第69話 カイル様の協力
「……大丈夫なの?アドラム公爵令息…」
「ご心配には及びません。蚊に刺されたのを叩いただけですから。それより、こちらが今現在王宮に残っている臣下や使用人らのリストになります」
「あ、ありがとう」
左の頬に紫色のあざをこしらえ唇の端に痛々しい傷を作ったカイル様は、いつも通りの淡々とした表情で私に書類を渡してくれた。協力してくれるのはとても助かるけれど、一体何があったのだろう。端正なお顔が痛々しいことになってしまっている。
「…陛下のご様子は?相変わらず?」
「はぁ。最後にお会いした時は相変わらずのご様子でしたね。側近をクビになったので、もう数日お部屋には伺っておりませんが」
「…えっ?そうなの?…あなたまで…?」
呆れて言葉も出ない。気に入らない進言をした者たちを次々と解雇したり処罰を与え、挙げ句の果てに長年自分の支えになってくれていたであろうカイル様まで切り捨ててしまうだなんて。
「ご心配なく。幸いにもすでに陛下はまともな思考力を失っておいでです。私が側近をクビになってもこの王宮に留まって仕事をしていることなど気付いてもいないでしょうから。堂々と歩いていても諌められることもありませんよ」
「…そう」
私がプレストン辺境伯のところへ出向き戻ってきた頃から、カイル様は何かと私に協力してくれるようになった。ある日突然「何かお手伝いすることはございますか?」と、さも当然のように言ってきたかと思えば、これまで王宮内で様々な不正を働いてきた者たちの洗い出しから、残っている家臣たちの動きなど、私が頼めば逐一報告してくれるようになった。何か大きな心境の変化でもあったのだろうか。こちらとしては、すごくありがたいけれど。
「…王太后様のご様子はいかがでしたか?」
「ええ…。何だかこの期に及んで、我関せずといった雰囲気だったわ。…以前からあんな感じのお方?」
「どうでしょうか。俺が目にする王太后様はあくまで王妃陛下としての仮面を被った方でしかなかったので。あのお方の本心や人間性を熟知しているわけではございませんが…。まぁ、あまり内政に興味がないのが透けて見えることはあったように思いますね」
カイル様はつまらなさそうな顔でそう答えた。
先日私は王太后様を訪ねて、南の離宮まで行ってきたのだ。悪くなる一方の状況を改善するために何かご助力願えないかと考えたのだ。実母である王太后様からの叱責があれば、ジェラルド様ももしかして己の振る舞いを改めるのではないかと思った。
だけどこの大国に嫁いできて以来久方ぶりにお目にかかった王太后様は、この国の現状を憂いている様子もなく、私の訴えを聞いてもどこか他人事のような、面倒そうな表情を隠しきれていなかった。
『大変ね。あなたには謝っても謝りきれないわ。陛下は一体どこで道を間違ってしまったのかしら。子どもの頃から本当に聡明で素直ないい子だったのに…。あの子がね、あまりにも賢く出来が良かったものだから、私も息子は一人で充分だと思ったのよ。でもこんなことになるのなら、もう一人くらい息子を産んでおくべきだったわねぇ…』
紅茶を優雅に口に運びながら、のんびりとした口調でそんなことを言う王太后様からは焦りや緊迫した感情など一切感じられなかった。まるでよその国のことついて世間話でもしているかのよう。もう自分には関係ない、そう思っているのがありありと分かった。王宮まで出向いてきてジェラルド様に会おうという意志などまるでないらしい。
(あのお方は頼みの綱にはなってくれそうもないわね…。……ん?)
思い出してため息をつきながら何気なく部屋の片隅に立っているエルドを見ると、彼は突き刺すような鋭い視線でカイル様を見据えていた。
(……?どうしたのかしら?)
何か気になるのかしら。…それとも、カイル様のことが嫌い、とか…?
最近は毎日のようにこの離宮に顔を出して私のために動いてくれているカイル様だけど、エルドには何か思うところがあるのかもしれない。でも、だからといってカイル様を追い出すわけにはいかない。味方もまともな人材も少ない今、私にとってカイル様は頼りにできる数少ない大切な存在だ。
それに私の直感が、この人を信じても大丈夫だと告げていた。
「お父上の…、アドラム公爵の動きはどう?」
「表向きは変わらず執務をこなしているだけのように見えます。が、側妃の存在を心底疎んでいるので今後何か動きを見せることは間違いないでしょうね。絶縁宣言をしてしまったので私に直接何か言ってくることはなくなりましたが…。悪手でしたね。申し訳ありません」
「いいのよ。あなたにも事情はあるわよね」
これまでの宰相の企みについてはカイル様から全て聞いた。そしてその時にカイル様がこれまで担ってきた役割りについても告白された。彼は私に真摯に謝罪してくれたし、今さら恨み言を言うつもりもない。ジェラルド様さえしっかりしていれば、市井でふしだらな遊びに耽ることも、マデリーン妃の誘惑に引っかかることもなかったはずなのだから。
あの人には国王としての器がなかった。それだけのことだ。
そしてもうすぐ、罰は与えられる。
「では、私は王宮へ戻ります」
「ええ。ありがとう。気を付けてね」
部屋を出て行くカイル様の後ろ姿を見送りながら、彼の立場についてぼんやりと考えた。アドラム公爵家の嫡男。幼い頃から自分の心が望まぬ行動を強制され続け、密かに想いを寄せる人の苦しむ姿を間近で見てきた人。
(…彼もずっと、辛い人生だったんだろうな…)
そんなカイル様が自分の心を解放した今、私に力を貸そうとしてくれている。その気持ちに応えたい。
(……。あれ?)
カイル様が出て行った扉をぼーっと眺めてしまっていた私がふと我に返ると、エルドがなぜだか悲しげな表情でこちらを見ていることに気付いた。
「……?エルド?どうかしたの?」
「……いえ。すみません、何もありません。」
(……??)
何もない顔ではないけれど。
「アドラム公爵令息のこと、気になる?私は彼のことは信頼しても大丈夫だと思っているけれど…」
めずらしく沈んだ様子のエルドのことが気にかかり、私からカイル様の話題を振ってみた。
だけど。
「決してそういうことではありません。…俺の心があまりにも未熟なだけです。どうぞ、お気になさらず。…俺も、アドラム公爵令息は誠実にアリア様に尽くしてくれると考えています」
「……そう…」
うーん……。何だろう。やっぱりエルドの様子が変。
だけどあまり追求してほしくなさそうなのも伝わってくる。そのタイミングでリネットがお茶を運んできてくれたのもあり、ひとまず私はそれ以上問い詰めるのを止めたのだった。
(…エルドやファウラー騎士団長、それに他の護衛騎士たちの今後のことも…、ちゃんと考えてあげなきゃ…)
彼を私のそばから手放すことを考えると、激しく胸が痛む。
だけどエルドにも、私をここまでずっと支えてきてくれた護衛騎士の皆にも、明るい未来を用意してあげたい。今後ひどい混乱に陥るであろうこの国が、どれほどの無秩序や困窮に苦しむことになるか分からないのだから。それよりは、彼らをより安全で暮らしやすい場所に……
そう思うことで、私は震える自分の心に鞭を打っていた。
そんな中、事件は突然起こった。
何の前触れもなく、事態は急変したのだった。
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