ハシメ

おんたけ

Episode.1 信じる目

第1話

 俺は、あんなに寂しそうな顔をするお前が許せなかった。


 お前にそんな顔をさせる世界が、許せなかった。


 だから、俺はお前を––––。



◆◇◆◇



 そこは、とても落ち着いた雰囲気の町だった。


 周りが小高い山に囲まれた盆地で、目まぐるしく風の流れが変わるのが特徴的な、都会というよりはどちらかというと田舎よりな町。


 親しげな様子で談笑に勤しむ町の住人たちの纏う空気は、どこか柔らかい。


 春の風が鼻先を掠めていくと、この町で生活する人たちの、生きてる匂いみたいなものが運ばれてくるような感じがして心地よい。


 住みやすそうだな、と鶴羽は率直な感想を抱いた。


 鶴羽は暫くこの町に滞在し、演奏会を開くつもりだった。


 大勢の人に音色を届けるには些か小さな町な気もするが、鶴羽の狙いはそこにはなかった。


 ヴァイオリンを手に取ると、思い出すのだ。


 かつての自分を。


 ハシメに憧れて、輝きに魅せられたあの日の自分を。

 

 だから、輝きたいと強く願う人に。輝いてほしいと強く願う人に。


 鶴羽は、その音を届けたかった。


 演奏会にはまだ日がある。


 せっかくだし、ホテルにチェックインしたら街を少し見て回ろうかな、と思い鶴羽が大通りを歩き出すと、

 

「なんだいあんた!! あたしから何を盗ったんだい!?」


 耳をつんざくような、金切り声だった。


 見ると、白く色の抜けた髪を無造作に伸ばした老婆が、鶴羽をギッと睨みつけていた。


「え? 何もとってないっすよ」


 別に、肩がぶつかったとかではない。ただ、老婆の横を通り過ぎようとしていただけなのだ。


「そんなわけがあるか! ほら! あたしの財布が無いじゃないか!!」


「いや、そう言われても。そもそも、婆さんには指一本触れてないだろ? そんなんでどうやって物を盗るんだよ?」


 真っ当な正論を伝えたところで、老婆の怒りは収まらない。


 そんなわけがない、お前が怪しいという旨の言葉を立て続けに吐く。


 しまいには、周りの人にも聞こえるような大声で鶴羽を泥棒呼ばわりする始末だ。


 これでは埒があかない。恐らく何かを勘違いしているか、思い込みが激しいのだろう。

 

 でなければおかしいのだ。ただ歩いていただけで泥棒の因縁をつけられてはたまったものじゃない。


「なぁ婆さん、そもそも財布は今日持ち歩いてたのか? ちょっと冷静になって––––」


「なんだい!? 私を疑うっていうのかい!? 何の根拠があってそんなことをするんだい!? こんな老婆に疑いをかけて楽しんでるんじゃないだろうね!? やっぱりあんたが盗んだんだろう!! さっさと白状しな!!」


 人を疑って楽しんでいるのはどちらだろうか。


 そう思い老婆に目をやるが、不思議と老婆が楽しんでいるようには見えない。


 そうなると、尚のこと何が目的か分からず解決から遠ざかる。


 とにかく、この場を収めないことにはそれが分かったところでどうしようもない。


 どうしたものかと鶴羽が思案していた時。


「まーたハル婆か。あんまり大声出すんじゃないよ。疲れるだろ?」


 一人の男性が、どこか気の抜けたような声をあげた。

 口ぶりからして、この老婆を知っているのだろうか。


 もしかしたら、余計に事態がややこしくなるかもしれない。

 下手したら、このまま犯人に仕立て上げられるなんてこともあるんじゃないか。


 そんな考えが頭を巡り、鶴羽は億劫になる。

 

 しかし、彼の纏う水色の制服と、頭に被った帽子の金色に煌めく帽章は、その身分をはっきりと証明していた。


「もしかして、ポリこ––––お巡りさん?」


「まぁね。あんた、この辺の人じゃないだろ? 悪いね。せっかく来てもらったのに、めんどくさいのに絡まれて」


 いえいえ、と手を振る。ハル婆はなんだいなんだい、と頭を強く振っている。


「あぁ、ほら、そんなに頭振ると気持ち悪くなるよ」


 お巡りさんが言うが早いか、ハル婆は頭を抱えて蹲り出した。


「ほら言わんこっちゃない。さ、交番行くよ。あ、そこのあんたもついてきてくれるかな? 多分ハル婆のいつものだと思うけど、一応業務上確認しないといけないこともあるから」


 呆れたように息を吐くお巡りさんは、なにやら訳知り顔だ。


「いいっすよ」


 二つ返事でオーケーし、お巡りさんに連れ立つようにすぐ近くの交番へと向かった。



◆◇◆◇



「––––っと、こんなもんかな。ご苦労さん。悪いね、長い時間拘束しちゃって」


 そう言ってお巡りさんは書類から目を離し、ペンを置く。

 お巡りさんはこう言っているが、実際は移動時間含めて30分もかかっていないのだ。


 この街の人は、一部例外を除いて優しい人が多いのかもしれない、なんて思う。

 まだ二人としか話していないが。なんとなく、この町の雰囲気からそう感じたのだ。


 鶴羽が気にしなくていいと手を振る中、ハル婆はむすっとした顔で出されたお茶を啜っていた。


 ハル婆にもおもてなしの精神を向けられるところが、このお巡りさんは本当に優しいと思う。


「ほら、ハル婆も謝って」


「ふん、なんだってあたしがこんな小娘に頭を下げなきゃならないんだい」


 お巡りさんは小さく息を吐き、


「申し訳ないね。ハル婆も大した気持ちではやってないと思うから、変な婆さんもいたもんだと思い出話にしてくれると助かるかな」


 その言葉にハル婆は余計にいきりたつ。お巡りさんももう気にはしていないが。


 取り調べで聞いたことだが、ハル婆というのは地元では有名な偏屈婆さんらしい。


 こんな風に通りすがりの人に難癖をつけては、何の根拠もなく人を疑うらしい。


 結局、持っていたのは家の鍵と、やたら古びた包装紙だけだった。

 感触からして、包まれているのは布製の何かだろう。

 何のためにそんなものを持ち歩いているのかは分からないが、言いがかりの信憑性を高める目的とかがあったりするのだろうか。


 とにかく、財布なんて元から持っていなかったのだ。


 別にボケてるとかではないから心配しないでくれ、と言われた。

 いや、はっきりとした意識でこれをやっている方が心配だ、という言葉は一生懸命飲み込んだ。


「しかし、なんだってこんなことをするんだ? 婆さん?」


「……ふん、あんたには関係ないだろう」


「別に、人を疑うのが趣味ってわけじゃないだろ? 楽しそうには見えなかったし。何か理由があるなら––––」


「しつこいよ!! あんたには関係ないと言っただろう!!」


 ハル婆が力強く机を叩き、まだ残っていたお茶が茶碗ごと床に落ちる。


 パリーンッ! という鋭い音が鳴り、お巡りさんが「あ〜あ〜。全くハル婆は……」と口にしながら箒とちりとりを持ってくる。


 明確な拒絶の意思だった。


 さっきまでのハル婆が見せなかった、ハル婆の強い気持ちのようなものを感じた。


 その瞬間、鶴羽の中にある思いが芽生えた。


「……なぁ、婆さん。いや、ハル婆」


 憤るハル婆の元に、鶴羽は一枚の封筒を手渡した。

 薄いクリーム色に、音符のイラストがうっすらと浮かんだ、少し上品な印象を受ける封筒。


「なんだい、これは?」


「演奏会の招待券。次の土曜日、この町のアリーナでやるんだよ」


 ハル婆は渡された封筒をまじまじと見ると、


「ふん。あたしには必要ないもんだね」


 興味がなくなったかのように机の上に放り投げた。


「私が演奏するんだ。ハル婆には聞いてほしいと思ってさ」


 その言葉に反応したのは、ハル婆ではなくお巡りさんだった。


「演奏会……もしかして、ヴァイオリンの?」


 鶴羽が小さく頷くと、


「やっぱり! 名前を聞いた時、もしかしてと思ったけど……あんた、プロヴァイオリニストの望月もちつき鶴羽さんか!」


 恐らく取り調べの時には気づいていたはずだが、深く追及して来なかったのはこのお巡りさんの配慮だろう。


「ハル婆、せっかくだから行ってきなよ。ヴァイオリニストの望月さんなんて、音楽知らない俺でも知ってるくらい有名な人だよ。こんな機会、ハル婆が生きてるうちにはもう来ないよ」


 お巡りさんの言葉にハル婆は「あたしは、お前さんが思ってる何倍も長生きするんだよ!!」と声を荒げる。


 その後もハル婆は、頑なに演奏会には行かないと言うことを主張する。


 しかし、それではダメなのだ。


 ハル婆には……ハル婆にこそ、鶴羽はあのを聴かせたかった。


「ハル婆、頼む」


 突然頭を下げ出した鶴羽に、ハル婆は僅かに戸惑う素振りを見せた。


「なんだい、急に……。そんなことされても、あたしは行かないからね」


「私は、輝きの音色を届けたくて、各地を回ってるんだ。ハル婆には……輝いてほしいって思ってる。変わって欲しいと思ってる。だから……頼む」


「……ふん。音如きで何が変わるっていうんだい。……何も変わんないよ。私の気持ちも、あの人の気持ちもね」


 その声は、さっきまでの威勢のいいハル婆の声ではなかった。

 不安と後悔の混じったような、幼さの残った少女の声……少なくとも鶴羽には、そう聞こえた。

 






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