54.エルのハンカチとユーリの出陣
白いレースのカーテンから、淡い朝の陽ざしが差し込んでくる。鳥達の楽し気な
彼女は白い天幕付きのベッドで眠っている。その傍らには椅子に座って見守る白い軍服姿の夫・ユーリと、木製のベビーベッドで転寝をする愛息・エルの姿があった。
「ご出発前に見ていただきたいものがあるのです」
「何でしょう?」
「そちらのチェストの、一番上の引き出しを開けてみて」
ユーリは嬉々とした様子のエレノアを微笑まし気に見つめつつ、猫足の白いチェストの引き出しを開けた。
中には木製のバラの絵付けをされたプレートが。その中央には一枚のハンカチが置かれていた。
真っ白なリネンで織られたハンカチの右端には、クリーム色の糸で『L』と。その横にはハルジオンの花の刺繍が施されていた。
「Lってことは……コイツの?」
「妬かないで」
「別に? 妬いてませんけど?」
ユーリはわざとっぽく唇をすぼませた。エレノアにはそれが何だかおかしくて吹き出すようにして笑う。
「こちらもアンナさんと?」
「ええ。懇切丁寧に教えてもらいました。ね?」
栗色の髪に、黒い猫目が印象的な少女メイド・アンナがこくこくと頷いて返す。よくよく見てみると、彼女は唇を固く引き結んで頬に力を込めていた。
ああでもしないと抑えていられないのだろう。涙を。エレノアを想う心を。
「エルのハンカチにも、ハルジオンの花が入っているんですね」
「一輪だけね。妊娠中にそれなりに修練を積んだつもりでいたんだけれど……ふふっ、やっぱりアンナのようにはいかないわね。ガタガタな上にグラデーションもなく、酷く単調な仕上がりです」
エレノアは枕の下から一枚のハンカチを取り出した。アンナに作ってもらったブライダルハンカチだ。
真っ白なリネンで織られたそのハンカチの端には、クリーム色の糸で『Y』と刺繍され、その周囲はハルジオンの花で囲われている。
バランスが整っているのは勿論のこと、緻密に糸を使い分けることで葉から花、文字に至るまで瑞々しい仕上がりになっている。元プロの名に恥じない素晴らしい出来栄えだ。
「アンナさんが作ったものは当然として、貴方のもそう悪くはないですよ」
「あら? どんなところが?」
「そうですね……一生懸命さが伝わるところ、とかですかね?」
「エルもそう思ってくれると良いのだけれど」
「俺が認めませんよ。肯定以外の感想なんて」
「まぁ? ふふふっ」
「分かったな、エル。肝に銘じておけよ?」
ユーリは転寝をするエルの胸元にハンカチを置いた。無論エルが意図を理解出来るはずもなくきょとんとしている。
「エル。チェストの上に鉢があるでしょう。そこにはね、その刺繍のお花が植わっているのよ。お父様がわたくしにくださったお花の子供の……そのまた子供の種が」
「咲くのは春だから……半年、いや4~5か月後ぐらいですね」
「楽しみね。一緒に見れると良いのだけれど」
――難しいかもしれない。
そう思いながらも、ユーリもアンナも、他の従者達も口にすることはなかった。叶うことなら共に見たい。その願いもまた同じであったから。
「そろそろ行きます」
「気を付けて。ご武運をお祈りしています」
ユーリは静かに頷くと、横で眠るエルの頬をぷにっと押した。
「俺が留守の間、母様のことはお前に任せたからな」
「うヴッ!」
「おう。いい返事だ」
ユーリは歯を出して笑うと、そのままエルの頬にキスを。流れるようにエレノアの唇にキスを落とした。
「それじゃ」
「ええ」
「…………」
去り際、ユーリは何か言いたげな様子で振り返ったが、結局何も言わずに部屋を後にした。
(名残惜しかったのね。わたくしも同じ思いですよ、ユーリ)
深く息をついて、白い天幕で覆われた天井を見上げる。
ユーリが向かったのは『古代樹の森』だ。報告によると大型の魔物が出現したらしい。先代魔王との関連は今のところ不明とのことだった。
「何でまた……よりにもよってユーリ様に……」
堪らずと言った具合にエレノアの直属メイド・アンナが零した。エレノアは微苦笑を浮かべつつ首を左右に振る。
「仕方がないわ。今戦場に立てる『勇者』はユーリだけなんですもの」
フォーサイス家の当主・ハーヴィーは高齢であることに加え、過去の戦闘で右腕と左脚を欠損しているため戦線には加われない。
エレノアの元婚約者であるリリェバリ家の嫡男・クリストフは、体調不良を理由に休職中となっていた。
「ハーヴィー様はともかく、クリストフ様はその……
「言葉が過ぎますよ、アンナ」
「……申し訳ございません」
クリストフもきっと、現国王やユーリと同じ夢を見ている。身分の垣根を越えて助け合い、共に魔物を根絶する未来を。
けれど、彼の境遇がそれを赦さない。彼は先王派の筆頭であるのだ。
彼が現国王派に加われば、露頭に迷う者が出てくる。考えを改められず、時代に取り残される者が出てくるのだ。
それが分かっているからこそ動くことが出来ない。
(貴方様もまた、どうしようもない程にお優しいのですよね)
エレノアには、クリストフを深く傷付けた過去がある。彼の孤独を理解することが出来ず、一層の孤独と絶望を与えてしまった。
故に力になりたいと強く思っているのだが、何の行動も起こせないまま残す寿命は半年を切ってしまった。
(ユーリに任せる他ないのかしら……)
「お嬢様、私からも一つよろしいでしょうか?」
年配のメイド・サリーが問いかけてきた。元は当主婦人である母の専属メイド。母からの信頼も厚く、現在はエレノアの専属メイド達のまとめ役を務めている。
やや寡黙で淡々と仕事をこなすタイプであるため、彼女の方から話しを振ってくるのは少々珍しいことだった。
(何のお話かしら……?)
エレノアは緊張しつつも先を促す。
「治癒術師・ミラ様の代わりにパーティーに加わる方々の力量は、いかほどのものなのでございましょうか?」
「えっ!? ミラ様、ご一緒じゃないんですか!?」
「つい先日妊娠していることが分かってね」
「おっ、おめでた!」
「ええ、でも初産なのもあってか
「そっ、それは仕方ないですね。母体とお子様優先なのは当然ですし! でも……」
「大丈夫よ。ユーリの話しでは、王国の指折りの治癒術師達が参加するとのことだから」
具体的に名前をあげてもらったが、いずれもエレノアには覚えがなかった。その事実だけでも、自身のいない10年の間に、競争と言う名の進歩が凄まじい勢いで展開されたのであろうことが窺い知れた。
(ミラ、貴方はその中でも見事勝ち上がり、最前線に立ち続けていたのね。サリーやアンナの反応を見ても、貴方への絶大なる信頼が見て取れる。一時でも貴方の師を務めていたなんて……。誇らしいけれど、ここまでくると萎縮してしまうわね)
「指折りの治癒術師……なら、大丈夫……ですかね?」
「祈りましょう。皆の無事を祈っ――」
言葉が続かなくなった。視界が揺らぎ酷い眠気に襲われる。これは発作だ。命の灯が揺らぐ時に起こるもの。終わりが近いのだと耳元で囁いてくる。
(まったく……余計なお世話、ね)
「エレノア様!?」
「お嬢様!?」
アンナを始めとした使用人達が駆け寄って来る。エレノアは軽く手を持ち上げ笑顔を見せることで、皆が安心出来るよう努めた。
「エレノア様、ハンカチもっともっといっぱい作りましょう。一枚と言わず二枚、三枚。……っ、お花も見ましょう。絶対に、見ま……っ」
アンナが言葉を詰まらせた。見れば大粒の涙を流している。
「わたくしは果報者ね」
「そんな。……っ、すみません。お辛いのはエレノア様の方なのに」
「いらっしゃい、アンナ」
エレノアは力なく笑いながら両手を広げる。それを見たアンナはぶるぶると勢いよく首を左右に振った。
「めっ、滅相もございません」
「お願い、抱き締めさせて」
――不安なの。
言葉には出さず目で訴えた。アンナは意図を汲んでか、年配のメイドに促されてかエレノアの胸に顔を埋める。
「ありがとう」
「っ、エレノア様……っ」
エレノアはアンナが泣き止むまで抱き締め続けた。次はどんなデザインのハンカチを作ろうか。半ば独り言のように語りかけながら。
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