第75話 永遠の悪夢(※sideジェラルド)

 頭が重い。ここは一体どこだ…?


 起きているのか夢の中なのかさえ定かではない。視界がグラグラと揺れているから、目を開けているのだとは思う。ひどく喉が渇く。誰か…、…誰を呼ぼうか…。


 誰か来てくれ…


「…カイル…。…いるか?……ザーディン」


 ………………。


 返事はない。


「おい、誰か…。……マデリーン……?」


 必死で目を開いてみるが、視界にはあらゆる色が混じり合い、混沌と蠢き揺れ続けている。…困った。自分が今横になっているのか、起き上がっているのかさえ分からない。


「……ァ……、…アリア…」


 ようやくその名に辿り着いた途端、不思議な安心感に包まれる。そうだ、アリア。俺の妻。美しく賢く、ひたむきに俺を支えてくれる、誰よりも頼りになるたった一人の妻。


「…悪かったな、今まで。苦労をさせてしまった。俺はどうかしていたんだ」


 そう言葉を紡いで大切な妻に詫びたいのに、声にならない。喋ろうとするたび、まるで野生の獣が低く唸っているような不気味な音しか発せられない。だけど、それでもやはり謝らなければ。…アリアは、近くにいるのだろうか。姿は見えない。ただ極彩色の、そして時折急に色を失う、景色とも呼べない奇妙な風景が目の前でうねうねと回っているだけだ。


「今更言い訳したところで許してはもらえないかもしれないが…。お前を得たことで、俺は浮かれていたんだ。初めて自分の望みが叶った」


 何故だか今日はやけに自分の気持ちと素直に向き合えている気がする。アリアに全てを打ち明け、ゆるしをいたかった。アリアなら、ただ黙って俺の話を聞いて全てを受け入れてくれる気がした。


「…元々俺は、大国の王なんて器じゃなかったんだろう。父上や母上の期待に応えるだけの能力が自分にはないのではないかと、昔から薄々気付いていたんだ。誰にも弱みを見せることなどできなかったが…、内心はいつも不安だった。正直な、信頼しきって俺に過度な期待を寄せずに、もうニ、三人男子をもうけてくれたらいいのにと思ったことも何度もあったよ。そうすれば俺にも逃げ道ができただろう?」


 アリアの返事はない。自分の口から漏れる音も言葉にならない唸り声でしかないのだが、何故かアリアはすぐそばにいて、彼女なら全てを分かってくれる気がした。俺は語り続けた。

 

「お前と結婚して、何もかもが突然上手く回りはじめた気がしたんだ。お前は従順で美しく、愛らしい。その上とても優秀だった。…安心したんだ。父上に従わなくとも、自分で選んだ道でも、俺は失敗しなかった。コーデリアではなくアリアを選んだ俺の決断は何も間違ってなかった。思うがままに行動しても、俺は上手くやれるのだと」


 この上なく美しいアリアの顔が、脳裏にチラチラと浮かぶ。夢かうつつか定かではない中でそのピンクブロンドの艷やかな髪をそっと撫でると、アリアは静かに微笑んだ。


「それから一気にたがが外れた。お前に感謝し、お前のことだけをずっと大切にしていればよかったものを…。何故その幸せな日々を退屈だなどと思ってしまったのか。…すまなかったな、アリア。寂しい思いをさせた。…辛かったろう?」


 アリアはやはり何も言わない。ただ悲しげにそのアメジストの瞳をそっと伏せる。


「…もう二度と、お前を裏切らないと誓う。これからは俺が、死にもの狂いで働くから。どうにかこの国を、以前の活気溢れる幸福な国に立て直してみせる。…だから俺を…、支えてくれるか?アリア。お前の知恵と愛で。これからもずっと、俺を支えてくれるか?」


 期待を込めておそるおそるそう尋ねると、アリアはゆっくりと顔を上げ、俺を見つめながら優しく微笑んだ。…ああ、よかった…。やはりアリアだ。俺を見捨てずにいてくれた。

 悪夢はもう終わりだ。今度こそ二人、手を取り合ってこの国を…………




 その時だった。




「……うわぁっ!!……ゲホッ、…ガハッ……!」


 冷たい水が体全体に打ち付けるように襲いかかり、俺は何の準備もなく突然大量の水を飲み込んでしまった。衝撃に驚き、息ができない。あらぬところに入ってしまった水のせいで激しく咳き込みながら、俺は必死で酸素を求めた。その苦しみに、一気に意識が覚醒する。


「────いい加減に目を覚ませ、愚王よ」

「…………は……っ?!」


 聞き慣れぬ声に心臓が大きく脈打ち、俺は反射的に顔を上げた。そして氷のような冷たい眼差しで俺を見下ろす男と目が合い、思考が停止した。


「……お、お前……、…ルゼリエ、王太子…?」


 どういうことだ?

 何が起こっている?


 俺は慌てて体を起こしながら周囲を素早く見渡す。ここは王宮の俺の部屋で、俺はどうやら床に這いつくばったまま眠っていたらしい。そして目の前にはアリアの実兄であるカナルヴァーラ王国のルゼリエ王太子と、その横に大きな空のバケツを持った武装した男。…どうやらこの男に大量の水をかけられたらしい。そして…彼らの後ろには同じように武装した兵士たちが大勢いる。だが、それは我が国の兵士の隊服ではない…。


「……っ!!き、貴殿は…、」


 他にも見覚えのある顔を見つけ、ひっくり返った声が出た。その人物は冷めた嘲笑を顔を張り付けたまま、俺に言葉を返した。


「おや、私の顔を覚えておいででしたか。それはよかった。もう完全に脳が溶けてしまっているのかと思いましたよ。…ええ、ご無沙汰しておりますジェラルド国王陛下。ファルレーヌ王国の第一王子、ユリシーズでございます。…随分とまぁ、変わってしまわれましたね、陛下。路上の物乞いのような出で立ちではありませんか」


 柔和な声色の奥に、恐ろしいほどの嘲りと怒りが感じられる。数十人にも上る武装兵たちが俺に向かって一斉に剣を構えている。


 何だ、一体…。どうなってるんだ…?!


(だ、誰か……)


 部屋の中を必死で見回してみても、俺の味方となる人間が誰一人いない。我知らず荒い呼吸を繰り返しながら、酒のせいでいまだ朦朧とする頭をがむしゃらに回転させる。カイル……、ザーディン……、誰もいないのか……?!


 アリア……!


「ラドレイヴン王国国王、ジェラルド・ラドレイヴンよ。貴様は即位以来数え切れぬほどの愚行を重ねてきた。大国の君主という大いなる責任を放り出し、酒と贅と女に溺れ、ついには我欲のために国民たちの生活を犠牲にした」

「……ぁ、あぁ……」


 ルゼリエ王太子は地を這うように低く、それでいてよく通る声で淡々とそう語りながら、射殺すような鋭利な視線で俺を頭上からめつける。その迫力に気持ちが完全に萎縮してしまい、俺の全身は小刻みに震え出した。


「ルッ……、ルゼリエ……」

「この国の民の多くが我らが治める周辺国へと逃れてきた。しかしそれはまだ金に多少のゆとりのある者たちがほとんどだ。…移動手段など持たぬ、日々の命を繋ぐのに必死な下々の者たちは、ただその日の労働を繰り返しながら課せられた重税に苦しみ、喘ぎ、…そして食うに困り命を落とす者たちまで出はじめた。…あれほど裕福で栄華を極めていたラドレイヴン王国が、今ではもう見る影もない。ここは国王だけが贅を貪り、そのために民たちが踏みつけられのたうち回る暴政の国へと成り下がったのだ。…これ以上、見過ごすことはできぬ」

「ひ……」


 これは…、現実なのか。俺はいまだ悪夢の最中にいるのではないか。

 自分の身に、これから何が起きるのか。考えるのが恐ろしくてならない。頼む…。どうか、俺を許してくれ……!


 しかし必死の願いも虚しく、ルゼリエ王太子の口から無情な言葉が紡がれた。


「ジェラルド・ラドレイヴンよ、我々カナルヴァーラ、ファルレーヌ連合国軍はすでにこの王宮を制圧した。貴様の王権を剥奪し、離宮の地下に幽閉する」

「ひ…………!」


 わずかな迷いさえ感じられないその力強い言葉は、死神からの宣告のようだった。





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