さんざめく思慕のヴァルダナ
kanegon
▼第1章 第二王子の夢
▼1-1 陶器の壷は強欲に食らう
アーシャーダ月には、熱風が吹き荒れる酷暑季が去って、人々が待ちに待っていた雨季がやってくる。乾ききって白っぽくひび割れていたインドの大地に潤いが戻り、農作業が始まるとともに町や村では祭りの太鼓の音も響きわたる。無論インドは広大なので、雨季に入る暦にも前後の差が出るのが当然だったが。いずれにせよ、インドで生まれ育った人でも暑季の猛烈な暑さに慣れることはできないので、雨季は心の安寧であった。
最も暑い暑季の真ん中に生まれた第二王子ハルシャもまた、熱さから逃れて涼しさを堪能できる雨季は歓迎していた。だが、人々のように浮かれる気分にはなれなかった。
西暦でいえば604年にあたるこの年。先日の誕生日で、生まれてから満十四年となった。この年齢の男の子は必ずと言っていいほど、自分というものは何なのか、と自問自答するものらしい。哲学のような深いものではなく、誰もが一度は罹患する熱病のようなものだ。自分は他の誰とも違う特別な存在なのだ、と思いたい願望と、実際にはありふれた十四歳男子の一人でしかないという冷徹な現実とのせめぎ合いが、ハルシャの心を神話の乳海のように撹拌する。
「ハルシャ殿下、弓矢の練習のお時間です」
「分かった。すぐ行く」
声をかけてきた侍従に返事をして、気持ちを入れ替える。第二王子の役目として、やるべきことはやらなければならない。護衛の兵士二名とともに急ぎ足で弓道場へ向かう。弓道場には屋根があるから雨で濡れることは無いといっても、弓を射る者が立つ場所だけであり、雨空の下に向かって矢を射ることになる。
弓を射る者が立つ場所には、既に一人の凛々しい青年がいる。
「やあ、ハルシャ。相変わらず不機嫌そうな顔をしているな」
「練習お疲れ様です、ラージャー兄上」
背の高いラージャー第一王子が先に来て既に練習を始めていた。兄はいつでも明るい表情を崩さず、王太子らしく堂々と振る舞っている。十四歳男子の自意識過剰は通過儀礼とは言うが、弟のハルシャから見れば、兄のラージャーが十四歳だった頃に自意識をこじらせて悩んだような様子を見た記憶は無かった。
恐らく、自分が第一王子であり、将来は父の跡を継いで王となることを、自分の中で完全に消化できているのだろう。第一王子と第二王子の端的な差だ。
その兄が、弓を構えて、離れた場所にある的を狙う。静かな姿。弟や取り巻きの者たちが見守る中、雨粒を引き裂いて矢が走り、円形の的の中心を正確に射抜いた。弓を引く際の拳や頭や足を使う技術も、熟練の弓兵から指導を受けた通りで無駄や隙が無かった。
続いて、準備を終えた弟のハルシャが自分用の的に向かって矢を射る。真っ直ぐに飛んだ矢は、円形の的の中心から少し右に逸れた位置に命中した。
その後も二人の王子は交互に矢を射た。第一王子ラージャーの矢は正確無比に的のほぼ中央を射抜くが、ハルシャの矢は心の小さな迷いが反映されているのか、毎回大なり小なり中心から外れた位置に行っていた。
次に、円形の的が撤去され、人間の形を模した藁束が一つ運び込まれてきた。人形の頭の上には金属の鉦が載せられている。と同時に、大きな衝立が脇から運び込まれて、射手と的との中間に設置された。射手は、衝立に阻まれて直接藁人形を視認できないことになる。
「では、声だけが聞こえる相手を射る練習です。まずはラージャー王子から」
人形の頭上の鉦が長い棒によって叩かれ、澄んだ音を発した。その音の発生源から距離を思い描き、ラージャー王子は上方に向かって矢を射た。
雨雲を切り裂くように矢は斜め上に向かって飛んだ。最高点まで達すると放物線を描いて矢は落ちて来る。
「ラージャー王子の矢、藁人形の腕の部分に命中しました」
衝立が動かされて、射手であるラージャー王子が自分の射の結果を己の眼で確認した。
「まあ、こんなものか。腕でも、当たっているだけで上出来か」
ラージャー王子は嬉しいでもなく悔しいでもない無味乾燥な表情で感想を述べた。
「続いてハルシャ王子」
再び衝立によって藁人形が隠されてから、鉦が鳴らされた。先ほどのラージャー王子の順番の時よりは、やや距離が長いだろうか。横方向の位置も、ハルシャ王子から見て大きく左に動いたようだ。
引き絞った弓から放たれた矢は、降る雨に逆らって衝立の遥か上を飛び越え、放物線を描く。
小さくではあるが、鉦が鳴る音が、降り続く雨音を一瞬だけ断ち切った。
「ハルシャ王子の矢、鉦に命中しました」
衝立が移動すると、矢が地面に落ちているのが見えた。的確に硬い金属の鉦に命中したから、刺さらずに落ちたということだ。
その後、二人の王子が交互に矢を射た。ラージャー王子は、目で見える相手を正確に射るのは得意だった。だが、音で相手の位置を判断して射ることに関してはハルシャ王子の方が優れていた。
雨が次第に小降りになってきた頃、藁人形と衝立は撤去され、台座の上に置かれた陶器の壷が準備された。芭蕉の葉の色を煮詰めてこの世の強欲さを濃縮したかのような緑色の釉薬で彩色されている。
「続きまして、物を壊さずに射る技術の練習です」
兄のラージャー王子が先に矢を番える。目標を目で視認できるが、第一王子は弓矢を上に向けて、あまり力を入れずに射る。
放物線を描いた矢は、壷が置かれた台座よりも少し手前に落ちてしまった。逆に力を抜きすぎてしまったので届かなかった。
「やはり、この射は難しいな。命中させるだけなら簡単だが、壊さないようにという条件が付くと、思い切って射ることができない分、命中させることすら難しい。毎回全然命中しない」
陶器の壷は当然ながら脆い。台座から落ちてしまえば割れることは想像に難くない。最初の射のように強い真っ直ぐな矢を射たのでは、矢が命中しただけで壷は割れてしまうかもしれない。
続いて、ハルシャ王子が弓を構えた。直線で狙うのは論外なので、放物線を描くように上に向ける。
心もち、弱めに弓を引いて、手を放す。ハルシャが狙っていたのは、先刻の藁人形の時に頭上の鉦に命中させたのと同様に、真上から矢が落ちて来るようにすることだった。そうすれば、壷の中に矢が入り込む形になるので、台座から落ちずに済むはずだ。
ハルシャ王子の目論見はほぼ達成されていた。矢は壷の口から中に入った。
だが、矢の勢いを弱くすることに失敗していた。矢を呑み込んだ壷は、勢いに押されて台座の後ろから地面に落ちて、乾いた音と共に亀裂が入ってしまった。
「失敗か。この射は、失敗を繰り返しながら感覚を掴む、っていうことができないから、練習が難しいな」
ハルシャ王子の感想をもって、弓矢の練習はこれで終わりということになった。
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