14-②

14-②


 日曜の朝八時半、普段は小学生が列をなしているような住宅街は、翁媼おうおうたちの和やかな憩い場になっている。と思いきや、前方から三十代くらいの夫婦が歩いてきた。彼らは僕とすれ違った後、僕の後方を歩いていた子連れの夫婦と挨拶を交わした。耳を澄ますと、至る所で挨拶を交わす声が聞こえてくる気がする。まるで不思議の国に迷い込んだような錯覚に陥る中、「山岸」と刻まれた表札の前に辿り着いた。

「……おはよう」

 黒いインターホンに手をかけると、静かな彼女の声が返ってきた。微睡まどろみにまみれたように聞こえた口ごもりは、冴えた耳の働きによって慎重を含ませた警戒音に換わった。

「鍵は開いてるから、できるだけ素早く入って」

 注文通りできるだけ素早く、なおかつ音を立てぬようにドアを開けて、彼女の世間体に従った。玄関に入るとすぐ左手に、丸三角四角などに縁取られた写真が幾つも飾られている。それを見れば異邦人でさえ、この家が四人家族だと理解できるだろう。

「おはよう。よく来てくれたね」

 土間に足先を食い入らせて、裸足の彼女が立っていた。このやり取りだけを切り取れば、親戚の家に遊びに来たと言えば言い訳が立つ。無論、今この瞬間を見ている目は額縁の中に押し込められている。

「これ、お土産」

 背負っていたバッグを彼女の横に置き、靴を脱いで廊下に上がる。

「お土産って、これごと?」

「これごとっていうか、バッグの中に入ってる」

 僕が子供のおもちゃや旦那の趣味関連と思われる玩具を目に焼き付けている中、彼女はバッグの中身を物色し、一つ一つを手に取っていた。

「バイブに手錠に目隠し……、なんでこんなもの持ってる……、ていうか知ってるのよ」

「まあ、下積み長かったからね」

 大人のおもちゃを物々しく見つめながら、ちゃんと用途をわきまえている彼女に同じことを言いたくなったが、答えを聞かない方が今日という日に没頭できる気がした。

「あと、これなに?」

 彼女が満を持して取り出したのは、柔らかい素材の毛が先端にびっしり集まった筆だった。

くすぐったりするときに使うんだよ。これに関しては家にあったやつをそのまま持ってきただけだけど」

「……ふーん。ちょっと、あんまり想像つかない趣味ね」

 だが、彼女はその筆をバッグに仕舞わなかった。

「それじゃ、行きましょ。特別に私たちの寝室使わせてあげるから」

 廊下を進む彼女の背中についていく。右手に筆をしっかりと握り締め、結わいた髪を道標みちしるべのようにして、僕をその場所に導く。いつもの日曜日のこの時間と全く変わらぬ行動を、自然と僕たちは取っていた。おそらく、胸中もさほど違いはない。

「改めて歓迎するね」

 寝室の扉が開かれ、吸い込まれるように中に入った。悠々と夫婦が同衾どうきんできる大きなダブルベッドは、部屋の三分の二以上を象徴で満たしている。

「ようこそ、私の愛する我が家へ」

 彼女はベッドに座り、僕にも隣に座るよう促した。座った途端、彼女は左胸をはだけさせ、乳頭を筆先で撫でた。

「ふうん。確かに、悪くないわ」

 筆をその場に置くと、立ち上がって扉を開けた。

「浴びてくる? 私はどっちでもいいけど」

 僕は筆を拾い、乳頭が触れた毛先を親指と小指でつまんだ。

「いいよ、早くやろう。やりたいことたくさんあるし」

 それを聞いた彼女は再びベッドに座り、僕から筆を取り上げて、毛先に唾液を垂らした。

「精々アウェイの洗礼に呑まれて、力尽きないようにね」

 旦那の衣服が入ったクローゼットが視えた。秒針を進める時計の音が聴こえた。甘くてかぐわしい洗剤の匂いがした。柔らかで温かく快適なベッドだった。

 彼女の唾液を含んだ筆は、何の味もしなかった。


「もうさすがに諦めたかな?」

 彼女が下着姿になった頃、交互に鳴り続けていたスマートフォンの着信音が漸く収まった。朝九時を回った今日この頃、僕たち二人に用がある人物は一人しかいない。

「この前店長にさ、もう頼れるのは俺と山岸さんだけって言われたばっかなんだ」

「あら。それは悪いことしちゃったかしら」

 そう言いながらも、彼女は作業する手付きを止めない。結わいた髪を解くために両手を持ち上げると、開いたわきが瞳に舞い込んだ。

「自業自得だよ。あんなに文子さんに面倒なこと押し付けといて、それでまだ頼る気満々なんだから」

「そうね。こうなったのも、全部自業自得」

 世間的には露出をいとわないものの、いざ見せろと言われると躊躇する、それが腋だ。意識して初めて意識されていることに気付く、それが腋だ。

 目に見えるからこそ目に見えないものが詰まっている、それが、腋という人智の表象が持つ最大の魅力だ。

「一応、電源切っとこうか」

「うん。電話線も抜いておいたから、もう邪魔者はいないよ」

 お互いにスマートフォンの電源を落とし、部屋の外に放り出す。代わりにバッグに入れて持ってきた玩具たちを床に並べ、真昼の決闘への態勢を整える。

「あの雨の日の後さ、あの娘に、会いに行ったでしょ?」

 訊きながら、彼女は拘束具を手に取った。これは合計四つのかせがあり、ベッドを用いれば四肢にめられ、寝たままの状態で完全に拘束することができる。

「行ったよ。文子さんに行けって言われたから」

「うん、言ったわね。それで、その日はあの娘としたの?」

 拘束具を一度床に戻すと、バイブレータには目もくれず、目隠しを手に取った。これの用途は言わずもがな、単純に視覚を遮断することにある。僕は人体その他の専門家ではないため正確な効能はわからないが、視覚を遮ればその分他の感覚が鋭敏になるらしく、触覚らが与える快感も自ずと高まるのだという。

「したよ。一応、そういう約束だったから」

「それで、感想は?」

 目隠しを床に置くと、一番端に置いてあった筆に目線をやった。間接的でも直接的でもあるその指示は、並行する話から色彩を奪い去る。

「悪い意味で、数秒も持たなかった。あいつも痛いって言ってたし、俺が帰る頃には泣いてたし、……まあ、そんな感じだった」

 そうして僕が筆を手に取ると、彼女は胸の下着を外した。

「……可哀想に。深く、傷つけてしまったのね」

 下着を床に放り投げ、ベッドに仰向けで横たわる。僕も水平になって口付けを交わそうとしたが、唇を制止し、代わりに僕の手にある筆を自分の身体に擦り付けた。

「私ね、高校卒業するまで男の子と話したこと、ほとんどなかったの」

 それに応えて身体を胸部まで沿わせ、左の乳頭に毛先を従えた。右の乳頭の方では左手の人差し指でつぶさいじくり回すと、彼女の身体は少しだけ反応を見せた。

「その頃はそれで全然不満じゃなかった。私の高校は真面目な娘が多かったし、そういう願望があったとしても、表から不純を装うような娘はいなかった。それが、私たちの世界の常識で、普通の生き方だと思ってた」

 続いて左の腋に移行し、毛先と舌を交互に這いつくばらせた。ここはどうやらだったようで、途中話が途切れ途切れになるほど、彼女の反応は著しかった。

「だけど大学に入ったら、周りはセックスしてるどころか、平気で触れ回る人ばっかりだった。むしろ、セックスしないならなんでこんなとこいるの? そんな風に咎められてるみたいだった。だから本当に焦ったし、惨めだったし、誰とでもいいから早く『初めて』を済ませたかった」

 しかし話を本筋へ移らせたかったのか、彼女は腋を閉じた。仕方がないので乳房に筆を持っていくと、乳頭のときよりも敏感に反応した。

「入学から半年くらい経った頃に、ゼミの女の子からコンパに誘われた。大して仲良くもなかったし、たぶん数合わせかなんかだったんだと思う。それで行ってみたら、そこにいた二つ上の先輩に軽く誘われたんだ。それが、私の初めて」

 左を大方済ませた後、右の乳頭周りを一周すると、反応は落ち着いた。そのタイミングを見てへそを経由し、下半身へと移行した。

「とっても興奮したし、とっても夢中だった。今でもあのときのことは、鮮明に憶えてる。だけど、気持ち良くはなかった」

 下穿きの上から毛先をなぞると、腋のときのように股間を震わせた。太ももの付け根から足の指先まで満遍なく行き渡らせ、産毛の一つ一つが、陽光を浴びたように逆立っている。下穿きは染みで変色し、彼女の感度は頂上に達しようとしていた。

「それは、彼も同じだった。……いや、違う。同じだなんて、口が裂けても言えない。だって、そのときの彼は、マネキンみたいに冷たかった」

 しかし、下穿きを脱がすと、彼女の反応は落ち着いた。

「ホテルに入ったときも、私の服を脱がすときも、身体を触るときも、舐めるときも、変な感触がして思わず声を出したときも、彼はずっと無表情だった。ただ淡々と、流れ作業みたいにセックスしてた。触れ合ってる相手がこんなに熱を上げてるのに、シャワー浴びてるみたいに、私の熱を受け流してた。……一度だけ、私の膣に挿れて血が流れたときだけは、ちょっと顔を綻ばせて、鼻息を荒くしてた」

 膣に毛先を這わせても、彼女の話は続いた。舌を躍らせても、便宜的に湿るだけだった。指を強引に押し込んでも、触覚が事実を受け取るに過ぎなかった。

「でも、私はあのときのことが忘れられない。人生で一番興奮した瞬間だったし、やっと、自分が認められたって思えた瞬間だった。だから彼のことは今でも憶えてる。茶髪で、色白で、身長は一七〇センチくらいで、身体は細くて顔も頼りなかったけど、最初に話してたときは面白かった。緊張してる私をたくさん笑わせてくれた。法学部って言ってたけど、終わった後に落ちてた学生証見たら商学部だった」

 仕方がないので、表を攻めることは諦めた。彼女を次の局面に誘導すると、話しながら身体を反転させ、うつ伏せの体勢で僕の再開を待ち構えた。

「きっと、彼は私のことなんか憶えてない。あの後、大学内で彼と何度もすれ違った。その度に私は緊張して、パッと目が合って、いつ声をかけられてもいいように心構えしてた」

 そのとき初めて、素肌の背中を視覚が知った。

「だけど、話しかけられることなんてなかった。それどころか、一回だけ目が合ったときも、彼の表情は変わらなかった。セックスしてるときと同じように、知らない女とたまたま目が合っただけっていう顔だった。私は彼の中で、なんでもないその辺の女に成り下がった。ううん、成り下がったわけじゃないね。そもそも、何かある女にすらなれなかった」

 何度も何度も追いかけてきたその背中が、初めて、素顔を見せた瞬間だった。

「それから社会人になって今の夫と出会うまで、誰ともしなかった。たぶん、好きになった人もいなかったと思う。でも、前みたいな焦りはなかった。私にはあのときの体験があるから大丈夫だって、根拠のない自信があった。周りが誰と付き合っていようと、本当に関心がなかった」

 その背中を焼き付けたまま、彼女を縛り付けたくなった。彼女の意思を奪った上で、その背中をもっと知りたくなった。

「それで今の夫と出会って、心の底から好きになって、初めてセックスした。夫は興奮してたし、気持ち良さそうにしてたし、何より今日が初めてだって言ったら、とっても嬉しそうだった。挿れても血が出ないのに、何も言わなかった。その後に高校生の頃に興味本位で道具挿れたら破っちゃったのって言ってみたら、余計興奮してくれた。だから私も気持ち良かったし、嬉しかったし、この人になら何を捧げてもいいって確信した」

 床から拘束具を拾い、うつ伏せの手足に括り付ける。彼女は刹那せつなも抵抗することなく、ただただ話を続けていた。

「でも、あのときの、初めてのときの興奮は、甦ってこなかった。こんなに気持ち良いのに、こんなに彼のことが好きで、セックスの素晴らしさを全て知ったような日だったのに、私は興奮しなかった。目の前の夫じゃなくて、あのときの彼との初めてを思い出して、漸く、身体が濡れて熱くなってきた」

 目隠しも使おうと思ったが、彼女が何かを一心に見つめていることに気付いてやめた。

 仰向けのときもそうだったが、彼女が見つめていたのはおそらく景色ではない。彼女だけがこの家の中で視ることのできる、地平線と水平線の交差と隔絶だった。

「そして気付いた。私はなんて馬鹿なんだろうって。私が今までの人生で一番興奮した初めては、一生に一度だけ味わえる唯一無二の初めては、あんな男に捧げてしまった。気晴らしに誰とでもやるような男に、処女を壊したときだけ興奮するような最低な男に、何もかもを渡した。奪われたんじゃない。私が渡したの。だって、私はまだ、彼のことを鮮明に憶えてる」

 彼女の瞳から、白銀の雫が頬を伝って零れ落ちる。

 だが表情も変えず、口調も変えず、ただただ、彼女は話し続けた。彼女の意志は、段々と奪われていく心身の自由に朽ち果てることはなかった。

「夫のことは心から愛してる。……こんなこと言っても説得力ないと思うけど、それは今でも変わらない。でも、夫とするときは、決まってあの男のことを思い出してる。そうしないと、私は興奮できないから」

 添えていた手を彼女から離した。完成した大の字のうつ伏せ姿は、産まれたときから押さえつけられていた、彼女の意志そのもののように思えた。

 そうして僕は、やっと、流れている話を聴いてみる気になった。

「夫には、今でも嘘をつき続けてる。私が今まで付き合った相手は、もちろん、セックスした相手は、あなただけだって。それは半分本当で、半分は、真っ赤な大嘘。たとえ子供を人質に取られたって、口を割るつもりはない。この世で、あなただけが知っている、私の秘密」

 何でもない話だった。

 クラスに一人は居るような女子高生が抱えた引け目に、サークルに一人は居るような女子大生が犯した過ちに、井戸端に一人は居るような人妻が持て余す、心の闇。

「雨の中であなたに襲われたとき、初めて、あのときの興奮が自然と湧き出た。初めて、あのときを思い出さなくても興奮できた。初めて、興奮と快感が、一つになった」

 それが、山岸文子という女のすべてだった。

「寂しいわけじゃなかった。物足りないわけじゃなかった。今までの生活は、本当に幸せだった。……だけどそれが、山岸文子という女の幸せだって、知られていた」

 そのことを彼女が自覚していることさえ、誰もが知っていた。

「知っちゃったんだ、私。あの雨の日の朝、あなたの眼を見て、あの娘はきっと、私にはできない体験をこれからするんだろうなって。私の日常は、幸せなんかじゃなくて、ただの限界だって」

 彼女の幸せが、母として、また妻としての理性でしかないことを、人々は安堵していた。

「そしたら、私も、欲しくなった。誰かに愛される以外の猟奇的な興奮が、欲しくなった。私が処女を失った日だって、女として、やっと一歩を踏み出せた日だって、ちゃんと誰かに尊敬されるべきことなんだって、見せつけてやりたくなった」

 彼女は知った。

 翼を一つにすることは、ただ身体が重くなるだけということを。枝を一つにすることは、ただ憂慮すべき厄介事が増えるだけということを。そこに人々が見出すのは、自分の人生に支障をきたす、不気味な異端物でしかないことを。それが我々にもたらされた、どこまでも目に見える価値観を基準とした、目に見える愛だということを。

 彼女が見つけた愛は、重なり合った二つの世界の狭間に押し潰され、代わりに居場所を得た獰猛どうもうな個人主義によって塗り替えられた。彼女が手にした愛は、塗り替えられた目に見える愛によって、ありふれたものという新たな居場所を与えられた。

 そうやって彼女の信じてきた愛は、新たな歴史が提示した「愛するための条件」によって、無価値な遺物へと成り下がった。

「これも、山岸文子だって、知ってほしかった」

 そうして、山岸文子は知ってしまった。

 自分が何でもない女ではないと証明するためには、女としての本能を、背中に刻み込むしかないと。

「なんか鳴ってるよ」

 目覚まし時計とは違う、簡素な機械音がどこかから聞こえてきた。

「……もしかしてそれ、ベッドの下から鳴ってない……?」

 彼女の言葉を頼りにベッドの下に手を伸ばすと、硬い物体が手に当たった。取り出してみるとそれはゲーム機のような直方体で、音はやはりそこから鳴っていた。

「なにこれ?」

「嘘……。なんで、どうして……?」

 彼女の声は明らかに動揺しているものに変わった。しかし身体の自由が利かない故、緊急事態を表明する手段は限られている。

「とにかくこれ、外してくれる?」

「え、なんで?」

「理由は後で説明する! だから早くこれ外して!」

 唯一自由の利く声という手段を活用しながら、全身をうごめかせあたう限りの抵抗を試みた。それだけ彼女にとって、大切な何かが差し迫っているようだった。

「先に話してよ。なんでそんなに焦ってるのか気になるじゃん。それとも何か隠してるの?」

「隠してるわけじゃないけど……」

 必死に震わせている背中に手を添えると、今日一番の反応が返ってきた。それが快感を伴うものではないと解ってはいながら、手放すことはできなかった。

「わかった、話す。その代わり、絶対外すって約束して」

 やがて反応は落ち着き、声にも冷静さが戻った。

 しかし反比例するように、僕の情動には熱が注ぎ込まれた。

「それはね、GPSに反応するアラームみたいなものなの。実は万一のことを考えて、夫の車にGPS仕掛けておいたの。家に近付いてきたらそのアラームが鳴るように設定して」

「ってことは、旦那たちが帰ってきてるってこと?」

「……そう。しかもまさかそんなことないと思って初期設定のまま動かしてなかったから、たぶん、あと五分くらい……」

 あと五分。それが、僕たちに残された時間だった。

「わかった!? だから私たち今大ピンチなの! しかもよりによってこんな状態で……」

 僕たちに残された、最後の意志のり場だった。

「ちょ、ちょっと!」

 アラームの音を消し、床に置いてあった目隠しを拾い上げ、彼女の視界を塞いだ。

「お願いだから冗談はやめて! これ外してあなたは自分で逃げてさえくれれば、後はなんとかするから!」

「ちょっとキッチン行ってくる」

「え?」

 時間がない。彼女の家族が帰ってくるまでに、僕たちが得た意志を完成させなければならない。

「ごめん、お待たせ」

「いい加減にして! キッチンなんかに何しに行ってたの!?」

「包丁取ってきてたんだよ」

「包丁……?」

 僕たちの意志を、目に見える形にしなければならない。

「そんな、包丁なんて使わなくたってこれ外せるでしょ……?」

「違うよ。こうするために持ってきたんだよ」

「どういうこと? ……ちょっと、何? 今の音」

 左の掌に刃先を食い込ませ、欲しかったあかい絵の具を体内から絞り出す。家の床は汚してしまったが、神聖な彼女の身体にはまだ一滴たりとも付着していない。

「お待たせ。じゃあ、始めるから」

「始めるって何!? あなた、自分が何やってるか解ってるの!?」

 ベッドに置きっぱなしにしていた筆を右手に持ち、反対の掌に浸けて毛先を紅く染め、彼女の背中の上に立てた。

「このままだったら私たち、おしまいなのよ!?」

 首下から胸上にかけて、「比」を書いた。

「あなただってただじゃ済まない! 変な噂だけじゃなくて、大学とかにも連絡行くかもしれない!」

 胸上から胸下にかけて、「翼」を書いた。

「もう私はいいから! あなただけでも逃げて、これから人生やり直して!」

 胸下から腰上にかけて、「連」を書いた。

「本当に楽しかった! だからお願い! あなただけでも、ちゃんと、人は人を愛せるんだって、真実の愛を知って!!」

 腰上から腰下にかけて、「理」を書いた。

「……ごめん文子さん。俺には、こうすることしかできなかった」

 そうして、彼女が背負っている比翼連理を、目に見える形にあぶり出してみせた。

「俺には、目に見えるものしか解らないんだ」

 他人と自分に打ちつための智慧ちえと意志を手に入れるために、他人と自分を護るための、情愛を引き換えにして。

「そうやって大人になって、これからも、大人になっていくから」

 外で車の音が聴こえた。車庫に入れるためのバック音が、閑静なこの部屋に渡ってくる。

「ありがとう文子さん。俺も、本当に楽しかった」

「……会いに行って」

 かすれかけた声を振り絞り、彼女の意志がバック音とせめぎ合う。

「あの娘に、花音ちゃんに、もう一度、会いに行ってあげて……」

 バック音が止み、彼女の意志は、閑静を独り占めにした。

「……わかった。さよなら、山岸さん」

 左の掌を見つめる。

 そこにはかつて、確かな温もりが宿っていた。確かな情愛が芽吹いていた。

「さよなら、橋内くん」

 その紅い血は、二人の心を行き来していた。

「……花音」

 一粒だけ、花音との雫が瞳を駆ける。

 紅く染まった掌に落ち、休日の白昼も真夏の夜も、総て、記憶としてよみがえった。

 しかし狼と化した新世界の下では、それはもう、味のない競争の肥やしでしかない。


 外に出ると、横の車庫では七歳くらいの女の子が、スライドドアを開けて車から出ようとしていた。

「こら明奈、お父さんがいいって言うまで出ちゃだめって約束だっただろ?」

「はーい」

 だがその行動は父親によって制限され、女の子は渋々車の座席に戻った。代わりに父親が外に出てくると、ドアの前に立つ僕と目が合った。

「……、君は確か……」

「……ご無沙汰してます」

 山岸さんの夫は僕の前まで歩み寄ると、全てを悟ったような沈着な表情に落ち着いた。

「……そうか。店長はあり得ないと思ってたから、残るはまさかと思っていたが……」

「……あなたは、全て見抜いていたんですね」

 たたずまいも語り口も、何もかもが落ち着いている。何を知り何を知らず、何に怒り何をゆるしているのか、僕には全く見当がつかなかった。

「突然帰ってきたのも、僕がここに来ることを見越して」

「……ああ。子供たちは本当は置いてきたかったんだが、やっぱり、ただの思い過ごしだったって希望を捨てたくはなかった」

 それでも、彼女のことを今でも愛していることは解った。部屋で帰りを待つ彼女の姿を見ても、彼はただ両手両足の枷を外し、背中の血を洗い流し、何事もなかったように家族に迎え入れるのだと、その表情が物語っていた。

「あ、お兄ちゃん!」

 車の中にいた明奈が言いつけを破り、僕たちの前に飛び出してきた。

「こら! まだ出てきていいって言ってないだろ!?」

「え? だって明奈、このお兄ちゃん知ってるよ? お母さんがとってもお世話になってる人だって言ってた!」

 明奈は父親にまとわりつきながら、僕のことを嬉しそうに指差す。弟の方は僕たちのやり取りに邪魔されることなく、車の中で眠りに落ちていた。

「……すまないが、今日はもう帰ってくれないか?」

「……わかりました」

「えー? なんでー? せっかく来たんだからウチ寄ってってよー」

 明奈は変わらず駄々をこね続けたが、父親から半強制的にいさめられると、不機嫌そうに頬を膨らませながらその場に座り込んだ。

「それでは失礼します。……色々とご迷惑をお掛けしました」

「……ああ。大事にする気はないから、元気でやってくれ」

「……ありがとうございます」

 彼らの横を通り過ぎ、最初で最後の来訪だったこの家を後にする。住宅街は相変わらず、休日の朝を象徴する閑静で包まれている。

「お兄ちゃん、ちょっと待って!」

 道路に出たところで、明奈の声が静寂を裂いた。

「手どうしたの!? 血だらけだよ!?」

 家の中で最低限止血し、滴り落ちるまでは防ぐことができたが、明らかに非常事態の布石が僕の左手を紅く染め上げていた。

「本当だ……! 早く傷の手当てを──」

「いえ、僕は大丈夫ですし、彼女の身体も無事です。ご心配お掛けして申し訳ありません」

 できる限り彼らの平静を試みるも、僕が肌色を装えば装うほど、通常と異なる掌が騒擾そうじょうを刺激する。

「じゃ、じゃあ、なぜそんなことに……」

「そうですね……、これは、その──」

 改めて、彼らを動揺させた掌を見つめる。

 藍染めされた紅。響き渡る沈黙。香ばしい鉛の匂い。流れるような粘性の手触り。口の中を甘美で一杯にする、無機質な鉄の味。

 紙一重を斉一だと取り違えた、悲劇の主人公たちが創った新たなることわり

「比翼連理になってしまった、この世界への弔いです」

 そうしてまた、世界は一つになっていく。

 神の描く喜劇には、やはり、人間という一流の道化が必要だったかのように。

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