伯爵からの求婚
カティアスは、アデルバード伯爵の執務室の片隅で書き物をする私を、動揺したような顔で見つめた後、伯爵に目を向けた。でもすぐに冷静な顔を取り戻して姿勢を正す。
「失礼致しました。彼女は⋯⋯ジェルマナ・ボルシェスは私の婚約者です。思いも寄らない所で目にして少々驚きました」
「知らなかったのか。それは驚いただろう。悪かったな」
伯爵は経緯をカティアスに説明してくれた。カティアスも神妙に頷いている。どうやら伯爵はカティアスの仕事での上役に当たるらしく、彼らは近く接する機会が多いようだ。思い返してみれば、父がそんな事を言っていたような気がする。
「姉の為とはいえ、婚約者を長く借りて申し訳ないね」
「いえ、問題ありません」
事情を知ったカティアスはそれ以上は私に興味を示さず、私もすぐに本の書き写しに戻った。一言の会話も交わさないその態度には、伯爵も違和感を覚えたのだろう。カティアスが去った後に、珍しく踏み込んだ話題を持ち出された。
「婚約者なのに、私が彼の上役だと知らなかったんだね。君の方も、普段とは違う仕事をしている事を彼に報告していないようだけど、それは守秘の為なのかな。それとも、ただ話す機会が無いからなのかな」
少し考えて私とカティアスの関係を伝えることは、妃殿下の不利益にならないだろうと判断する。
「両方です。皇太子妃殿下にまつわる仕事については誰にも話しませんが、その心掛け以前に、婚約者とは滅多に会いませんし、会っても私的な会話はほとんどしません」
「交流をただの義務だと思っているみたいだね」
「⋯⋯家が決めた縁ですから、そんなものじゃないでしょうか」
「そうだな。私も似たようなものだ、人のことを言えない」
伯爵はカタンと音を鳴らして椅子から立ち上がった。そのまま私の所に歩み寄って来て、近くの壁に寄りかかった。いつもの完璧な微笑みではなく、少し寂しそうに見える。
「私の家は特に権力に対する執着が強い。だから家の都合に振り回されて、私の婚約は3回破棄されて、今は結婚の予定が無い」
「⋯⋯気持ちが通じたお相手だったのですか?」
「いや、誰とも私的な会話はしないまま終わったよ。もう顔すら覚えていない」
「悲しいですね」
「そうでもない。誰かに特別な気持ちを持った経験が無かったから、そんなものかと思っただけだ。今までは異論も唱えなかったけど、最近は少し考えが変わった。出来れば気持ちの通じた相手と時間を過ごしたい」
「閣下ほどのお立場なら、可能ではないのですか?」
伯爵は私がひどく面白い事でも言ったように笑った。
「私の兄弟姉妹が何人いるか知っているか? 25人だよ」
「⋯⋯」
「もちろん王族じゃ無いんだ。父の立場で公妾は認められない。数多くの恋人に産ませた子供を、全て妻の子供として法的に手続きをしている」
よくある事だ。私の兄弟は全て母が産んだ子供だ。でも、本当に他に兄弟がいないのか、父に恋人がいないのか知らない。私の耳に入っていないだけかもしれない。父の事ですら、そう思うくらいありふれた話だ。
「私は父の手駒の一つに過ぎない。爵位だって、兄弟間の熾烈な争いを勝ち抜いた上でやっと手に入れたものの、父の期待に応えられなければ、いつ剥奪されるか分からない。与えられた領地にすら行った事がない、形ばかりのものだ。婚約も結婚も、暮らしの保証と引き換えに果たす義務でしかない。⋯⋯ね? 君と同じだろう?」
「閣下と私なんかでは、立場がずいぶん違いますから比べられません」
「同じだよ。⋯⋯君が大切にしているその人形、彼にそっくりだ。深く愛しているのだと、ピレスを羨ましく思っていた」
私は膝の上のカティを抱き上げた。
「いいえ。この人形は確かに両親が私に婚約者への親しみを持たせるために作ったものです。でも、私にとって人形と婚約者は完全に別の存在です。見た目が似ていても全く違います」
伯爵は壁から離れて私の机の前に立った。机は伯爵と私の間を隔てる壁としてはあまりに小さく頼りない。カティアスが帰った後から、伯爵の雰囲気がいつもとは違う。私は少し緊張する。
「薄々気がついていただろうけど、君が本を書き写している間に情報を引き出せと父から命じられていた。君は皇太子妃殿下の私的な通信に触れる機会が多いだろう」
「えっと」
鼓動が早くなる。話題をどうにかして変えられないだろうか。ヴィオラだったらどうするだろうか。
「安心して。君と数日過ごして、そのつもりは無くなった」
「どうしてですか?」
「君は自分の利益の為に、皇太子妃殿下を売るような真似はしなそうだ。手を尽くして君を取り込んだとしても諜報には向かなそうだし、君に利用価値は無いと判断した」
「⋯⋯」
使えない人間という事だ。伯爵の見立ては正しく、私はそれに言い返すことは出来ない。
「でもね、女性としては惹かれた。頭は悪くなさそうなのに、打算が苦手で間が抜けている。上位貴族の令嬢なんて利に聡くて小賢しいか、真の馬鹿のどちらかしか見たことが無い。君のように素直で暖かで、嫌悪感を感じさせない相手には、なかなか出会えない。醜い世界に傷つき疲れて帰ってきた時、君が迎えてくれたらと考えると、それだけで幸せな気持ちになれる」
褒められているのか、ひどくけなされているのか分からなくて混乱する。失礼だと怒るべき所だろうか。ありがとうございますとお礼を述べるべきだろうか。
「君がカティアス・ピレスを愛していると思って躊躇していた。でもその遠慮はいらないようだ」
「え?」
伯爵が机に手をつき、私との距離が近づく。視線に熱を感じるのは気のせいだろうか。伯爵の頬が少し上気して見えるのは気のせいだろうか。取り返しのつかない場所に迷い込んでしまったようで怖い。鼓動がますます早くなる。
「もし、少しでも私の方が好ましいと思えるなら、私と結婚しないか?」
「え?」
思わず立ち上がり数歩後ずさる。カティが床に落ち、慌てて拾って抱き上げた。
「でも、先ほど、ご自身の意思では決められないと⋯⋯」
「大丈夫。今の私には、父を納得させられるだけの力がある。必ず説得してみせる」
「あの、私はアニス公爵に連なる家の出ですから」
伯爵は何かに取り付かれたかのように暗く笑った。今までの優しい雰囲気とは違う、少し禍々しい空気を醸し出す。
「それも大丈夫だ。近いうちに君の父の方から、こちらに与したいと言い出す状況にしてやる。ピレスとの婚約破棄だって、あいつに何も言わせない状況を作ってやる。だから、私を信じて待っていて欲しい。いいね?」
断ったら王子に叱られる気がする。それに、伯爵から発せられる空気は私に絡みつくようで、逃がさないと言われているようで、拒むとますます強く迫られるような恐さを感じる。
「ありがとうございます、考えておきます」
精一杯、曖昧に濁した。でも、伯爵は嬉しそうに笑い、恐怖で固まる私の頭を優しい手つきでなでると、すぐにいつもの様子を取り戻して自分の机に戻り、仕事を再開した。私も何事も無かったように仕事に取りかかった。でも乱れた鼓動は、なかなか元には戻らなかった。
その日の仕事を終え、頭の中で王子とヴィオラへの報告をまとめながら部屋を出ると廊下にカティアスの姿があった。後ろ暗い事がありすぎる私は、辛くも悲鳴を飲み込み、私はカティを後ろに隠すと足早に通り過ぎようとした。でも、カティアスは行く手を遮るように私の前に立った。
「部屋まで送る」
「え? どうして?」
「どうしてって。ここから君の部屋までは距離があるだろう。途中には人気が無く警備が手薄な廊下もある。もう暗いんだ。王宮の中とはいえ心配だ」
「慣れています。一人で大丈夫ですから」
でも、カティアスは冷たく感情が読み取れない顔をして部屋の前まで付いてきた。私が淑女らしく礼をしてから扉の中に入るまで、無言のまま立っていた。何かに感づいたのだろうか。怖くて仕方が無い。
伯爵は本の書き写しが終わる日までずっと、あの話題には触れず、でも前よりはずっと親密な空気を出すようになった。たまに仕事の用で訪れるカティアスは私の方をちらりとも見ない。そのくせ毎日、伯爵の執務室の前で待っていた。
最後の日に伯爵に言われる。
「私は本気だよ。君が首を縦に振りやすい状況になったら正式に申し出をする。それまで、婚約者とは今の距離を保っていてくれ、いいね?」
もちろん本気になどしていない。王子とヴィオラも、伯爵が口にした父の方からミントン侯爵派に与したくなる状況、私が首を縦に振りやすい状況、という言葉を警戒した。
「君が彼の執務室で耳にした情報自体が罠かもしれない。求婚も僕に話が筒抜けになると分かった上での工作かもしれない。いや、違うな。間抜けな君を僕が諜報に使うとは、さすがに考えないだろう」
(間抜け!)
そういえば伯爵も私を間抜けだと言っていた。みんなひどい。
「⋯⋯カティアスと君の仲を裂こうとした。妃殿下に縁が深い君から、カティアスが何かしらの情報を得ることで、自分たちの思惑に気付くと警戒したのか?」
王子は真面目な顔で考え込んでいた。ヴィオラも何かを考え込んでいた。王子の推測を理解出来ないけれど、質問出来る雰囲気ではない。
複雑な思惑が絡み合っているのだろう。何だか吐きそうだ。エゼキアス様の顔を思い浮かべても、ちっとも気分が晴れなかった。
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