サイベリアン王国での生活開始(3)
「こちらでございます」
ソマリがベッドの傍らに置いていたバスケットに被せた布をそっと取ると。
バスケットの中でとぐろを巻き、すっぽりと身を収めている愛らしいチャトランの姿が露になった。
それまで眠っていたようだが、布がはぎ取られて視界が明るくなったことで目が覚めたのだろう。チャトランは薄眼を開けて寝返りを打ち、かわいらしいお腹を露にしながら手足伸ばした。
(猫開きだわ! あー! なんてかわいいのっ)
お腹を出しながら手足をこれでもかというほど伸ばす猫の体制を、ソマリは勝手に猫開きと名付けていた。
普段のソマリなら「チャトラン~! 今日もかわいい最高にかわいい! 世界一かわいいわあ~」なんて叫んでしまう場面だが、さすがにスクーカムの手前では慎んだ。
そして、そのスクーカムはというと。
「はうっ……。こ、これはっ。なんてすさまじい破壊力だっ……。まずい、心臓がもたないかもしれぬ……」
なんとバスケットの前で膝から崩れ落ち、何か不穏な言葉を発していた。胸を押さえるその仕草は、辛そうにすら見える。
「スクーカム様……? あの、大丈夫ですか?」
きっと猫を目にしても冷静なのだろうと思い込んでいたので、予想外のスクーカムの反応だった。
(凄腕の剣士様がこんな苦しそうにするなんて……)
こんなかわいい猫が悪魔の使いだなんて迷信に違いないと思い込んでいたソマリだったが、スクーカムの様子を見ていたら不安になってきた。
ひょっとしたら本当に猫には悪魔の力が宿っていて、スクーカムはそれに毒されてしまったのではないだろうか。
ソマリが平気なのは、偶然それに耐性があっただけで。
「……大丈夫だ。危うく失神するところだったがな」
「失神!? た、大変です! すぐに医者を……」
「いや本当に大丈夫だ! ……くっ! その仕草はっ。なんという精神攻撃だ……! ううう、頭が溶けるっ……」
大丈夫だと言いつつも、チャトランが今度は丸くなりかわいらしい前足で顔をギュッと抑える仕草をするなり、スクーカムはまた不穏な単語ばかり口にする。
「本当に大丈夫なのですか……? スクーカム様、先ほどから破壊力だの心臓が持たないだの精神攻撃だの、なんだか物騒なことばかり申されておりますが……」
「動揺してすまない。が、なんとか堪えられたので気遣いは無用だ」
「はあ……。そうですか?」
何に対して何を堪えたのかよくわからないが、そこまで言われればこれ以上心配する必要はないだろう。
するとスクーカムはソマリの方を向き、一度咳払いをしてから真剣な口調でこう言った。
「それにしても、君はなぜこの猫の姿を見て平常心で居られるのだ? 見慣れているからか? どれだけ修行を積めばその境地に辿り着けるのか……」
「えっ、なんのことです?」
まったく意味が分からず、ソマリは目をぱちくりさせた。チャトランの姿を見せてからというもの、どうもスクーカムは挙動不審だ。
「いや……なんでもない。俺はこれ以上この部屋にいるのは耐えらない。もう退室させていただく」
「はあ、構いませんが……」
さっきから一体、スクーカムは何と戦っているのだろう。やはりソマリがたまたま平気なだけで、猫は魔の存在だとか?
そんなことを考えるソマリだったが、部屋を出ると言ったにもかかわらず一向にそうしないスクーカムの様子に眉をひそめる。
彼はチャトランの方をちらちらと見ては、呼吸を荒げていた。チャトランが「にゃん」と甲高い声を上げた時には「くっ……。なんて甘美な音だ……!」などと、訳のわからないことを言っている始末。
とうとう部屋の扉の方まで歩んだかと思えば、またチャトランが入っているバスケットの方へ戻ってきたりもしていた。
(何やってるんだろう、このお方は)
「あの……。もう退室なさるのでは?」
しばらくスクーカムの様子を静観していたが、とうとう突っ込まずにはいられなくなったソマリは恐る恐るそう尋ねる。
すると彼は、鉄仮面越しに頭を抱えていかにも苦悩していそうな体勢を取った。
「そうなのだ。それは分かっているのだが……。猫から目が離せない、もっとその姿を脳裏に焼き付けたい……。しかしもはや呼吸困難寸前、俺の体力は限界に近い。だが猫から離れがたい……。なあ、ソマリよ。俺は一体どうしたらいいのだ?」
「よくわかりませんが、なんだか大変そうなので早く出ましょう」
退室を促すと、スクーカムは渋々といった様子でやっとソマリの部屋から出た。ソマリもそれに続く。
(スクーカム様は一体どうしちゃったのかしら……。猫にはやっぱり変な魔力でも宿っているの?)
そんな疑問を残しながらも、無事に正式な婚約を終えたスクーカムはサイベリアン王国へと帰って行った。
なお、王太子との結婚は婚約締結後も結婚準備や他国への根回し等が必要であるため、時間がかかるものだ。
婚約者が他国の女性だった場合、男性の国へと移住して結婚準備を行うのが普通だが、移住にもそれなりに準備が必要であるため、しばらくの間ソマリは生家で過ごすことになった。
その間、スクーカムは何度か訪れてはチャトランを見て、毎回苦しそうに胸を押さえたり「今日は一段と攻撃力が……くっ……」などと、意味不明なことを言ったりしていた。
(猫を見るのがそんなに苦痛なら無理しなくていいのに……。一体なんなんでしょう、本当に)
そんなスクーカムの姿を目にするたびに、ソマリは困惑するのだった。
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