3.鮮やかな色


 その夜、僕はベッドに入ってもしばらく寝付けなかった。ほろ苦く甘い疼きを体の奥に感じてしまい、呼吸も心臓の鼓動も乱れていた。医師なのに不健康だな、などと自虐してみるが、何も効果はない。明日の診療が休みでよかったと思うと、少しだけ気が楽になる。


 リシャールは日付が変わってしばらく経った頃、部屋から出てきたようだ。キッチンで水を出す音も聞こえてきた。やっとうつらうつらし始めた薄い意識の中で彼の存在を感じながら、僕は眠りに落ちた。


「もうすぐ昼になりますよ、先生」


「……んん……」


「そろそろ起きないと」


「ん……うん……」


 リシャールの声で目を覚まして起き上がると、確かに日が高い時間帯に差し掛かっていた。朝が弱い僕には、こういう瞬間がひどくつらい。


「寝すぎちゃったか……」


 眠い目をこすり、寝ぼけた頭で今日の予定を考える。体の疼きはまだそこにあり、昨晩より大きくなってしまっているが、無視することにした。医師の休日は少ないのだ。


「おはようございます。昼食作りますね」


「おはよ……、ありがと……」


 リシャールの態度は、これまでと何も変わらない。あれはただのいたずらだったのだろう。何せ彼はまともな子供時代を送っていなかったのだ。何がいたずらの範囲内で何がいたずらの域を出るのかということを、きっとわかっていない。そう結論付け、僕は洗顔などを済ませるとパジャマから普段着に着替えた。


「ごめん、遅くなっちゃった」


「先生が寝坊するなんて珍しいですね。いつもは朝弱くても、ちゃんと起きてくるのに」


「……うん」


 「誰のせいだよ」という言葉を飲み込んで、僕はダイニングテーブルに着いた。



**********



 昼食後、リシャールが買い物に行ってくれると言うので、僕は室内の掃除を始めた。本当は朝早めの時間帯にする方がいいのだが、今日は仕方ない。


「……遅いなぁ」


 リシャールは掃除が終わっても帰って来なかった。いつもはもっと早く帰って来るのに、事故にでも遭ってしまったのだろうかと心配になる。


「出かけるか」


 体調が悪いわけではないが、今日は霞がかかったように、頭がぼんやりとしている。昨晩の出来事のせいだという考えを振り払うように、僕は荒い仕草でコートを手に取って玄関を開けた。


 外は日が差しているのに風が冷たくて、コートを着ていても寒さを感じる。これからどんどん寒くなる季節なのだ。毎年、この時期は患者が増える傾向にある。気を引き締めていないといけないと、普段よりぼやけている頭で一生懸命この先のことを考えながら、歩を進めた。


 マーケットへ続く道を歩いていると、何やら人が固まって騒いでいるのが見えた。大半が若い女の子のようだ。だんだん近付くにつれ、その中心がリシャールだということに気付いて、ちくりと胸が痛む。


 ――昨日、あんなこともしたのに――


 そう考え始めると胸のちくちくが強くなり、その一部分をぎゅっと押し潰すような痛みが走った。


 女の子たちは一様にかわいらしく着飾っていて、薄化粧も施しているようだ。形良く整えられた眉や、薄桃色の頬、珊瑚色の唇、青みがかったブルネットの髪に映える銀細工の髪飾り。鮮やかな色を持つ彼女たちが、彼のブルーグレーの瞳に映っている。


 ――あんなことも、したのに……?――


 自分の思考に、脳に鳥肌でも立ったかのようなぞわぞわした感触を覚え、ぷるぷると首を軽く振る。


「あっ、先生! こんにちは!」


「こんにちは」


 僕に気付いた女の子が声をかけてきた。自分のおかしな変化は放っておくことにして、挨拶を返す。それからリシャールに「何やってたの?」と話しかけると、彼は困ったような笑みを浮かべていた。


「ちょっと、話し合いを……。先生、もしかして迎えに来てくれたんですか?」


「話し合い? 帰るのが遅いから、何かあったのかって心配になって来たんだけど」


 正直にここにいる理由を言うと、女の子たちから「きゃぁっ」と歓声が上がる。僕は少し驚いたが、リシャールは意に介していないようだ。


「遅くなってすみません。帰りましょう」


「うん。きみたちも、寒くなってきたからもう帰らないと。風邪引いちゃうよ。家に帰ったらうがいと手洗いを忘れずにね」


「はぁい。先生、またね」


 鈴を転がすような明るい笑い声の女の子たちに軽く手を振ってから、僕はリシャールとともに歩き出した。


「もう買い物は全部終わった?」


「ええと、そうですね。あと何か甘いものが欲しかったんだけど、買えなかったな」


 甘いものという言葉に、僕の心臓がどきりと跳ねる。たぶん顔も赤くなりつつあるだろう。冷たい風が何とかしてくれることを祈るしかない。


「……いらないよ。掃除は終わったから、夕食作るの手伝うね」


「甘いもの、いらないですか? 好きですよね?」


「好きだけど、あまり食べすぎても体によくないから。リシャールも気を付けないと、きれいな顔に吹出物ができちゃうよ」


 実際、多くの若い子たちが悩んでいる顔の吹出物は、そうした嗜好品の取りすぎが主な原因なのだ。


「きれい、かぁ。母親にどんどん似ていってる気がして、何となく自分の顔は好きになれないんですけど」


「僕も。本当はもっと男らし……」


 そこまで言いかけて、口を閉じる。自分の中の矛盾が表面化してしまうのが怖い。既に自覚しているのだけれど、これ以上このことを考えてしまうと、精神的な落ち込みがひどくなりそうだ。


「……さ、急ごう」


 早足に切り替えた僕の隣に、リシャールがすぐに追いついた。


「おいしそうなほうれん草、買ったんですよ」


「もうほうれん草の季節だもんね。何にする?」


「ほうれん草とベーコンのグラタン」


「リシャール、ベーコン好きだよね」


「ほうれん草とベーコンは、決して別れられないんです」


「ああ、まあわかるけど、人間みたいに言わなくても」


 他愛のない話をしながら歩いていると、いつもの二人に戻ったようで安心感を覚える。その一方で、そんな暖かい場所から手を伸ばして何かを欲している自分がいることに気付く。


「……今度、甘いもの、買いに行こうね」


「はい」


 僕の心の内を知ってか知らずか、リシャールはきれいな顔で、きれいに笑った。



**********



 リシャールが作ったほうれん草とベーコンのグラタンはとてもおいしかった。少食の僕が、一人前を軽く平らげてしまうくらい。


「人に何か食べさせるのって、楽しいですよね」


「うん、リシャールを引き取った時の僕もそうだったよ」


 リシャールは、僕の元ではとてもいい子だった。いや、生来の性格がそうだったのだろう。だからあんな母親でも我慢してしまったのだ。


「あの頃は……、食べたことのないおいしいものばかり出してもらってたから、何だか夢見てるみたいで、覚めないでほしいって思ってました」


「……そう、だよね」


 引き取ってすぐ、僕は彼に一日三回、きっちりと食事を取らせた。歯磨きや風呂などの生活習慣や丁寧な言葉遣いも教え、買い物に連れ出し、診療所で子供にもできる手伝いをやらせた。そのうち彼は僕の診療所で働きたいと言い出したが、文字の読み書きも数字の計算もできない状態だったため、まずは町の教会の小等教室に通わせた。十三歳の少年が七、八歳くらいの小さな子供たちと一緒になって勉強するというのは嫌だっただろうが、彼は文句も言わずに続けていた。


 読み書きや計算ができるようになると、リシャールは、帳簿の付け方やカルテの見方などを教わりたいと言い始めた。そのためには中等算学が必要だと、その時十五歳だった彼は、今度は同じ年齢の少年少女が通う町の学校に入学した。やっと年相応の環境を用意してあげられたと、僕は喜んだ。


 彼の成績は最初ひどいものだったが、だんだん上がっていった。わからないことがあると家に帰ってから僕に質問し理解できるまで悩んだりもしていて、努力ができる子なのだと感心した。成長を見るのが楽しくて、僕は、結婚してもいないのに親の気分を味わえたことに感謝していた。


「先生?」


「……ん?」


「何だかぼんやりしてますね。大丈夫ですか? 熱は? お風呂、今日は俺がやりましょうか?」


 急に黙り込んだ僕に、リシャールは優しく尋ねた。風呂の掃除や用意はいつも僕がしているのだ。


「あ、お風呂か、ごめん。用意するよ」


 椅子から立ち上がろうとすると、リシャールの手が僕の右首筋にふわりと乗せられた。直後の、シャツの襟元から彼の指先がするりと滑り込む感覚に、ぴくりと体が震える。


「何……?」


「熱はないかな、と思って。平熱みたいでよかった」


「熱って……、普通は額じゃない?」


「でも先生、子供相手だと首筋触るでしょう」


「こどっ……、僕、子供じゃないんだけど……」


 子供は顔が小さく額も狭いため、僕は患者が子供の場合は高熱を発しているか判断するために、首筋を触ることにしている。それをいつも見ているリシャールが真似したのだろうが、大人なのに……という戸惑いが隠せない。


 「もうっ」と言いながら怒った顔をしてみせるが、彼は涼しい顔だ。僕は、せめてもの反抗とばかりに、引いた椅子を戻さずに風呂へと歩く。


「調子、狂うなぁ……」


 ぼそりと漏らす独り言は、バスタブに勢いよく注がれる湯の音で消されてしまった。

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