


 真珠は病室に一人になる。ぼんやりするだけで調子は悪くないのだから、自分もたまには外に出たいわ――そう心の中でつぶやいた。

 誰もいない病室でベッドに横たわり、外で自由に遊ぶ空想にふけった。体いっぱいに陽の光を浴びながら、風を感じて青空に浮かぶ白い雲を眺めていたいな。


 ――青空?


 真珠はなにかを思い出して、窓に目をやった。


 閉ざされた窓に深緑のカーテンが掛かっている。真珠は初めてこの病室に入った時のことを思い出した。


 カーテンは白だった。ずっとずっと白だった。部屋はうっすら灰色で、長い入院生活の中、気が狂いそうになったんだ。


 色のない殺風景だったこの部屋に、いつでも青空が見えるようにって、お願いして目の覚めるような青いカーテンに変えてもらったんだ。


 ――どうして緑色のカーテンが?


 真珠は立ち上がり、窓までいって深緑のカーテンをめくる。

 窓の外は暗闇に包まれている。夜になるにはまだ早い。

 時計を見ると時刻はまたもや午後十時を指している。


 ――どういうこと!?


 真珠は急に一人で病室にいるのが怖くなり、慌てて病室から逃げ出すように廊下へ出た。廊下は驚くほど静まりかえっている。ひとつも灯りが点いていない。異常だ。怯えながら小走りに駆けると何かに躓き勢いよく転んだ。


 自分の足元を見る。


 ――根っこ!?


 太い訝しい木の根が、病院の真っ暗な廊下から突き出している。


 力の入らない足で何とか立ち上がろうとして手をついた壁が指を刺す。バリバリと剥がれた大木の幹の鱗のように、荒々しい隆起がゴツゴツと触れる。


 真珠を呼ぶ声がする。ぞくっとして慌てて振り返ると母親が立っていた。


「真珠! そっちへ行ってはダメ! ドーナツを買って来たわ! 一緒に食べましょう」


 その異様な光景から真珠の恐怖心が加速する。


「真珠! こっちへ戻ってきて! お願いよ!」


 真珠は本能で戻ってはいけないと感じる。真っ暗な中で母親の姿だけが見える。どちらへ走っていいのかわからない。真珠は壁から手を離して、震える二本の足で立った。両手を強く握り絞める。


「戻らないわ!」


 そう叫んだ途端に天井が勢いよく崩れ始めた。


 天井、壁、床、すべてがミシミシと割れるように剥がれて崩れ去っていく。


 足元の感覚さえ失いそうだ。崩れ去った後には暗闇が渦巻いている。いくつもの小さな渦が重なり、その大きさを増していく。闇の渦はどんどん大きくなり、廊下の向こう側から空間そのものを飲み込み始める。


 母親だけがまだ立っている。


 こんな状況の中、慌てる様子もなくなおも真珠を呼んでいた。


 ――いや!


 真珠は耳をふさいだ。闇が迫ってくる。母親の姿が闇の渦に塗りつぶされるように消える。真珠の足の震えが激しくなり、そのまま動けない。


 ポッポー♪ ポッポー♪


 どこからか聞き覚えのある声がする。


 ポッポー♪ ポッポー♪


 ずっと頭にかかっていたモヤが晴れ始める。廊下が崩れ、上に向かって激しく落下するように拡散する。闇の渦が高い波のように真珠に押し寄せる。


 ポッポー♪ ポッポー♪


 ――クルックス! そうだクルックスの声だ!


 真珠は走りだした。


 崩落はすぐそこだ。ただ懐かしい声のする方へ真珠は走る。振り返っては駄目だ! 本能がそう告げる。間に合わない。


 ――みんなが待ってる!


 その瞬間、空間がガラスを叩き割ったように激しい音を立て、粉々に砕け散った。

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