【11】憤怒
執務室にてプレラッティより報告書の読み上げを聞かされていたバエル公はうんざりとしていた。
豚頭病の猛威は依然として留まる事を知らず、天候不順により作物の出来が悪く、近々婚姻予定であったロットナー伯爵の娘ドロテアが、相手となるはずだった隣国ルクレイアの王子から一方的に婚約破棄を言い渡された。理由はルクレイア側が豚頭病を恐れたためだと言われている。
ともあれ、ドロテアは自家の荘園の葡萄の木で首を
この災禍に恐れを成したルクレイア以外の各国も、次々とアッシャー王国と断交をはじめる。そのために国内は総じて、物資不足に
魔王クシャナガンを倒したというのに、一つも良い事が起こっていない。ならば、やはり魔王に屈するべきだったのだ。聖女サマラのように。
その道を選ぶ事のできなかった愚民を心の底から
「……以上になります」
プレラッティの結びの言葉を耳にしたバエル公は、心底つまらなそうに「もうおしまいか?」と言った。
すると、プレラッティは手元の報告書から目線をあげると、首を横に振る。
「いえ。今日はあと一つバエル様のお耳に入れたい事が」
「何だ?」
バエル公は書斎机に頬杖を突いて、気だるげにプレラッティを見上げた。すると、プレラッティはいつになく真剣な顔つきで口を開いた。
「以前、私が勇者やその妻たちについて部下に調べさせていた件は覚えておいででしょうか?」
「ああ……」
「一区切りついたので、それについてのご報告を」
「うん」
バエル公は、このとき、まったくプレラッティの話を聞く気になれなかった。そんな事よりも、早くあの丸太小屋の地下で少女の身体を切り刻みたかった。早くサマラの魂を死の淵より救い出さなければならない。
この頃のバエル公は焦燥にかられていた。もう百人近い少女を犠牲にしているにも関わらず、一向に良い結果に恵まれない。
魔王の死と共に“
どうすれば、聖女の魂を現世に呼び戻す事ができるのか。その事ばかりを考えて、気もそぞろでプレラッティの話に耳を傾ける。
「……私もバエル様と一緒で、聖女が魔王に下った事がどうしても信じられませんでした。そこで聖女に関する噂話を集めていると、ある違和感を覚えたのです」
「そうか」
「その違和感とは、聖女の末路についての噂はたくさんあるにも関わらず、魔王に下った経緯や、その時期に関しては、まったく聞こえてこない」
「そうだな」
勇者たちが空中庭園で魔王の上に股がる聖女を目撃しただとか、魔王の死体にすがりつき、勇者たちの説得も虚しく崩壊する空中庭園に残る事を選んだとか……。
そういった話はバエル公も知っていたが、確かに聖女がどの段階で勇者たちを裏切ったかについてはまったく聞こえてこない。動機に関しても“純朴だったがゆえに魔王の思想に感化された”だとか“本当は欲深い女であった”だとか最もらしい話はあるが、具体的な裏切りの切っ掛けはっきりとはしていない。
「で?」
「そこで、私は部下に命じて勇者パーティの足取りを丹念に追う事にしました」
「ほう」
「それで、北方のベルフリンクルという国でエドガーと呼ばれる男から興味深い話を聞く事ができたのですが」
「なるほど」
バエル公は気のない返事をしながら、密かに察していた。これは知ってはいけない話であると……。
そして、ほんの小さな感情の欠片が熱を帯び始める。
しかし、そうとは知らないプレラッティは、少し興奮した様子で話を続けた。
「そのエドガーはアンルーヘという山奥の宿場町の『黒猫亭』という宿で働いていたらしいのですが」
「ふむ」
「その宿屋で勇者パーティが一夜を過ごしたらしいのです。しかし、次の日の朝、昨晩いたはずの聖女の姿だけ見えなかったそうです。勇者たちに理由を尋ねても『先に旅立った』とだけ……」
「そうか」
「この黒猫亭は、そのあと勇者が泊まった宿屋として旅人に人気を泊していましたが、どういう訳かしばらくすると客足が遠退き、潰れてしまったようです。この辺りの経緯について尋ねてもエドガーは酷く脅えて口を閉ざしてしまったらしいのです……」
「なるほど」
バエル公は腰を浮かせる。そして、ゆっくりとした足取りで書斎机から離れ、プレラッティを促す。
「それで?」
「私はこの黒猫亭にこそ、勇者たちと聖女が袂を別つ事となった原因があるのではと睨んでいます。そもそも、このアンルーヘという町は、近くの遺跡に眠る秘宝を狙った魔王軍七魔将の“死霊魔術師”ボーグワイと、勇者パーティたちとの交戦が行われた場所としても有名です。もしかすると、その遺跡の秘宝にサマラ様が闇へと下った原因があるのかもしれません」
「それは、凄いなぁ……」
バエル公は足を止めて、壁に掛けてあった儀礼用の
「これから、信頼できる冒険者を雇い、アンルーヘの調査を慣行したいと考えています。聖女が魔王に下った切っ掛けや時期が曖昧になっているのは、この件についての情報源となっている勇者たちが口をつぐんでいるからでしょうが……」
「まあ、そうなるな」
バエル公は壁に掛けてあった
「もしや、聖女様が魔王に下ったのには、やむにやまれぬ事情があったのではと……だからといって、勇者とその仲間を裏切った彼女の選択は許されざる事でありますが」
そこでプレラッティは、にわかに顔を青ざめさせる。
「ただ、この件に深入りすればするほど、奇妙な音が聞こえるのです」
「音?」
「まるで、深淵より吹き抜ける隙間風のような……そんな音が耳元で」
「私には聞こえんな」
「あれは、もしや地獄の底に堕ちた聖女の呼び声なのではないかと……」
そこでバエル公がプレラッティの方に向き直り、彼の方へと歩みを進めた。
プレラッティは首を傾げる。
「えっと、バエル様?」
「
その直後であった。電光石火の速さで抜き放たれた
「あ……が……バエ……ル様」
「もうよい」
バエル公が右足でプレラッティの腹を蹴飛ばすと、彼は血を吹き上げながら後ろに倒れ込んだ。
その血塗れになって、小刻みに
何の疑問も抱かずに聖女が闇に堕ちた事を受け入れた自分と比べ、プレラッティは、その経緯を納得のいくまで調べようとしていた。
どちらが聖女への愛を持っていたといえるのだろうか。
そして、なぜ自分が聖女の裏切りを受け入れる事ができたのか。その理由について深く考えようとしなかったのか。
自分は、世界中がサマラを非難する中、彼女の唯一の味方となる事で醜い独占欲を満たしていただけなのだ。
更に“清らかなる聖女”のままの彼女に情欲を抱く事には罪悪感が伴うが、闇に堕ちた“稀代の淫婦”の彼女になら遠慮なく情欲を向ける事ができる。
その醜く浅はかな欲望を突き付けられた事と、先に述べた幼稚な嫉妬心により、バエル公の中で何かが弾けてしまった。
「聖女をこの世で最も深く愛しているのは、お前ではない。この私なのだ」
そう吐き捨てるように言うと、息子のように大切におもっていたはずのプラレッティに唾を吐いた。
その瞬間だった。
バエル公の脳裏に天啓が訪れる。
一向に復活の兆しを見せようとしないサマラを、この現世に呼び戻す方法。そして、その愛するサマラと一つに交わる唯一の手段を……。
「
バエル公は狂気の笑みを浮かべながら、例の丸太小屋まで駆け足で向かった。
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