第48話:それぞれの地獄

 翌日の火曜日、明日花あすかは重い足を引きずりながら出勤した。


「おはよ……うわっ、あんたどうしたの!」


 芙美ふみが思わず声を上げたのも無理はない。

 マスクを取った明日花の顔は、赤く腫れていた。


「泣いたの?」


 目の周りが特に赤く腫れてしまっているのでバレバレだ。


「……着替えたら化粧するから」


 うつむいて施術着に着替える明日花に、冷たいおしぼりが渡される。


「はいこれ。冷やした方がいいよ」

「ありがとう……」

「完全に腫れが引くまでは数日かかるね、これ。でも無理に化粧とかしない方がいいよ。炎症が起きてるから」

「……わかった。マスクしとく」


 芙美が泣いた理由を聞いてこないことに明日花は救われた。


「ふふ、懐かしいなー。顔を腫らすまで泣いたのって会社員時代が最後だな」

「えっ。芙美ちゃんが!?」

「そりゃあ、もう何回も……って何、そのびっくりした顔!」

「だって、芙美ちゃんってすごくちゃんとしていて頭も良くて――」


 親戚の男たちの嫌みにも余裕の笑みを浮かべて、誰も言い返せないような鋭い舌鋒ぜっぽうでやり返して凜としている芙美しか知らない。


「あはは、ありがと! でも、頑張って結果を出しても、足を引っ張ろうとする奴がいたら台無しでね」


 芙美が言葉を切り、一瞬その顔から笑みが消えた。


「大きい企画があってね、コンペで奇跡的に私のアイディアが通ったの。すごく嬉しかったんだけど、先輩たちから反感を買って嫌がらせが始まったのよ」

「そんな……!!」


 だが、明日花の脳裏に学生時代も何度も見てきた光景が浮かんだ。

 先生に誉められたり、人気のある男子と付き合い出した女の子に向けられる敵意むきだし視線、陰でささやかれる悪口や嘲笑――本人に落ち度がなくても、周囲がそれを作り出しておとしめようとする。


「でも、芙美ちゃんはそんなのに負けない――」


 芙美の顔に悲愴ひそうなものがよぎり、明日花は口をつぐんだ。


「私もそう思ってたの。自分は強いし、こんなくだらない嫌がらせに屈するわけがないって。でもダメだった。どんなに否定しても、面白がる奴らには何の意味もないし。真実かどうかなんて問題じゃなくて、その方が都合がいいってだけで」


 芙美が言葉を切った。


「……上司や取引先と寝て仕事を取ってきたと思われているって知ったの。噂は社内に広がって、部署の同僚に挨拶しても無視されたとき、心が折れた」


 明日花は何も言えなかった。

 芙美はいつも明るく振る舞っていた。

 会社を辞めたときも、新しくやりたいことができたと爽やかに言っていた芙美しか知らない。

 でもそれは、芙美の表面しか見ていなかったのだ。


「それ以来、私は男性が苦手になった。あんたと同じ」

「……っ!!」


 芙美のサロンは基本的に女性客のみ対応している。

 それは明日花にとって救いでありがたかった。


(でも――まさか芙美ちゃんが自分と同じように苦しんでいたなんて……)


 思い返せば、あの頃から芙美は少し変わっていった。

 個人事業主になってから、地元にも帰らなくなっていた。

 地元と距離を置いているだけ、と思っていた。

 だが、男尊女卑が根強く残る地元で過ごすことが芙美にとって、想像以上に負担になっていたのだろう。


「仕事が忙しかったからだって思ってた……」

「あんたはまだ中学生やそこらだったからね。こんなしんどい話をしたくなかったの。それに動揺せずに人に話せるようになるまで、かなり時間がかかったし」

「……ごめんね、芙美ちゃん……」


 勝手に強いと思い込んで、理想を押しつけていた。


 姪から憧憬しょうけい眼差まなざしで見られていた芙美は、それを崩さないように努めていてくれたのだろう。

 芙美がポンと肩に手を置いてきた。


「どんなに強く見えても幸せそうでも、皆それぞれ心に地獄を抱えてるんだよ」

「地獄……」

「どっちがよりつらいとか人と比べるものじゃなくて、耐えがたい苦しみがただ胸の内にあるの。どんなに恵まれているように見えても例外なく全員」

「……」

「だから誰にも癒やしが必要なの。ほんの少し、ちょっと顔を上げるだけの気力を取り戻すためにね。私はそれがヒロットだった。そして他の人にも癒やせたらいいな、ってこの仕事を始めたの……」


 芙美はしんどい記憶を話してくれた。


(私も……さらけ出したい)


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