「つまり、『幸運の手紙』全体が宛先も差出人もない手紙だったんですよ」


 夜。

 相変わらず仕事帰りの畔上は、しかしこちらに気を遣ってくれたのだろう。まだ夕日の残り火が西の空に滲む時間帯に、向こうから最見屋を訪れてくれた。


 いつもの店先、接客机。

 昼間の喧騒はどこへやら、しんと静まり返った店内で、肇は畔上に語り掛けていた。


「ええっと、ちょっと待ってくださいね。じゃあ、つまり……」

 畔上は、今言われたことを噛み砕くように、


「最初の一人が、どこの誰とも知らない誰かに感謝の気持ちか何かを伝えたくて、こんな回りくどいことをしたっていうことですか」

「ええ。きっと」


 肇がにっこりと、あの得体の知れない説得力を伴う笑顔で言うのは、こういうことだった。



 あるとき、人から親切を受けた誰かがいた。

 その誰かは、感謝を伝えたいと思った。しかしそれは通りすがりの相手だったのか、後になって直接にその人に訪ねる手段を失ってしまう。


 だから、手紙を書いた。

 瓶に詰めて海に流すように。宛先も知らない誰かにいつか届くようにと、祈りを込めて。


 その文面が――、



「この手紙を受け取れば、幸福が訪れます。だからあなたも、誰かにこの幸福を届けてあげてください。……その人は、海の流れの代わりに人を使ったんでしょう」


 櫻子の言葉を切っ掛けに、肇はそれを思い付いたのだそうだ。


「手紙が回りに回れば、いつかはその人に届くはずですから」

「最見さん。頭ごなしに否定したいわけではないんですが」


 畔上はこめかみを押さえると、


「それは、難しいんじゃないですか。現実的には」

「しかし、現実として回ってしまっているわけですからね。ひょっとしたら、最初のその人は相当な数を自分で出したのかもしれません」

「……うーん。証拠になるものが何もないと、想像としか……」

「文面を見てください」


 肇は、預かっていた『幸運の手紙』の一通を取り出す。

 その最後のあたり、何も書いていない場所を指差して、


「畔上さんも仰っていたじゃないですか。『不幸になります』という文がついていないだけ、今のは昔よりマシになっていると。でも、回すことだけが目的なら絶対にその一文を付けた方が確実なんですよ」

「つまり、最見さんが言いたいのはこうですか。その犯人は、いつかその感謝を伝えたい相手に手紙が届くことを見越して、良い言葉だけで文面を埋め尽くしたと」

「ええ」


 にこにこと、肇は笑っている。


 一方で畔上はまだまだ納得がいかないという顔で、ちらりとこちらに視線を逃がしてきた。


「春河さんは」

「っ、はい」

「どう思いますか。私としては、百歩譲ってそういう素敵な物語が背景にあったとしても、郵便受けに見知らぬ誰かが直接こんな手紙を投函するというのは、けしからんことだと思うんですが」


 来た、と櫻子は思った。


「それなんですが、」

 準備していた通りに、預かっていた封筒の全てを畔上に差し出した。


「これ、郁さんに見せてみてください。多分、それでわかると思います」

「……何がです?」

「きっとこれ、お友達が畔上さんのお宅に伺って、郵便受けに入れて行ったんだと思います」


 とうとう畔上は、驚いた素振りを見せた。


「お友達と一緒にここで宿題をやっているときに、ちょっと横から覗き見させてもらったんです。そうしたら、お預かりしている手紙と似た字を書く子がいて」

「それは……」

「郁くんが好かれているからでしょうね」


 肇が言った。


「普段はあまりこういう迷信の類は……畔上さんのご教育もあってか本人は口にしないようですが、あの喜びようでしたから。親しい友達には話していたんでしょう。それで、そんなに郁くんが喜ぶんだったらもっと送ってやろうと」

「でも、」


 畔上は封筒の一枚を手に取ると、


「どうしてわざわざ、直接郵便受けに?」

「お金がないからでしょうねえ」

「私たちからすると大した額ではないですけど、子どものお小遣いでは切手代もなかなか……。それに封筒も、うちでも売っているような格安のものですし」


 畔上が、じっと考え込み始める。

 追いうちのように、肇が言う。


「そういう子は、きっとこの一通を出したらおしまいですよ。気にすることはありません。郁くんのようにたまたま『幸運の手紙』が来た直後に良いことがあって、優しい心を持っている子なら、どこか遠くにこれを広めることもあるかもしれませんが。しかし、どうせこの文面では長くも続きません。『広めなければ不幸になる』手紙だって、年がら年中出回っているわけでもないんですから」

「……最見さんは、今」


 畔上の唇が動く。


「私に『かわいいものじゃないですか。見逃してあげましょう』という話をしようとしていますか?」

「お。見透かされてしまいましたか。仰る通りです」


 いいじゃないですか、と肇は優しく笑った。


「本当に、かわいいものですよ。ちょっと子どものお小遣いが減るだけで、後はただ他人の幸せを祈っているだけです。それに『おまじない』を心から信じていられる時間なんて、今時はもう、そんなに長いものでもないでしょう」


 しばし、畔上はまた考え込んでいた。


 はらはらしながら櫻子はそれを見守っている。すると彼女は、んんんんんんと声を上げながら髪を掻いて、


「一つ、いいですか」

「はい。何でしょう」

「私は結局、その前段の『誰かが感謝の気持ちを伝えたくてこんな迂遠な方法を取ったのかも』という部分に納得がいきません。子どもたちが自分でその真偽を検討することができない状況にもです。だから最見さん、一つ記事を書いてもらえませんか」

「記事?」


 ええ、と畔上は頷いた。


「さっきのご想像を、そのままうちの社会面に随筆の形で書いてください。もちろん真実としてではなく、一つの論として。……そこからは、子どもたちに自分で、お小遣いの使い方は考えてもらいます」





「わ、」

「あ、すみません」


 曲がり角で肇にばったりかち合って、咄嗟に避けようと思うのだけど避けられない。

 腕に持っている包みが重くて、素早くは動けなかったのだ。


「大丈夫ですか。これは……」

「配達です。ついさっき」

「呼んでもらえればよかったのに。貸してください」


 はい、と言われるがままにそれを渡して、とたとた歩いて二人で居間へ。

 どん、と畳の上にそれは置かれて、座って中身を確かめる。


「お、あれか」

「どれですか。あ、外国語」


 前に畔上さんが言っていたやつですか、と櫻子は訊く。

 みたいですね、と肇は中に入っていた資料と添え書きをぱらぱらとめくりながら答える。


「これを全部か? 随分な大仕事だな」

「えっ。これ、全部肇さんが翻訳するんですか?」

「流石にそんなことはないと信じたいんですが……櫻子さん」

「はい?」

「ここ、ちょっと」


 手招きされて、櫻子は肇の手元を覗き込む。

 そこには大変達者な字で、『別添えの紙に訳していただきたい箇所を記している』『お忙しいところかと思うが、本業の支障にならない範囲でぜひお願いしたい』『期限については一年ほどとさせていただきたいが、もしさらに早く訳し終えられるようなら、次の仕事もお願いしたい』というようなことが書かれており、さらにその下。


 報酬金額が書かれている。


 思わず口を押さえて、肇の顔を見た。


「……もしかして、肇さんって外国語の権威の方なんですか」

「たかだか数年向こうで暮らしていただけだと思っていたんですが、どうも最近、自分でもそんな気がしてきました」


 どの程度の難しさなのか少し見てみたいと肇は言って、その日は店を開けるよりも先に、翻訳の仕事を始めることになった。


 肇は辞書を傍らに、ひたすらに机に向かっている。

 櫻子はその横でお茶を淹れたりしながら、彼がこれから翻訳する資料の中身を見つめてみる。残念ながら、外国語はさっぱり読めない。が、美術書なのだろうか。図版が多いので、何となく何について書かれているかくらいはわかる。


 骨董品。

 別にそんなの、依頼元から考えれば初めからわかっていたことなのだけど。


「なんだ、全然難しくないな」

 拍子抜けしたように肇が言った。


「そうなんですか?」

「ええ。こっちでは使う人の少ない言語なので、単純に訳者が見つからなかっただけでしょう。骨董関連だから専門的なところも文脈から意味が確定できますし、問題は量だけかな」

「あ、それだったら私、清書くらいなら手伝えますよ」

「本当ですか。ではこちらで鉛筆書きしたものを基に、そちらで……っと、紙と万年筆だな」

「はい。それじゃあ取ってきますね」


 戻ってくると、早速肇は鉛筆書きに取り掛かっている。

 夏の朝日の、よく差した部屋だ。紙の白いのに光が跳ね返って、天井に明るく紋を押している。


 顔を上げないままで、肇は言った。


「破格の依頼でした。櫻子さんも手伝ってくれるなら時間も省けそうですし、これならどんどん……って。いよいよ何屋かわからなくなってきましたね」


 ふふ、と櫻子は笑った。


「そうですね。とうとう、外国語以外の記事まで手掛けられるようになりましたし。そういえばあれ、いつ載るんですか?」

「もう載りましたよ」

「えっ、いつ」

「昨日」


 櫻子は思い出した。

 昨日、そういえば肇の方が早く起き出していたなということを。


「私、まだ読んでません」

「でしょうね。隠しましたから」

「なんでですか」

「はい、一枚できました。清書をお願いします」


 さら、と肇が机の上に紙を一枚滑らせてくる。

 もう、とそれを受け取って見ると、紙の下の方に一行だけ、



『恥ずかしいからです。 清書不要』



 顔を上げた。

 肇はこっちを見ていない。頁の続きに取り掛かって、辞書と資料の間で視線を行き来させている。


 ふふ、と櫻子は万年筆を握りながら笑った。


「でも、よかったですね。畔上さんに納得してもらえて」

「いや、あれはもうこちらの競り負けと言っていいでしょう。あれでうやむやにできると思ったんですけどね。ちゃんと証拠のなさを突かれてしまった」

「いいじゃないですか。おかげで仕事も入ったんですから」

「おっと、話を戻そうったってそうはいきませんよ。……しかしまあ、やっぱりなかなかこの仕事は難しいです。畔上さんとは事前に関係が築けていたから何とかなりましたが、今後はどうなることか」


 そうですねえ、と相槌を打って、


「実物を見せるのが一番なんじゃないですか、やっぱり」

「それはそれで変に見世物になってしまって、面倒なんですよ」

「そうなんですか?」

「ええ。それこそ詐欺師の類を周りに呼び込みかねません。実はそのあたり、洋行の際に実際に見てしまいまして。しかも恐ろしいことに、どの詐欺師も同じことを言うんです」

「なんて?」

「『他は偽物ですが、自分だけは本物です』」


 かりかりと、二人はそれぞれに筆を走らせる。

 白紙がどんどんと文字で埋まっていって、


「じゃあ、私たちも怪しくなっちゃいますね」

「そうなんですよ。ときどき、もしかして自分もその仲間なんじゃないかと疑ってしまうくらいです」

「……あ、肇さん。ここのところ、何て書いてあるのか教えてもらっていいですか」

「あれ、すみません。悪筆気味すぎましたか――」


 肇の前に差し出せば、彼の目が紙面に動く。

 きっとその視線は今、こんな風に文字を読んでいる。



『偽物じゃないって、私は知ってますよ』



 ふ、と彼の頬が綻んだ。


 それからもしばらくの間、二人の間を言葉と紙が行き交っていく。

 段々と集中してくればそのやり取りの回数も少なくなっていくけれど、それでも浜辺に波が打ち寄せるように、何度も、確かに。


 やがて一際日差しが強く、ちかっと輝く。

 目を細めて窓の外を見ると、ちょうど彼らが庭先に現れたところだった。


 すぐに声も響いてくるから、櫻子は万年筆を置く。


「お客さんが来たので、私は店の方に行きますね」

「私も行きますよ」


 ううんと肩を伸ばして、肇も鉛筆を置いた。


「未来の上客だと信じて、丁寧に接客するとしましょう。もしかしたらあの子たちも、将来は畔上さんみたいに新聞記者になるかもしれませんし」

「そのとき、『うちだけは本物だ』って言ってもらえるように」

「ええ。大きく一面に広告を打ってもらいましょう。……流石に欲張りすぎかな」

「ですね」


 二人は、顔を見合わせて笑う。


 大きな声で、自分たちの来訪を告げる子どもの声が聞こえてくる。

 はーい、と返事をして出て行った後、居間には読みかけの資料と、書きかけの翻訳原稿ばかりが残されている。



 夏の風がそよげば、その切れ端。

 隣に座る人に向けた些細な手紙が、魚のように揺れていた。



(第六話・了)

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