【BL】チョコレート
祐里
1.似合わない名前
「もう、六年経つんだね」
自分の背丈よりマグカップ一つ分くらい大きなリシャールに、僕は言った。初めて会った時にはマグカップ二つ分くらい小さかったのに、という意味を込めて。
「まだ伸びるかもしれませんよ」
思ったより簡単に見透かされたのは、僕が彼を見上げていたからかもしれない。
「それはすごいな」
「先生がたくさん食べさせてくれましたからね」
「僕は少食だから、リシャールが食べるところを見るのは気持ちよかったよ」
僕は二十七歳という年齢だが、子供の頃から一度に食べられる量が少ないせいか、体があまり大きくならなかった。以前はもっと大きくなりたかったとないものねだりをしていたが、今ではこれでよかったと思っている。
「でも、俺はもういいかな。これくらいで」
リシャールはそう言うと、長いまつ毛を持つ大きなブルーグレーの目を細めて微笑んだ。町の女の子たちが見たら卒倒しそうだ。
「そう?」
僕がリシャールと初めて会ったのは六年前、彼が十三歳の時だ。彼はその頃、母親と二人で暮らしていた。その母親というのがひどい女で、彼にろくに食べ物を与えず、教育も施さず放置し、自分は男を引っ掛けて遊んでばかりという有様だった。酒場で働き、時々売春婦まがいのこともしていたらしい。彼は運が悪かった。父親が誰なのかも、いまだにわかっていない。
ある日、医師としてこの町に赴任して来たばかりの僕の元へ、衰弱したリシャールが母親に連れられて診察を受けに来た。誰がどう見ても栄養失調だったのだが、母親は「死なれたら困るのよ! もう少ししたら高く売るんだから!」と言ってのけた。患者の事情に首を突っ込むのはご法度だとわかってはいたが、怒りで体が震えたのを今でもはっきり思い出せる。
「釣り合いが大事なので」
「へぇ、気になる子がいるんだ?」
「どうかな。内緒です」
彼の母親が亡くなったのは、診察をしてから二週間後だった。僕が検死を行った。遺体にひどい損傷はなかったが、禁制の薬物に手を出したようで、その薬物の使用者特有の青い斑点が体中にできていた。どうせ裏通りのやつらに「これでもっときれいになれる」だの何だのと言いくるめられたのだろう。
「内緒? 寂しいな」
「そんなことより、今日はあのおっちゃんたちと酒場に行くんでしょう? 俺も行っていいですか?」
「いいけど……おっちゃんって、あの人たち、僕の一つ上ってだけなのに」
「先生はおっちゃんじゃないですよ」
母親を亡くしたリシャールを、僕は引き取った。この国ではそういうことが時々ある。四十年前の戦争中に、七歳以上年上の成人であれば子供を引き取ったと主張するだけで、実親と養子縁組などの書類を交わさなくても役場で公的に手続きをすることができるようになった。その制度が今も続いており、僕は八歳離れている彼を自分の養子として迎えられたのだ。
彼はもう十九歳で、酒も飲める年齢だ。一年前から僕の診療所で助手として働いていて給料も渡しているため、酒場に飲みに行くことだってできる。
「僕だけ贔屓? あれ、リシャールはお酒飲める方だっけ?」
「うーん、たぶん……?」
「普段から飲みに行けばいいのに」
「先生が飲みに行く時に、一緒に行きますよ」
実は僕は、あまり酒に強くない。そのため、自分から酒場へ積極的に行くということがない。家でも飲まないから、リシャールには悪いことをしているかもしれない。
「もう保護者なしで自由に行動できる年なんだよ。まあ、今日は一緒だけど」
初めて会った頃より生き生きとしているその目の先が、棚にしまったカルテから僕に移動する。
「カルテ整理もこれで終わりだし、行きましょうか。おっちゃんたち、もう飲んでるかもしれませんね」
「うん、一応言っておくと、クロードもアルベリクもまだ二十八だからね?」
「はい」
「返事だけ良くてもなぁ」
**********
「先生、こっちこっち。ああ、今日はリシャールも来たのか」
酒場の扉を入ると、アルベリクが手招きして僕を呼んだ。ゆるく笑みを返し、彼らが着いている丸テーブルの空席に座る。
「ごめん、遅くなったかな。二人とも、もうけっこう飲んでるね。……ええと、僕はビール」
「リシャールはどうする? もう飲める年だよな?」
「はい。俺も先生と同じので」
クロードが僕たちの注文を店員に伝えてくれ、程なくしてビールが目の前に置かれた。
「腹は? 減ってるだろ?」
「うん、でもあまり重くないもの……貝のワイン蒸しと……えーと、リシャールは何がいい?」
「俺はベーコンと野菜のトマト煮がいいな」
リシャールがそう言うと、クロードはまた店員に僕たちの注文を通してくれた。彼は気が利く優しいやつなのだ。たまに僕をからかって遊ぶという悪い癖があるけれど。
「先生とリシャールが来ると、なんかこう、場が華やぐな」
「二人とも男なのにな」
僕は長い黒髪を後ろでゆるく結んでいる。本当は結ばずに下ろしておきたいのだが、診察の時に邪魔になるのだ。リシャールは栗色の髪を耳が少し出るくらいの長さで切り揃えているため、美しい輪郭や端正な顔立ちがあらわになっていて、数年前からモテ始めた。最近では男らしさも出てきたと、女の子たちからの人気もうなぎのぼりだ。
「リシャールは格好いいからね」
「そうだよな。恋人とか作らないのか? おまえなら女の子よりどりみどりだぞ」
「いらないです」
「へぇ。ま、仕事がんばってるみたいだしな」
「優秀な助手がいてくれて助かるけど、デートに行きたい日の融通は利かせるつもりだよ」
「おっ、いい上司だ」
アルベリクと笑いながらそんな話をしていると、それまで自分からはしゃべっていなかったリシャールが、突然クロードに向かって口を開いた。
「クロードさんって、先生と同じ学校だったんでしょう?」
「おう、そうだが、何か聞きたいことでもあるのか?」
「えー、学生の頃の話はちょっと……」
僕は学生の頃、クロードとしか仲良くしていなかった。クロード以外からは遠巻きにされていた、という表現の方が正しいかもしれない。
制止する僕を無視して、リシャールはクロードに尋ねる。
「寮で同じ部屋だったんですよね?」
「そうそう。俺、演劇学部だったからさ、よく台本渡して演技の練習相手してもらってたんだ」
「いや、待って、その話やめ……」
「そうなんですか。例えばどんな役?」
「悲恋の劇の相手、つまり女の子の役なんだが、そういうのやらせたりとかな」
「先生が女の子の役? 見てみたかったな」
「かわいかったぞ。『出会うのが早すぎたのよ。せめて私を生涯愛すると誓って』なんて」
リシャールがやけに興味津々になっており、クロードも悪い気はしないようで、会話が弾んでしまっている。僕が止めようとしても、全く意味がない。
「いいなぁ、そういうの」
「そのおかげで、今の俺は演劇の仕事ができてるんだ。まあ、ほとんど裏方だが。ジェレミー……先生には感謝してるよ」
クロードが学生時代に思いを馳せているせいか、僕の名前を言ってしまい、「先生」と言い直した。
「恥ずかしいからやめてよ」
「そういえば、先生は何で名前で呼ばれるの嫌がるんだ?」
今度はアルベリクからの攻撃が来た。今日の僕の運気は最低なんだろうか。
「……似合わないから、だよ」
「そうか? まあ確かに容姿が女の子っぽいから、ジェレミーって男性名より女性名のジュリエットとかの方が似合う気はするが」
「アルベリク、それ、さっき言った悲恋の劇の女の子の名前だぞ」
クロードがまたよけいなことを言い、笑いが起きる。やはり今日の僕はついていない。
「うう……、もう勘弁して……」
「悪い悪い、かわいいからいじめたくなるんだよ。ここの酒代持つから許せ」
クロードにとっては、僕はいつまで経ってもかわいい後輩なのだろう。寮で同室になった時、僕が他の誰とも仲良くなれないとわかっても、明るく笑いかけてくれたのだ。
「じゃあ許す」
「現金だな。リシャールのも持ってやるから、どんどん食えよ」
「ありがとうございます」と礼を言うリシャールは、いつの間にか二杯目を飲んでいる。僕はまだ一杯目をちびちびとなめるように飲んでいるだけなのに。
「リシャール、お酒強いね」
「まだ二杯目ですよ」
「全然酔ってないように見えるよ」
「そうですか? けっこういい気分なんだけど、顔に出にくいのかな。先生は真っ赤ですね」
そう、僕は酒を飲むとすぐに真っ赤になってしまう。だいぶ慣れたが、やはり面と向かって言われると恥ずかしい。
「うっ、やっぱり真っ赤になってるかぁ……今日は恥ずかしい思いばかり……」
「恥ずかしがると、よけい女の子っぽくなるからやめとけ。堂々としてろ」
クロードがそう言い放つが、それができるならとっくにやっている。
「無理、もういい、女の子みたいでも。その方が気楽だし」
「……そうか」
クロードは、学生時代の僕をまた思い出したのか、少し目を伏せた。僕は男として生きることに嫌気が差しているのだ。貴族の庶子として暮らしていた、あの時から――。
「先生、俺もう帰りたいんですけど」
「えっ?」
「眠くなっちゃったんです」
「はやっ!」
「一緒に帰りましょう」
「ま、まあいいけど……。えっと、じゃあ……、クロードとアルベリク、また誘ってね。今度は僕が奢るから」
「リシャール、大丈夫か? 水でも飲んでいったらどうだ?」
「ありがとう、でもここで寝たら迷惑だから帰ります。先生、行こう」
アルベリクの提案に首を横に振ると、リシャールは椅子から立ち上がった。
「クロードさん、奢ってくれてありがとうございました」
そう言うと、簡単に挨拶してリシャールは酒場を出てしまった。僕も同じように「じゃ、またね」と挨拶を残し、慌てて外に出る。
「大丈夫? 酔っ払ってるようには見えないけど」
「大丈夫です。もう帰りましょう」
「……うん」
二人の家は診療所の裏手にあり、この酒場からも近い。冷えた夜風にわずかに熱を持った頬をさらしていると、とても気持ちがいい。
気付くとリシャールが僕の腰に手を回している。女の子とデートする時の練習だろうか。あれ、でも、恋人はいらないって言っていたような。
「僕、顔は赤くてもそんなに酔ってないよ」
「心配なので」
「ふぅん……?」
ふわりと包まれるようなリシャールの手の感覚が気持ちよくて、僕はそれ以上何も言わず、二人で家まで歩いた。
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