18.笑顔の別れ
翌朝、ロティアは事前にまとめてあった荷物に、ヘアブラシやさっきまで着ていた寝間着を入れて、ヨタヨタと部屋を出た。
玄関ホールに荷物を置いてキッチンへ向かうと、包丁の音や、鍋が煮立つ音が聞こえてきた。ヒョコッと中をのぞきこむと、リジンが料理をしていた。朝から部屋にいなかったフフランも一緒だ。
ロティアは両手を使って笑顔を作ると、努めて明るい声を出した。
「おはようっ、リジン、フフラン」
先に振り返ったフフランも上機嫌に「おはよう、ロティア!」と答えた。
リジンはフライパンを火から下ろしてから、振り返った。
「おはよう、ロティア。もうすぐ朝食できるよ」
「ありがとう。お皿出すけど、なに使う?」
「浅皿二枚ずつかな。フフランにはいつも通り一枚で」
「ふふっ、了解」
リジンの家がすっかり勝手知ったる場所になったロティアは、食器戸棚の上の棚から花の絵が描かれたお皿を取り出した。リジンは普段は白いお皿を使うが、特別な時はこのお皿を使うのだ。
お皿の上にはアスパラと厚切りベーコンの炒め物、スクランブルエッグ、クレソンのサラダが盛られ、もう一枚にはライムギ入りのパンが二枚乗せられた。
「おいしそうっ。ありがとう、リジン」
「いいえ。さあ、食べよう」
「いっただきまーす!」
フフランは細かく切られたライ麦パンに、元気よくくちばしを伸ばした。
朝食を食べ終えると、リジンは手早く片づけをして一度自室に戻った。
ロティアが乗る汽車は九時十二分。あと一時間だが、駅までの道のりを考えるとあと三十分で家を出る必要がある。
ロティアは食後の紅茶を飲みながら、ふーっと息をついた。
さっきまで食器洗いに使っていた手押しポンプから、ジョロッと水がこぼれてくる。中に残っていた水だろう。
最初は蛇口がないことに驚いたが、今となってはこの不便さも面白かったな、と思った。
「……さみしいなあ」
お誕生日席に座るフフランが、頭を下げてポツリと言った。ロティアはコップを置いて、フフランの頭を優しくなでる。
「もうすっかり、この家の生活に慣れちゃったもんね」
「ふたりと一羽での生活もな」
ふたりはにっこりと笑いあった。
「……リジン、なんて言ってくるかな。今後のこと」
「仕事でのことはわからんけど、オイラとロティアのことはずっと好きでいてくれると思ってるぞ」
「そうだと良いな。……わたし、昨日何も言えなかったから」
「オイラ、話し過ぎたか?」
「ううん、全然! むしろ、フフランにしかリジンを励ませなかったと思う。わたしはまだまだ、見聞が少ないもの」
ロティアがもう一口紅茶を飲んだ時、ドアが開いて、リジンが入って来た。その手には大きなカバンが握られている。
「あれ、今日って絵画教室あった?」
「ないよ。俺も、ロティアとフフランと一緒に、一度母方の実家に帰ろうと思って」
「えっ!」と声を上げて、ロティアは立ち上がり、フフランは飛び上がった。
リジンはキョトンとして首をかしげる。
「そんなに驚くこと?」
「あ、う、ううん。確かに、窓ガラス割れてるし、一人じゃ危ないよね」
「うん。ガラス屋に連絡したら、完成まで一週間以上かかるみたいだから、それまでは実家にいるよ」
「それが良いな。どこにあるんだ、実家って」
「ふたりとは反対の汽車に乗って、二時間ぐらいはかかるところだよ。ここよりも自然が多くないから、ちょっと息苦しいけど、しかたないね」
「大変だね。電車で座りっぱなしになって、体痛くならないようにね。それから、ちゃんと何か食べたり飲んだりしてね」
リジンはクスッと笑って「ロティアもね」と答えた。
「それなら超特急でサンドイッチを作らない? パンちょっと残ってたよね」
「いいね、そうしよう。フフランの分はちぎってもっていって」
「やったー! ありがとな、リジン!」
本当はこんなことを話したいわけではない。
もっと話さなければならないことがある。
そう思っていても、ふたりと一羽は、他愛のない会話を続けた。
そしてこの時間が、永遠に続けば良いのにと思った。
サンドイッチの包みを抱え、夏の朝日を浴びて汗をかきながら駅へ向かうと、ロティアが乗る汽車はすでに乗り場に停車していた。まばらに乗っている麦わら帽子をかぶった乗客たちは、この緑に囲まれた町を不思議そうな目で見ている。
ロティアはカバンの取っ手をギュウッと握りしめ、隣に立っているリジンを見上げた。眠たげなリジンと目が合う。
「それじゃあ、いったんお別れだね」とリジン。
「……うん」
ロティアは足を踏み出そうとして、「あ」とわざとらしく声を上げた。
「リ、リジンの汽車は、いつ来るの?」
「あと十分もしないうちに来るよ。ロティアとフフランの汽車はもう出るでしょう」
ロティアはもう一度「……うん」と弱弱しく答えた。
フフランはロティアの考えていることが手に取る、基、羽根に取るようにわかり、小さな胸が締め付けられた。しかし今は何も言うまいと思った。
ロティアの背中を、リジンがそっと押す。ロティアは一歩リジンの前に出た。
「また、ちゃんと連絡するよ、今後のこと」
ロティアはリジンに背中を向けたまま、「うん」と答え、そのまま汽車に向かって歩き出した。
浅い呼吸しかすることができない。頭の奥がズンズンと痛む。それでも足を止めずに汽車に乗り込んだ。
フフランはリジンに別れを告げてから、窓から汽車に乗り込んだ。
発射一分前を告げる笛が鳴る。
椅子に座ったロティアは、荷物を床に置いて、窓を開けた。リジンは汽車のすぐそばに立っている。リジンの顔を見ると、ロティアの目から涙が流れてきた。
「……ロティア」
リジンは目を見開き、絞り出すような声で言った。
「……リジン、わたし、勝手だけど、また、ここに来たい。ここで、リジンと、フフランと一緒に、過ごしたい。あのカモミールの種だって、一緒に植えたい」
ロティアが窓の外に手を出すと、リジンはその手をそっと握って来た。フフランがふたりの手の上に乗る。
「オイラもだぞ、リジン」
リジンは唇をかみしめて、力強くうなずいた。
「……俺もだよ」
リジンの言葉にかぶさるように、発射の笛がけたたましく鳴った。それを合図に、ふたりと一羽が離れる。
汽車が動き出す。
ロティアは窓から身を乗り出し、リジンを見つめた。リジンもその場に立ち尽くして、ロティアを見つめている。
最後に見せるのが泣き顔なんて、嫌だ。
ロティアは両手で涙をぬぐい、グイッとほほを持ち上げて笑顔を作った。そして、大きく手を振った。
「リジン! また、絶対に会おう! わたしとフフランとリジンの、ふたりと一羽で!」
リジンも大きく手を振ってこたえてくれた。
その顔には、微笑みが浮かんでいるように見えた。
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