第1話 近いからこそ遠い距離
一話 近いからこそ遠い距離
ゴールデンウィーク前日。
鳴間市中区にある高台の上にある高野台高校にあるスピーカーから、生徒の解放を告げる音が流れ始めた。チャイムの音が鳴り始めると、生徒達が次々と教室から出て行った。
高野台高校に今年入学した見抜真(みぬき まこと)は教室の自分の席で日直日誌を書いていた。
日直日誌とは、欠席者の有無、その日あった授業の簡単な内容、日直担当者としての一言を記入する欄があり、放課後に担任の先生に提出するようになっている。
欠席者の有無と授業のまとめの欄はあまり気にしないで埋められたのだが、日直担当者としての一言という欄を埋めるのに苦戦をした。担任の先生に見せるものであるため、あまりにも適当な事は書けない。かといって真面目な内容だと短くまとめることが難しい。
「まぁ、こんなもんで良いか」
真は試行錯誤を重ねて、ようやく日直日誌を完成させると、大きく一回伸びをした。
「じゃあ、出しに行くか」
教室に残っているのは五人程。特別親しい人がいるわけではなかった真は、声をかけるようなことはせず、帰りの荷物をまとめると日直日誌を手に持って廊下へと出た。
廊下に出ると、既に部活動が始まっているのか様々な掛け声が運動場の方から聞こえてきた。中学校の頃から今も部活動に所属していない真にとって、部活動の掛け声というのはどこか違う世界のようなモノに聞こえた。
渡り廊下を通り、職員室のある北棟へと移動した真は階段を昇り、生物室の先にある職員室を目指した。
職員室の前の廊下には自習用の机が並んでおり、先生に怒られながらプリントに励む人もいれば、黙々と参考書を解いている人もいる。
真は足音を出来るだけ小さくしながらその後ろを通り、目的のクラス棚の前まで移動する。
職員室の前にはクラス棚と呼ばれている各クラス毎に小さな棚が用意されており、採点の終わったノートの返却や日誌の提出に使用するようになっている。
真は自分のクラスの棚であることを確認してから、中に日直日誌を入れた。
「よし、帰るか」
怒られるようなことをしたわけではなくても、職員室の前というのはどうも良い気分がしない。一刻も早くこの場を後にしよう。
そう思った真は、少し早足で職員室の前の廊下を歩き出す。
その時、タタタと軽い足音が聞こえたと思った次の瞬間、真は誰かに後ろから抱き着かれた。
「だぁれだ?」
何処かで聞いたことのある声ではあるものの、誰の声かは分からない。だが、少なくとも男の声ではない。
腰に回された手を見ると、白く華奢な手をしていた。声から推測したように女子の手である。
しかし、クラスにそれなりに話をする女子はいるものの、ボディタッチを交わすような間柄ではないし、心当たりのある人物の中で白く華奢な手をしている人はいなかった。
「だ、誰ですか?」
真は正体不明の手を優しく解いてから、後ろにいる人物を確認するために振り返った。振り返る時に鼻を掠めた樹木の良い香りと、このやり取りの既視感から、相手の顔を見る前に一人の人物を頭の中に思い描いていた。
「ゆ、ユウ姉」
真の想像通り、背中に抱き着いたのは草薙幽子(くさなぎ ゆうこ)。真の一つ上の幼馴染みだった。
身長は真の鼻先ぐらい、身体は全体的に細身で白い肌と腰まで伸びた長い髪、神社の家系であることが関係しているのか分からないが、樹木のような不思議な匂いを漂わせている。
「マコちゃん、久しぶり」
「ユ、ユウ姉。どうしてここに?」
真の問いに幽子が首を傾げた。
「どうしてって?」
「いや、だからなんでこの高校に?」
真のその言葉に幽子は目を丸くした。
そして、幽子の表情を見た真は頭の中から抜け落ちていた可能性に気が付いた。
「ご、ごめん。ユウ姉が高野台に行ったっての知らなくて」
真は思春期の男子である。小学生の頃は何一つ気にせずに年上の幽子と年下の果南の三人で遊ぶことも多かったが、中学校に上がった頃から、たとえ幼馴染みと言えど異性と遊ぶことに少しずつ躊躇いが生じ始めた。
共にした時間はあまりにも長く、会ったり話したりすることをいきなりゼロにするというわけではなかったが、真は二人を、特に幽子のことを一対一の時には意図的に避けるようにしていた。
それは、姉のような存在ではあるものの、血が繋がっているわけではない年上の彼女のことを、真は無意識の内に一人の女性として意識していたのかもしれない。
「本当に知らなかったの?」
幽子は小さく息を呑んだ。
幽子は果南が中学校に上がったぐらいの頃から、真が自分のことをどこか避け始めていることに薄々と気が付いていた。
しばらく経つと、三人でいる時の真はいつも通りなのに対して、二人だけで会った時は露骨に距離を感じることに気が付いた。
何か嫌われるようなことをしたのだろうか。
幽子に思い当たる節は無かったが、弟のように可愛がっていた真にこれ以上嫌われたくなかった幽子は、その理由を問いただすようなことはせず、果南がいない時には自分から真に接触しないようにしようと心に決めた。
幽子が中学校を卒業してからは、神社の手伝いや真の受験勉強といった様々な要因によって幼馴染み三人で集まることはほとんど無くなり、果南とは連絡を取り続けていたが、真との距離はドンドン離れていった。
距離が離れていたこともあり、今年の三月に果南から「マコ兄ィも高野台高校なんだって」と連絡があった時は、嬉しさのあまり部屋の中で飛び回ったのを鮮明に覚えている。
家から遠く、進学実績が特別高いというわけでもない同じ高校を選んだということは、少なくとも嫌われてはいなかったんだ。
マコちゃんと二年間同じ高校に通えるんだ。
幽子の心は喜びで満ち溢れていたが、依然として真からの連絡はなく、入学式の時に真の姿をチラリと目撃したものの、その時は声をかける勇気が湧いてこなかった。
そして今日。職員室の前で真の姿を見つけた時、幽子は思わず走り出していた。
嫌われていたというのはただの勘違いで、昔のように遊べるに違いない。
真や果南が小学生の頃によくやってきた「だぁれだ?」をして驚かしちゃおう。
思わず緩んだ頬を引き締めることなく、幽子は真の背中に抱き着いた。
真は自分が同じ学校にいることを知らなかったことなどつゆ知らず。
「そっか」
幽子は名残惜しそうに真の背中から離れた。
「ユウ姉はてっきり南高だと思ってた」
真は居心地の悪そうな顔をしながら言った。
「どうして?」
「そりゃあ、ユウ姉は勉強出来るから」
幽子は入試直前の模試で成績が落ちたから、成績の良い人が目指す鳴間南高校からワンランク下の高野台高校に変えたのだ。
家族や果南にも最初は南高を目指すと話していたが、入試直前に変更したことも伝えている。
しかし、彼は何も知らなかったのである。
何故知らないのか、と問いただすのは簡単だったが幽子はそんなことをしない。
大好きな弟を責め立てるようなことなどしたくなかったから。
「コッチの方が楽しそうだったから」
「南高と何か違うの?」
「まぁまぁ、そんな話は良いから」
幽子は真の顔を見ずに手首を掴んだ。それは、真に顔を見られたくなかったからでもある。もしも今の自分が悲しい顔をしていたら、きっと真に気を遣わせてしまうから。
「え、何?」
「良いから来て」
「帰る所なんだけど」
「お姉ちゃん命令、一緒に来ること」
お姉ちゃん命令とは幽子達三人が小学生の頃に考えたものである。三人の中で年長者だった幽子だけが使うことを許された命令で、この命令に逆らうことは禁じられている。
もちろん、命令に逆らったからといって何かがあるわけではないが、あの頃の真にとってお姉ちゃん命令とは絶対逆らえないものだった。
「あったね、そんなの」
「良いから来て」
幽子は真の手を引っ張った。
真は振り解こうと思えば、幽子の手を振り解くことが出来た。だが、あれだけ可愛がって貰ったというのに彼女の進学先を知らないだけではなく、そのことを本人に伝えてしまったという罪悪感が真の全身にズシリとのしかかっているこの状況で、これ以上彼女を拒否するようなことは出来なかった。
この程度で罪滅ぼしになるのかは分からなかったが、彼女が望むのならその通りにしよう。真はそう思った。
「わ、分かったから。ついていくから離して」
「駄目」
真の前を歩く小さな背中は、どこか楽しそうに揺れていた。
二人は渡り廊下を通り、二年生の教室が並ぶ廊下を歩いていた。
一年生は一階、二年生は二階、三年生は三階に教室があるため、真にとっては窓からの景色が一階分高い。
「あれ、ユウ。もう終わったの?」
二年三組の教室に入った二人は、教室の中で駄弁っていた女子二人に声をかけられる。
一人は真と同じくらい背が高く、肩に触れるぐらいの長さの髪にツリ目をしていた。もう一人は幽子と同じくらいの身長で、少しクセっ毛のある髪を後ろで縛りタレ目をしていた。
「誰その子」
「あッ、もしかしてぇ、その子が噂のマコちゃん?」
知らない女子、ましてや先輩でもある女子からの視線と言葉に真は狼狽えた。
幽子は咳払いをしてから宣言した。
「断罪裁判始めるよ。ハルは検察官、アキは弁護士ね。私が裁判長」
幽子はツリ目の子に検察役、タレ目の子に弁護役を任せ、自らが裁判長役を担った。
「はーい」「りょーかーい」
真だけを置き去りにして話が進む。
「だ、断罪裁判ってなに? 聞いたこと無いし日本語おかしくない?」
「はい、被告人は静かにぃ」
アキは人差し指を真の唇に押し付けた。真は突然のことに目を見開き後退りをした。
一方、ハルと幽子が、机と椅子の向きをガタガタと音を立てながら片仮名の「コ」の字になるように調整した。
「じゃあ被告人はそこに立って」
真は幽子に言われるがままに指定されたスペースに立った。
「なんなのコレ」
真の発言に対して、幽子が机を指の関節でコンコンと鳴らした。
「被告人は静かにするように」
真は納得がいかなかったが口をつぐんだ。
「裁判長、彼の容疑は?」
ハルが手を上げながら言った。
「被告人、マコちゃんの容疑は『幼馴染みでありお姉ちゃんでもある私がこの高校にいることを知らなかった罪』です」
幽子の言葉に、ハルとアキが真の方を凝視した。
「マコちゃん、お前最低だな」
「えぇ、かわいそぉ」
「あの、日頃からユウ姉は僕のこと何か言ってるんですか?」
コンコンコン。
幽子が再び指で机を鳴らした。
「被告人は静かに。まずは検察官から」
裁判長の幽子からの視線を受けたハルは椅子から立ち上がると真を指差した。
「被告人マコちゃんは、小学生の頃から可愛がってくれた姉であるユウの高校を知らなかったとのことですが、そんなことありえますか? こんなに優しくて可愛い姉だと言うのに。恩を仇で返す行為、情状酌量の余地無し。よって検察は死刑を求刑します」
言い終わるとハルは椅子に座った。
「別に弟ではないんですけど、えっ!? 死刑!?」
真は思わず声を荒げた。
「弁護人、何か言うことは?」
アキは椅子から立ち上がるとコホンと喉の調子を整えた。
「マコちゃんは男の子だからぁ、きっとつまんない意地を張っただけに決まってますよぉ。知らなかったというのはただの照れ隠しで本当は知ってたんでしょう?」
アキはニッコリと笑いながら真の方を見た。アキは本心でそう思っているのだろう。しかし、本当に知らなかった真はすぐに返事をすることが出来ない。
「弁護人。それは貴女の妄想です。その証拠に被告人は貴女の発言に何の反応も示していない」
真の反応が鈍いことに気が付いたハルがすぐさま立ち上がり指を差しながら言った。
アキは真の反応が予想外だったのか「ありゃ?」と呟いてから腕を組んで考え込んだ。
「うーん、じゃあ知らなかったのかもね」
「え、あ、あの、弁護してくれないんですか?」
あっさりと弁護役が降りたことに真は慌てる。
「裁判長、検察は先程と同様死刑を求刑します。」
「弁護人は減刑を請求します。んん、そうだなぁ、マコちゃんは永久就職で」
「えぇと、もしかして無期懲役のことを言ってます?」
コンコンコン。
「被告人は静かに。それでは判決を言い渡します」
幽子は目をつぶり深呼吸をする。その場にいた三人が幽子の口が開くのを待っていた。
「無罪」
「えっ!?」「なんで?」「なにこれ」
「何で無罪なのですか裁判長」
不服だったのかハルが立ち上がりながら抗議した。
「まぁ、マコちゃんは可愛い弟だからね。大目に見てあげるのがお姉ちゃんだから」
幽子は微笑みながら言った。
「まぁ、ユウがそう言うなら」
ハルは真を睨み付ける。言葉は納得しているように聞こえるが、その瞳の奥にはメラメラと炎が弛っていた。
真はその視線に耐えきれず目をそらす。
「で、結局何だったんですか、コレ」
話を変えようと真が質問をすると、アキが「はーい」と手を上げながら答えた。
「最近二年生の間で流行ってるのぉ。断罪裁判。あのねぇ、授業で裁判について取り扱った時に先生がぁ」
アキはそのまま口をポカンと開いて停止した。
「あ、あの?」
「あぁ、アキは一度に沢山話したいことがあるとフリーズしちゃうの」
幽子は説明しながらアキの頬をムニムニと摘んだ。
「はぁ」
ムニムニムニムニ。
真が頬を触っているわけではないが、幽子の指に吸い付くように滑らかの反応を示す頬はマシュマロのようだった。
「んやあ〜はなせ〜」
フリーズが終了したのかアキが動き出した。
幽子は「もうちょっと触っていたかった」と言いながらアキの頬から手を離した。
「要するにぃ、何かあったら検察と弁護で分かれて意見を主張して、最後に裁判長が判決を下す。そんな遊び。面白いでしょぉ」
「まぁ、何と言うか、そういう遊びがあることは分かりました」
「あ、そうだ」とアキは何かを思いついたように言うと、真を指差した。
「一年生の間でも流行らせてよ」
真は心底嫌そうな顔をした。
「それは、僕には荷が重いので無理です」
「えぇ、マコちゃんなら出来るよ」
「ね!」と、何の根拠も無い主張を続けるアキは真の手を握ると上下にブンブンと振った。
「いや、あの、えっと」
「おい、アキ。マコちゃんはユウのもんだぞ」
「えぇ、だってマコちゃん可愛いからぁ」
アキは真の顔をジッと見た。真は異性に手を握られたまま見つめられていることに気が付き、耳まで顔を赤くして少し乱暴に手を振り解いた。
「あぁ、逃げられちゃったぁ」
「可愛いか? 私にこんな弟いたらしばくけど」
会ったばかりの異性から褒めと貶しを同時に浴びせられた真はどう反応すれば良いのか分からなくなる。
その時、教室のスピーカーからザザザとマイクの電源を入れたのであろう音が聞こえた。
『二年三組の草薙幽子、面談の時間過ぎてるぞ。校内にいるならすぐ来るように』
スピーカーから聞こえた声に幽子はハッとした。
「職員室の前でマコちゃんと会ったら、肝心の面談のことを忘れてた」
「面談終わるの早すぎると思ったら、そもそも行ってなかったのか」
ハルはケラケラと笑った。
「面談行ってきまーす。あ、マコちゃんは帰ってても良いからね」
幽子は言い終わると共にパタパタと走って職員室の方へと向かっていった。
シンと静まり返った教室には三人が残されていた。
初めて会ったばかりの、知人の友人という気まずい距離感の人と一緒にいることに抵抗があった真は、さりげなく一歩二歩と教室の出口へと向かいながら「じゃあ、僕はこの辺で」と口にした。
しかし、ハルがすぐさま真へと歩み寄り腕を掴んだ。
「色々話があるからゆっくりしていこうな」
腕を掴んでいるハルの顔は笑っていたが、ハルの目は笑っていなかった。
「あの、えっと」
「とりあえず座れ」
一切拒否権の無い命令に真は従わざるを得なかった。真が椅子に座ると、ハルは真の後ろに立って両肩を握り締めた。
「話とは、何でしょうか?」
ぎこちない敬語で話す真に対して、ハルはニコニコと作り笑いを浮かべている。
「言いたい事は色々とあるけど、まぁ、一番大事なのは」
そう言うとハルは真の両肩を強く握り締めた。あまりの力の強さに真は身を捩らせた。
「痛たたたたたッッッ」
「さっきはユウがいたから我慢したけど、今度ユウを悲しませるようなことしたらタダじゃ済まさないからな」
「ハルはねぇ、格闘技やってるから凄いんだよぉ。前に駅で知らないおじさんにお尻触られた時なんかぁ、おじさんの腕をグッ! とやったらゴキッ! って音がして肩がプランプラン外れちゃったんだからぁ」
痴漢も痴漢だがそれは過剰防衛ではないのだろうか。真の頭に過った疑問は、解き明かす必要が無かったためにそのまま真の腹の中へ飲み込まれた。
「マコちゃんは肩外れたことあるか?」
ハルはそう言いながら真の肩を優しく撫でる。
「な、無いです」
「外れると痛いからな。ついでに教えてやると、治す時も痛いから」
真は身体をブルッと震わせてから唾を飲み込んだ。手から伝わる真の緊張を感じ取ったのか、ハルは真の腕をポンポンと優しく叩いた。
「なぁに、心配する必要はない。お前がユウを悲しませなければそれで良いんだ。後は分かるな」
真は頷いたが、ハルには見えなかったようで「返事は?」と圧をかけられる。
「はい、分かりました」
「よろしい。ユウの優しさに甘えて忘れるなよ」
ハルは真の耳に触れそうな距離まで唇を近付けると、念を押すように囁いた。
そして、真の側を離れて少し遠い所にある椅子に座った。
「マコちゃんはさぁ、ユウのことどう思ってるのぉ?」
「どう思ってる、というのは?」
アキは質問が通じなかったことが不服だったのか頬を膨らませた。
「言葉のままだよぉ。私は一人っ子だし、小さい頃は引っ越しが多くて幼馴染みみたいな人もいないからわかんないんだけどぉ、マコちゃんはユウとずっと一緒だったんでしょ? それってどんな感じ?」
「どんな感じと言われても、それが普通だったとしか言いようが無いんですけど」
「じゃあ何でユウと話さなくなったんだ?」
ハルが会話に割って入った。ハルの質問はアキも思っていたらしく、二人で真の方を見た。
「えっと、あの、そもそもの話なんですけど、ユウ姉から僕のことどんな風に聞いてます?」
「小さい頃から弟みたいに可愛がっててぇ、幼稚園入る頃からずっっっと一緒にいてぇ、二つ下のぉ、名前なんだっけ」
名前を思い出せないのかアキがフリーズした。
「カナンじゃなかったか?」
ハルの助言にアキは再び動き出した。
「そうそう! カナンちゃんだ。それで、カナンちゃんとマコちゃんの三人でよく遊んでたって話」
あまり要領を得ない説明に真は「はぁ」としか言いようがなかった。
「でもでも、中学校入ったぐらいから段々距離を感じるようになったんだってぇ」
真の胸にグサリと衝撃が走った。二人の時は意図的に避けていたのだからバレていないと思っていたわけではなかった。
しかし、実際相手に気付かれていたのだと知らされると、自分が悪いのにも関わらず胸が痛んだ。
「避けてた理由はアタシらにはどうでも良いのよ。どうせ『女と遊ぶなんてダサい』みたいな事を直接言われたのか、周りが言われてるのを見てそう思ったんだろ? 男はバカばっかりだからな」
その通りだった。
小学生の頃は男女交じって遊んでいても誰も囃し立てるようなことはなかったのに、中学生になった途端に急に周りの目が変わったのだ。
果南が一緒にいればあまり意識するようなことはなかったのだが、幽子と二人だけになるとどうしても気恥ずかしさが湧いてくるようになったのだった。
「そ、その通りです」
ハルはため息をつき、アキは「あらら」と呟いた。
「お前がユウを傷付けていた過去は、今更どうにもならないからゴチャゴチャ言うつもりはないよ。重要なのは、さっき言ったように今後悲しませるようなことをしないこと」
「は、はい」
その時、ハルは何か思いついたのかアキを手で呼び寄せた。
真には聞き取れなかったが、ハルはアキに何か囁くと「良いんじゃない?」とアキが返した。
「ところでマコちゃんを明日からゴールデンウィークなわけだけど、何か予定とかあるの?」
「特には、無いですね」
真の答えにハルはニヤリと笑った。
「だったら何の問題も無いな。ユウが戻ってきたら明日一緒に遊びたいって言え」
「えッ? なんでですか」
「なんでだと思う?」
ハルは指をパキパキと鳴らしながらニコリと笑った。完全に脅迫である。
「私達でも良いんだけどぉ、どちらかといえば男手が欲しかったから丁度良いんじゃない? と思ってぇ」
「男手が欲しい?」
「詳しい話はユウから聞きな」
「私達のことは気にしなくていいからねぇ」
「あの、もうちょっと具体的に説明を」
真が質問をしようとしたタイミングで幽子が教室へと戻ってきた。
「あれ、マコちゃん帰ってなかったの?」
「ユウの帰りをアタシらと待ってたんだよ。なぁ、マコちゃん」
ハルが含みのある言い方をする。
「え、いや」
真の反応が遅れるや否や、ハルは真の側に歩み寄り見た目では分からない程度に強く握った。
「痛ッ、じゃなくて。ユウ姉のこと待ってたんだ」
ハルが望んでいたであろう答えを口にすると、肩を握られる力は一気に弱まった。
「ユウ、今日はマコちゃんと帰ったら?」
「え、でも」
幽子はハルとアキの顔色をうかがう。
「アタシらのことは気にしなくて良いよ。今日はマコちゃんと帰ってやんな」
「うん、じゃあそうする。マコちゃんもそれで良い?」
「え、あ、うん。もちろん」
幽子が真の前に手を差し伸べたが、すぐにその手を引っ込めた。
「ごめん、昔の癖で」
「別に謝るようなことじゃないよ」
幽子と真はハルとアキに別れの挨拶をすると、二人並んで教室を後にした。
真がもう一度振り返った時、アキは手を繋げと言っているのか手をやたらとアピールしていた。
廊下に人影は無く、何処かから聞こえる吹奏楽の音と運動部の掛け声が響いていた。
何処か気まずさもあって真は黙って歩いていると、幽子がポツリと呟いた。
「なんか、久しぶりだね」
「そうだね」
小学生の頃は当たり前だったはずなのに、時間の流れが二人の間に距離を空けていた。
「そうだ、ユウ姉」
「なぁに?」
真は教室でハルに言われたことを思い出す。別にどうということではないというのに、いざ口にしようとすると緊張し始めた。
真は一回深呼吸してから口を開いた。
「明日、ユウ姉と遊びたいんだけど」
「えっ?」
予想外の言葉だったのか幽子は目を丸くして聞き返した。
「いや、無理なら良いんだけど。別に明日じゃなくても良いし。ユウ姉に用事があるかどうかとか何にも知らなかったから明日って言っただけで。明日じゃなくても別の機会でも全然良くて」
聞かれてもいないのにベラベラと言い訳をするのは恥ずかしさからなのか。真は矢継ぎ早に補足をした。
「それなら、マコちゃんも来る? 蛇ノ目神社」
「蛇ノ目神社? 行くのは良いけど、どうして蛇ノ目神社?」
蛇ノ目神社。山間部にある湖の畔に建つ神社ということは真も知っている。
だが、幽子の家は草薙神社である。草薙神社と蛇ノ目神社にどんな関係があるのか。真はそこまでは知らなかった。
「ゴールデンウィークの間に蛇ノ目神社の掃除をするようにお願いされてるの。神主さんが先月、枝払いしてる時に脚立から落ちちゃってまだ腰が治ってないんだって」
「そうなんだ」
「蛇ノ目神社って心霊スポットみたいな感じでネットで有名でしょ? だからウチの草薙神社よりもゴミが酷いんだって」
「へぇ、そう聞くと大変そうなんだけど、二人でやれる量なの?」
「カナンちゃんも来る予定だから今のところマコちゃん含めて三人かな。どうしても人手が足りなかったらハルとアキにも応援して貰おうかなと思ってるけど」
その時、幽子の携帯電話がブルブルと震えた。
「ちょっと見ても良い?」
「良いけど、先生に見つからないようにしないと」
「もちろん」
真と幽子の通う高野台高校は、携帯電話の持ち込みは許可されているが校内での使用は禁止されている。
実際のところは休み時間や放課後に使用している生徒も多いが、携帯電話を使用しているのが見つかると生徒指導室に連行されるルールになっている。
幽子は画面をサッと確認すると、短い文章を入力する。すると再びブルブルと携帯電話が震えた。
「源ジィからだった」
源ジィとは幽子の祖父であり、草薙神社の神主でもある。小さい頃から何度も会っているが、幽子の中学校卒業式を最後に見かけることはあっても会話をすることはなかった。
「なにかあったの?」
「明日の神社の掃除は人手が集まったのか? って聞かれたから、とりあえずマコちゃんとカナンちゃんって伝えたら、後で挨拶に行くって返事来た」
「挨拶? わざわざ?」
「源ジィ、バイト代出す気満々だからお金の話をするんじゃない?」
予想外の展開に真は「へぇ」と漏らす。
「バイト代が出るの?」
「ちゃんと掃除すれば私に十万円渡されることになってるから、そこから分配する感じかな」
「三人だったら一人三万弱ってこと?」
真は思わず声が大きくなった。
「食材だとか色々買うから多少引かせて貰うけどね」
「それは全然良いけど」
幽子は少し躊躇してから口を開いた。
「ねぇ、カナンちゃんと私は二泊三日のつもりでいたんだけど、マコちゃんはどうする?」
「二泊三日? 長くない?」
神社の掃除と言われて、どんなに遅くとも朝から行って夕方には帰るものだと思っていた真は思わず聞き返した。
「どれぐらい掃除に時間かかるか分からなかったし、カナンちゃんが勉強を教えて欲しいって言ってたから空いた時間を勉強会にしようと思ってて。それならお泊りもアリかなぁって」
「泊まるって何処に泊まるの? 神社?」
幽子はフフフと笑った。
「近くに親戚の家があるの。先週から再来週まで海外旅行に行ってるから好きに使ってって言われてる。冷暖房もお風呂もトイレもちゃんとあるよ」
「そうなんだ」
「それで、マコちゃんはどうする?」
男子一人女子二人。たとえ幼馴染みと言えど、気まずさはどうしても存在する。
「答えは後でも良い?」
「もちろん良いよ」
昇降口に着いた二人は一度自分のクラスの下駄箱の方へと向かい、外靴に履き替えてから再度合流した。
「ユウ姉はどうやって通学してるの? バス? 自転車?」
「私は原付」
「へぇ」
あまりにも自然に言われたために真は違和感を覚えるまでにラグが生じる。
「え、原付?」
「うん」
「原付での通学って良いの?」
「申請して許可が出れば良いんだって」
真と幽子は二人並んで駐輪場へと向かった。高野台高校では学年毎に停める場所が決められている。真は自分の自転車を後回しにして幽子について行くと、ピカピカの原付が止まっていた。
「これユウ姉のだったんだ」
「そうだよ」
幽子はシート下からヘルメットを取り出した。幽子の取り出したヘルメットは奇妙な模様が描かれていた。
「なんか凄い模様だけど」
「これ漢字で『源』って書いてあるの」
真はもう一度ヘルメットを見る。近くで見ると分からなかったが、少し目線を遠くにするとその模様が「源」と読めた。
「『草薙』なら分かるけどなんで『源』なの? 源ジィの源ってこと?」
「女子高生が原付乗ってると目立つみたいで、乗り始めてすぐの頃はよく警察に声をかけられたんだ。その話を源ジィにしたら『俺の孫娘だと一目で分かるようにしてやるッ』って言って、次の日にはこうなっちゃった」
思いついたことは何でもすぐに実行するあの人らしいや、と真は思った。
「で、効果はあったの?」
「それから一度も声はかけられてないかな」
「さすが源ジィだね」
「うん」
幽子はヘルメットをしっかりと被ってから、カチャッとバックルを締めた。シート下からグローブを取り出して両手に装着した。
「詳しい話はLINKで送るから」
「うん」
「マコちゃん、自転車でしょ? 気を付けてよ」
「それを言うならユウ姉もだよ」
「それもそっか。じゃあ、また明日」
「うん、また明日」
幽子は原付を手で押していつでも出られるように向きを変えた。
「その」
無意識に真から溢れた呟きは幽子の耳に届いていた。
「なぁに?」
「いや、その。何と言うか、今まで、ごめん」
それは中学生になってから意図的に避けていたことへの罪悪感から出た言葉だった。本当はもっと言葉で言わなくちゃと頭では分かっていても、それを上手く言葉にすることが出来ない。
「ユウ姉のこと嫌いになったとかそういうのじゃないんだ。ただ、その、気まずかったと言うか何と言うか」
言葉が詰まった真に幽子は微笑んだ。
「嫌われて無かったなら私はそれで大丈夫だよ」
「でもね」と言いながら幽子は真剣な表情をした。
「私はお姉ちゃんだから大丈夫だけど、カナンちゃんには絶対に同じことしないでよ。カナンちゃんに同じことしたら怒るからね」
その言葉は幽子の本心であることに変わりなかったはずなのに、自分の言葉でどういうわけか胸がズキンと痛んだ。
「う、うん。ごめん、分かった」
「じゃあこの話はおしまい。もう気にしなくて良いからね」
「ありがとう、ユウ姉」
「良いの良いの。なんたって、私はマコちゃんのお姉ちゃんなんだから」
幽子は言い終わるのと同時にエンジンをかけた。トトトトトと単気筒特有の音が駐輪場に響く。
「また明日、マコちゃん」
「うん、気を付けてね。ユウ姉」
幽子は真の方を見ないで、ブィインと音を立てながら原付は駐輪場から出てそのまま校門を通って行った。
「じゃあ、僕も帰ろうかな」
真は自分の自転車の鍵を取り出すと、一年生の駐輪区画へと歩を進めた。
駐輪場から離れた所で幽子は一度停車した。ヘルメットのシールドを上げて目元を拭うとグローブが濡れていた。
「何でなんだろう」
幽子は駐輪場での会話の最後の方から、急に涙が零れそうになっていた。
真に気が付かれたくなかったので最後は顔を見ることが出来なかった。
嫌われていなかったという嬉しさなのか、一段落ついた安心感からなのか、それとも。
正体不明の感情を抑えるように、幽子は下唇を噛みながらアクセルを回して発進した。
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