13-②

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「じゃあ、行ってあげてください」

「うん、ありがとう。急でごめんね」

 夕づくには程遠い碧空が広がる十六時五十分、彼女を先に上がらせ、一人でレジに立った。先ほど聞いた話によると、どうやら下の息子が保育園で怪我をしたため、できるだけ早くお迎えに行く必要ができたらしい。ただ怪我と言っても応急手当の利く擦り傷程度で、別に泣き喚いているわけでもないみたいなので、シフトが終わったらすぐ向かうといったことで問題はないようだった。それでも僕と店長である程度説得し、十分前には上がることで合意した。店長も気を利かせて退勤時間は十七時にすると言っていたので、いつものように形だけ十七時を待つ必要もなく、あと二、三分もすれば僕の前を通り過ぎ、可愛い息子の元へ駆け付けていくだろう。

「お疲れ! じゃあ悪いけど、行くね」

「あ、はい! お疲れ様でした!」

 そうこうしているうちに、実際に彼女は通り過ぎていった。街へ行くような際立つ服を身にまとい、母親としての自分を取り戻しに向かった。

「よっ、お疲れ」

「あ、お疲れっす」

 入れ替わるように、須藤が出勤してきた。先週ビショビショになった一式を性懲りもなく身に着け、僕に軽い挨拶を仕掛ける。

「なあ、山岸さんってもう帰った?」

「はい。息子さんが怪我したみたいで、早めにお迎え行きました」

「ふーん。だとしたら余計変だな」

 須藤は外の方を見ながら、若干首を傾げた。

「え、なんかあったんすか?」

「いやさっきさ、派手な格好した人が裏の倉庫の方回ってってさ、部外者だと思ったからちょっと追いかけたんだよ。そしたらそれがまさかのあの人で──」

 思わず自分も目を外の方に向けた。

「ゴミ捨てに行ってんのかと思ったけどどう考えても私服だし、勤務終わりだとしたら余計変だし。まあ、橋内に訊いても仕方ないと思うけど」

 彼女が何を考えているか、骨の髄まで理解している。

「それにしても、なんであの人、あんな服着てんだ? あの歳で、しかもよりによってあの人が着るようなもんじゃないだろ。子育て疲れてコスプレでも目覚めたか?」

 ただ、それがうつつの沙汰だと理解できるかは別だった。

「もういいんで、早く着替えて代わってください」

「あ? ……まあいいや」

 目を外に向けたまま、須藤が視界から消えていくのを覚える。しかしその視線の先に、彼女の姿はない。彼女の理性はない。飛散したうつろな本能だけが、黄昏たそがれに取り残された空のあおと同化している。

「ほら、出勤時間より早く来てやったぞ。これでいい──」

「お疲れ様でした」

 須藤の戯言ざれごとを聞き及ぶことなく、レジを後にした。バックヤードに入ると更衣室に直行し、一分も経たないうちに帰り支度を終える。

「やけに急いでるけど、用事でもできた?」

 店長から呑気な閑話が飛んでくるも、黙殺してタイムカードを打ち込む。

「お疲れ様でした」

 十七時を回っていることを確認し、返事を聞かずにその場を立ち去る。須藤の前を通らずに自動ドアから外に出ると、ここ数日は沈黙していた熱気が肌という肌を襲ってきた。一瞬のうちに汗が吹き出し、血潮が体内を流転する。白いTシャツは色が変わり、腋から陰部までの全ての毛が水分を含み、その水分ごと、強烈な吸引力に冒されたくなる。

 だが、僕の横を通り過ぎ店内に入っていった茶髪の男性は、至って涼しい顔をしていた。

 抑えられなくなっていた。考えられなくなっていた。同じ景色に心を通わせた休日の白昼よりも、幻想と現実が交差した神秘的な真夏の夜よりも、獰猛で、空虚で、不完全で、非常識で、それでも、何かが満たされてしまった帰路の夕方こそが、僕にとっての比翼連理だった。

「文子さん……」

 そこに、彼女は居た。胸元のはだけた緋色のブラウスは、汗で茜色に変色している。

「やっぱり、来てくれると思った」

 倉庫の前で立ちすくむ彼女は、ブラウスのボタンを一つ外した。

「なんで……? どうして……?」

「だって、こんな格好じゃ、お迎えなんか行けないでしょ? だから、着替えるの手伝ってもらおうと思って」

 二つ目のボタンを外すと、全部のボタンを外す前に開いた部分から上半身を露わにした。彼女の胸元は、下着で守られてはいなかった。

「保育園に遅れるって、電話しますか?」

「ううん、いいの。お母さんは幸せだって、後でちゃんと聞かせるから」

 彼女が最後のボタンを外す。その間に両脇から手を差し込み、華奢な身体を指紋の一筋まで透き通らせる。神経に波及する肌の生温かさが、彼女を傷つける好奇心に昇華した。

「こんな格好している私、あなたの眼からは、どう映ってる……?」

 ボタンが外れた直後、ブラウスを奪い、彼女にもう一度着せた。そうして完全に開けた胸元に顔を寄せ、乳頭を強く噛んだ。

「この、対になってる二つが対のまま混ざり合う感じが、堪らなく好きなんです」

 凡俗な慎み深さが着飾る華とえんあおほのおを悦で包み込むあかい仮面。

 一度知ってしまった桃源郷の胸騒ぎは、扉を開けたら最後、絶頂の輪廻から抜け出すことはできない。

「私を、どうしてくれる気……?」

 強く噛んだ乳頭から、茜色の血が流れる。それを舌ですくい彼女の舌に移すと、真っ白な母乳に変貌した。

「その顔のまま、あのときの心地に浸らせる」

 そう言うと、彼女は僕の頭を掴み、自らの眼前に据えた。

「随分、意地悪な顔が板についてきたね」

 また、満面の微笑みが僕の限界を襲った。

「そんなあなたも、嫌いじゃないよ」

 そこに、追い求めていた泰然な淑女がいた。拠り所だった平凡な俗女がいた。

 僕はこの二人を、いつまでも、それぞれの瞳に閉じ込めたくなった。


 一時間は経っただろうか。下校する子供たちの声が聞こえなくなったので、それぐらいは経っていてもおかしくない。

 いや、おかしくないという表現は、良識に照らし合わせればおかしいかもしれない。この約一時間、僕たちは誰に邪魔されることなく、誰に咎められることなく、澄んだ夕方の下でお互いを焼き尽くした。他人の視線を感じても、忍び去る足音に気付いても、従順が創り出した聖域は、埋没を妨げなかった。そこに、本能が零れ落ちたから。

「今日も、お土産持って帰る?」

 の間中日向に干し、すっかり緋色を取り戻したブラウスを羽織りながら、彼女は言う。

「それなら二枚目は、自分で穿く用にしようかな」

 傍に落ちていた彼女の新しい下穿きを拾い、両脚を通す。

「あら。じゃあ一枚目は何に使ってるの?」

「オナニー用だよ。お陰で最近オカズ探す手間省けるから、夜もぐっすり眠れる」

「……オカズとかよくわかんないけど、役に立ってるなら何よりだわ」

 同じく近くに落ちていた僕のものを拾い、彼女に投げる。

「文子さんはそれ、何に使うの?」

「うーん……、夫の横じゃオナニーなんてできないし……」

 地面に落ちる前に掴み取った彼女は、洗濯物を干すように下穿きを空中に掲げた。

「じゃあさ、旦那のやつの中にそれ、混ぜてよ」

 それを聞いた彼女は、一瞬眉間にしわを寄せ、それから反動のように顔を綻ばせた。

「……それ、最高ね」

 そうして下穿きを顔面に押し付け、布地の匂いをたしなんだ。

「また、毎日の楽しみが増えたわ」

 下穿きを顔から離すと、空間の少ない胸元に仕舞い、残りの身支度を整える。

「結局、その格好で行くの?」

 自らの全身を僕の瞳を通して改めて認識した彼女は、少し恥ずかしげに裾を摘みながら、背骨に筋を通す。

「ええ。だって、その方が楽しいじゃない」

 裾から指を離し、頭の後ろに移し替え、乱れた髪を一つに纏める。いつの間にか、垣間見えた恥じらいは産毛と共に埋もれていった。

「じゃあね。また来週、……楽しみにしてる」

 僕の横を通り抜け、彼女は去っていく。宴のあとの爪でも突き破れそうな薄い生地の深紅色が覆う背中からは、白妙の肩甲骨がはみ出ていた。

 だいぶ気温が落ちてきた。硬いコンクリートの地面には、僕たちが残した水滴が所々に点在している。一つに人差し指を置くと、食い込んだ小石から白濁がせきを切る。舌に乗せると、ひとえあぶくは歯牙の隙間に流れ出て、次にあの茜色の血を浴びるまで、一切の味覚を奪う。やがて神経の作用に乗り、目に届き、耳を伝い、鼻を経由して、全身の肌に号令を与える。また、理性が絶頂に掻き消されるまで、僕の感性は臥床にひざまずく。

「……隆也くん」

 声が聞こえた、ような気がした。制服姿の花音がそこにいる、ような気がした。

「やっと、終わったんだね」

 その娘のスカートの下には、黄濁の水溜りができている。

「何か用か?」

 僕が声をかけると、手に持っていたスクールバッグが水溜りに落ちた。それを拾おうとするも、枝のように細い手はバッグの持ち手を上手く掴めない。

「一緒に、帰ろうと思って、バイト終わるの、待ってたんだ」

 遂に、バッグを拾うことを諦めた。それから僕に背を向け、その場から立ち去ろうとする。

「そうか。待たせて悪かったな」

 その娘に近付きバッグを拾おうとすると、たちまちこちらを向き直り、僕の手を強く叩いた。

「どうしてそんなことが言えるの!?」

 だがすぐに、僕の胴体にしがみついてきた。

「私だってあんな顔、してみたかったんだよ……? 隆也くんに、させてほしかったんだよ……!?」

 せっかく乾いたTシャツが、その娘の涙で台無しになる。あまりにも強い握力に、皮膚ごと千切られそうになる。

「……ごめん。全部、私が悪いのに……、隆也くんは、そうするべきだったからそうしただけなのに……」

 握り潰すような強い力は、包み込むような抱擁に換わった。

 そのときに漸く、この女の子が花音だと確信が持てた。

「だけどせめて、私からのお土産も、持って帰って」

 僕の身体から手を放すと、自らのスカートの中に突っ込み、下穿きを一息に剥いだ。そのまま花音の右手から僕の左手へ、生温かく湿った下穿きが渡る。

「また、明日ね」

 去っていく花音の背中に重ねて、手に持った下穿きを掲げてみた。手に付いた花音の生き様を、舌先に乗せてみた。

 しかし、味はしなかった。掌からもいつの間にか、温もりが溶け落ちていた。その一方で股間では、沈まぬ太陽が血流を促進している。

 それを意識した瞬間、左手に持つ花音の下穿きは、女子高生の尿が染み付いた汚らしい布切れでしかなかった。僕はその布切れを、道端に捨てるしか選択肢はなかった。

 なぜならそれは、有用で、便益で、何もかもが目に見えるこの素晴らしき世界の智慧ちえに深く根付いた、常識の価値観に違いないのだから。

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