夢の島

矢向 亜紀

(一)

 秋に父が死んだ。彼は眼科勤務の屈折度測定器だった。さいごまで母が懸命に修理していたが、結局彼は息を吹き返さなかった。

 父が死んだ時、母は父の遺体から顔を上げ、「部品を一つだけ形見にしよう」と私に言った。母はかの有名な、“青空の下真っ直ぐ伸びる道路の向こうに浮かぶ気球の写真”を引っ張り出して、愛用している透明なスマートフォンケースに挟み込んだ。スマートフォンは「遺体の一部に触るのはちょっと……」と文句を言っていたけれど、渋々それを受け入れていた。

 私は散々悩んで、あご置きの部分を貰うことにした。家族でハグをする文化なんてないから、大人になった私が父に接触するのは検査の時だけ。顎置きと額当ての部分は、父と私の肌が唯一触れ合う場所だった。白い横長の顎置きは、それだけで見ると何の用途があるのかまるでわからない。装飾品としては不格好だし、小物を入れるには不安定過ぎる。


 母は腕の立つ整備士で、今は自宅で機械の整備をしている。父と出会った時はまだ、医療機器メーカー勤務だった。当時の父は、珍しく人間の眼科医(確か大崎先生だか高倉先生だか)が営む病院に勤めていたらしい。

 二人の初対面は、病院での定期メンテナンス。父は、屈折度測定以外にも複数の機能を兼ね備えた機械だ。だから母のメンテナンスは、それはそれは念入りだったという。二人が恋に落ちたのは、必然だったのかもしれない。きっと母は、誰に対しても平等に明瞭な検査結果を出す父の誠実さに惹かれたのだろう。父の場合は、つまらない気球の写真を見せたりいきなり目に風を当てたりしても動じない母のおおらかさに。


 おおらかな母は、死んだ父の一部を自分の赤い車に組み込んだ。私は整備士ではないから、母が車のどこに父の部品を使ったのかはわからない。

 車の後部座席はいつも倒して平たくしてあった。そこが父の指定席で、私と母はもっぱら運転席と助手席に座っていた。もう父はいないのに、後部座席は倒されたままだった。


千歳ちとせ、ドライブしよう」


 ガレージに置かれた車の腹からぬっと顔を出し、煤汚れにまみれた笑顔で母は言った。断る理由もないので私は頷いた。

 もしも車に命があったら、父の部品を仕込まれている間何を考えていただろう。どうしてかは知らないが、命が宿る乗り物はいまだに見つかっていないそうだ。多分、彼らは根本的に人間と反りが合わないんだと思う。誰だって、自分の行き先にあれこれ口出ししてくる相手のことは気に食わないはずだ。


「どこ行くの?」

「夢の島」


 私が助手席に乗り込むと、母はそう答えた。私は首を傾げる。夢の島と言えば、かつてゴミ処理場として扱われ今では公園になっている歴史的な場所だ。そうやって私が言うと、母は調子よくかかったエンジンに笑みを浮かべながら続ける。


「そっちの夢の島じゃないよ。昔あった島で、今はもうない島。新婚旅行で行ったんだけど、その後地殻変動があって消えちゃったんだ」

「それじゃ、もう行けないでしょ」

「なくなった場所を見に行くの」

「“ない”を見るの?」

「そう」


 ない、を見るの。と母は言った。



 道中はずっとラジオを流していた。よく母がガレージで聴いている、こじゃれた洋楽やお洒落なイベントを紹介する老舗のラジオ局だ。二人が出会った病院でかけていたんだと、両親とラジオを聞く度二人が懐かしそうにしていたのを覚えている。


「お父さんが私にどうやってプロポーズしたか、話したっけ」

「ううん。知らない」


 あなたは、自分の両親の馴れ初めやプロポーズの様子を知っているだろうか。もしくは、あなたが生まれた時のことを。

 自分の誕生に思いを馳せたあなたは、人間と屈折度測定器からどうやって私が生まれたのか不思議に思うかもしれない。それでも、口を開く前によくよく考えて。百歩譲って、両親の馴れ初めやプロポーズの話、出産の思い出を聞くのはいいとして。あなたは、自分が母親の腹に宿った経緯を知りたいだろうか? 私は知りたくない。だから、そんな野暮な疑問を私にぶつけるのはやめてもらいたい。


「私が転勤になって、お父さんも一緒に大倉先生の所を辞めてついて来てくれたの」


 二人が出会ったのは、大崎でも高倉でもなく大倉先生の病院だったらしい。


「で、一緒に暮らし始めたんだけどさ。正直、ただの恋人のためにそこまでしてくれる理由がわからなかったんだよね。お父さんもすぐに次の職場を見つけて、二人とも忙しくなって顔を合わせる時間も減ってたし。最初は、お父さんの転職願望にていよく利用されたのかもなんて思ってたけど……」


 転勤後も母はしばらく医療機器メーカーで働き続け、結婚を機に独立。ガレージがある家を買い個人で整備士を始めた。それが今の私たちの住まいだ。二人が結婚前に同棲していた家、プロポーズの舞台になった場所を私は知らない。


「ある日家に帰ったら、お父さんが『おめでとう』って出迎えてくれたの。私の誕生日だった。まだメーカーで働いてたからさ、忙し過ぎてそんなこと忘れてたんだよね。お父さんは無理して半休取って、料理を作って待っててくれた。で、一緒に食事してデザートを食べる頃になって」

「花束でも出された?」


 私が相槌を打つと、彼女の横顔は笑った。


「妙に真面目な声で、『覗いてみて』って言われたの。病院で検査する時みたいに」

「うん」

「顎を置いておでこをつけたけど、お父さんは黙ってた。どうしたんだろうと思って中をよく見たら」

「いつもの気球」

「違ったの。『結婚して下さい』って文字が浮かんでた」


 自分の両親のプロポーズの様子なんて、知らない方がいい。気恥ずかしいやら微笑ましいやらよくわからないまま、私の腕には鳥肌が立った。それでも母が恋する乙女みたいに笑っていたから、「素敵だね」と返事をしてから続ける。


「それって、お父さんが気球の写真を『結婚して下さい』にすり替えてたってこと?」

「お父さんは、その気になれば頭の中にあるものを何でも映せるんだよ。気球の写真はよく使うものだから、前もって用意してあるだけで」

「へえー……」

「あんたが小さい頃は、自分で考えた紙芝居を映してあんたをあやしてたんだから」

「うーん……。覚えてないなあ」


 父は口数の少ない人だった。冷淡だとか無愛想とかいうわけではないけれど、ぺらぺら話し出して止まらないような性格ではない。多分、洗濯機や電子レンジのように「出来ましたよ!」と誇らしげに声を上げる機械ではないからだろう。父は検査結果を伝えるために口を開き、それ以外は黙っている機械だ。そんな人だから、プロポーズの言葉を声ではなく自分の中に映し出して伝えたのは納得が行く。


「お父さんっぽいね」

「でしょ? あんたも、お父さんみたいな人と結婚するといいよ」

「私は、結婚するなら人間がいいなあ」

「私だって、お父さんと会う前はそう思ってたよ」


 車は高速道路に入り、海へ向かって走っていた。カーナビモードのスマートフォンが、「この先、道なりです」と退屈そうに告げた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る