37 母乳

 その一瞬。タキジはもう、ブラキオサウルスの身体を捉えていた。月光を反射する蟹の爪が、ずぶって鈍い音を立てて、胴体に風穴をあける。

「いつになったら、おなかいっぱい食べられるかなあ。いやだな、貧乏だから。なーんにもないなあ。それに比べて恐竜は、いいよなあ。大きい身体でたくさん食べるんだろう?」

 空腹に捕らわれた餓鬼は、四季蟹がすべて亡くなることで発動した、わたし——麗花の制限だった。夜空に地獄が香る。熱く。

 鬼は蟹鋏で首を斬って、お腹を鳴らす。よだれが垂らしながら、なんども肉を蝕む。怒り、憎しみ。傷を負った巨大な首長竜も、芝生に倒れ込み、やがて動かなくなった。

「メロディア なんだ カニの娘 ルミノーソ 他に男が いたのか セナレータ……」

 どんなに強い怪異も人間も、死ぬのは呆気ない。鬼の持つ蟹爪が、大きく振りかぶって、大きな命に影を落とす。粉々になった思い出や言葉をかき集めて、わたしはまた、ひとりになった。


 ❖


 温泉施設の向こう側で、芸術的な爆発が起こってから、またどこかで巨大な命が潰れる音がした。どうやらみんなも敵を倒したようだ。

「にょにょ……許して、ひとづま」

 金の仏像チンナラートの手に、握り潰されたアンモナイトの意識が戻るから、包丁を投げて追い討ちをかける。ぶしゅって血が吹き出して、温泉が紅く溶ける。汚れが滲む。

「だから、貴腐人と呼びなさいって。なんど言ったらわかるのかしら」

 八ツ喰最強の私からしたら、大した敵ではなかったけれど、ひとつだけ。すこし引っかかるところがあった。このタベモノには、どれだけ肉を裂いても芽が見当たらないのだ。

「あんた、芽はどこにあんのよ」

「にょ……おしえるか、にょ……」

 拘束したり、再起不能まで追い込むことはできても、芽がないようでは殺せない。芽がないタベモノは不死と変わらない。夜の底から嫌な香りがする。この戦闘はどこか異質だって、暗闇のなかを鴉が飛んでいくのが見えた。


 ❖


「お菓子でございます。どうぞお召し上がりください」

 目の前に出された仲間の生首に、ラプトルは混乱し、大きく暴れる。茶室の一角で喉を鳴らす肉食恐竜を、じっと正座で見据える亜仙。その視線は、まるで湯呑みに一滴、水滴を落とすような、凪いだ侘び寂びを孕んでいた。

「ヴォロ……ヴォロロ!」

 吠える敵に、彼は臆することもなく、まあまあ落ち着きなさいって諭す。そしてゆっくりと、もうとっくに昔のことだがって、語り始めるのだった。


 もうとっくに昔のことだが、ワシにはたったひとりの妻がおった。妻は病弱であったが、いつも笑顔で、無垢な心を持った清き人間じゃった。

 当時のワシは、まだ喰い人になったばかりで、給料も少なかったが、家に帰れば妻がいて、それだけで夜を生きてゆけた。質素な夕飯も、ふたりで囲めば温かかった。

「あなた、お肉少ないじゃない。わたしのあげる」

「いや、いいんだ」

「ううん、たくさん食べて。明日も駆除でしょ」

「……そっか、ありがとう」

 妻の箸が伸びてきて、自分のお茶碗にお肉が置かれる。舌に広がるのは、しあわせ味。どうしようもなくやさしい気持ちになって、ふたりでいれば無敵だと心の底から思った。


 喰い人というのは、出来高払制だ。倒したら倒しただけ、自分の給料が増える。逆に弱いと弱いだけ、お金がもらえない。当時の自分は、臆病であったため、貧困だったのを覚えている。

 そんな中、妻が子どもを授かった。休日は子ども服やベビーカーを買いに行き、出費が嵩んだが、これ以上のしあわせはなかった。大型商業施設を歩きながら、自分はもっと強くなって稼ごうと、心に決めた。


 ある日、八ツ橋の駆除依頼が宇治市全体に出回った。八ツ橋とは、京都が長年恐れていたタベモノのひとつで、皆が駆除を避けたがっていた。並の喰い人では勝てるはずがないからだ。

 それでもワシは逃げなかった。闘志を燃やし、心を叩き上げた。才能もなく、ちっぽけな自分でも、立ち向かえたのは、闘志に妻子が寄り添ってくれたから。茶器を鳴らして、手足が何本も生えた八ツ橋に、殺意を向けた。


 結果としてその日は、八ツ橋の駆除に成功した。こんなに強いタベモノを駆除できたのは、はじめてのことだった。これで子どもを育てられると、久々に夜空を見上げて、帰路に着いた。

 しかし悲劇は急に起こる。玄関を開けると、牛乳のような匂いが鼻を纏う。耳を澄ますと微かに部屋の奥で、妻の泣く声がする。

「詩織、なにがあったんだ!」

「ごめんなさい……あなた、ごめんなさい」

 そこには、血の飛び散る壁。落ちた絵画。ちぎられたカーテン。そして愛する妻のお腹は、真っ赤に切り裂かれて、小さくなっている。

 状況が汲み取れずにいると、部屋の隅で白い怪異が、肉を喰らっているのが見えた。妙に嗤いながら食べるその姿は、夢を啜る悪魔のようだった。

 よく見ると、手の内にある肉は丸まった人間で、お腹の中にいた胎児のようだ。肩の力が抜けて、鞄を落とした音がワンルームに響く。そして泣きながら妻は言うのだった。

「そ、その化け物は、私から出た母乳なの……」

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