第3話 ここは妖の世界
ちゅんちゅんと小鳥の囀りがする。そろりと襖を開けて見れば日が昇っている。中庭の池の鯉は優雅に泳いでいて、椿の枝には白い蝶々がとまっていた。
暖かな日差しに目を細め、ミズキは毛布のような布に包まると素肌に触る布の感触が少し心地よかった。白無垢のままでいるわけにもいかないからと
「ミズキ」
呼ばれて振り向けば、紅緑が様々な柄の着物を抱えてやってきた。ミズキの前に差し出すと「おまえの着替えだよ」と笑みを浮かべる。
農民が着ることもないような上等な布地の着物に思わずミズキは手を引いてしまった。こんな良い物を着ていいのだろうかと。そんな様子に紅緑は「おまえのために選んできたよ」と嬉しそうに目を細める。
そんな表情をされては断れないので、ミズキは床に置かれたいくつかの着物を手に取った。赤地に白い花柄や、深い黒茶色の地に楓の葉の柄はどれも綺麗で自分には勿体無かった。
暫く悩み、ミズキは淡い白茶色の地に濃茶色と深い芥子色、鈍い灰緑の菱形が並ぶ柄の着物を選んだ。落ち着いた雰囲気であったから、これなら目立たないとそう思ったのだ。
紅緑は「もう少し派手な物でもいいのではないか」と聞いてくるが、「汚れたら勿体無いので」とそれを断る。
「気にしなくてもいいというのに」
「あはは……。その、着替えてきますね!」
これ以上、何を言われても上手く答えられる自信の無いミズキは着物を持って部屋へと戻った。閉められた襖に紅緑が「手伝いましょうか」と声をかけられて、「大丈夫です!」とミズキは返事を返した。
*
それほど着替えに時間はかからなかった。部屋に置かれた姿見で自身の姿を見てミズキは「これ、本当に良いのだろうか」と思う。上等な着物など着たことがなかったので何だか落ち着かない。それでも相手を待たせるわけにもいかず、ミズキは襖を開けた。
ずっと側で紅緑は待っていたらしく、部屋から出ると「終わったかい」と声をかけてきた。それに頷けば「着いておいで」と手招きをされる。
紅緑は屋敷は広いが殆どの部屋は使っていないことを伝えながら案内をしてくれた。武家屋敷など見たこともないミズキは、何処が何処なのかなど分かってはいなかった。紅緑は分かりやすく此処は寝所、此処は客間、その奥が厠、その端が風呂だと説明した。少し奥にいった場所には書物庫となった部屋があるらしい。
縁側の近くを歩き、玄関へと向かう。その側に台所があって、座り流しの側には水瓶が置かれて隣には竃がある。それらは使われた形跡は無くて綺麗だった。そこから土間を挟んで囲炉裏があり、奥へと続いている。
囲炉裏には火は灯っておらず、そこもあまり使われてはいないようだ。一通り見てきたが生活感というのがこの屋敷にはなかった。
「あの、此処は使っていないのですか?」
「あぁ、ワタシは使いませんねぇ……」
紅緑は特に興味なさげに答えたので、彼は料理などしないのだろうなとその様子から察する。
土間から外に出ると何処を見ても竹、竹で竹林に囲まれている。凄いなと見渡すと少し離れた所に井戸があった。飲水や洗い物などは全てこの井戸で賄っているのだと教えられる。枯れることはないので存分に使いなさいと言われ、ミズキはそこまで使うほど何かするわけでもないしなと思いながらも頷く。
「紅緑様。紅緑様はおりますか」
低く嗄れた声がする。紅緑は「いますよ」と声を上げて玄関の方へと歩いていった。それにミズキも着いていくと、そこには人間らしくもある生き物がいた。
腰が曲がっていて低い背がさらいに低く見え、特徴的な歪んだ顔の口からは牙が見える。爪先も鋭く、身なりは申し訳ないがあまり良くはない。薄い着物を着ている男はざんばら髪を一度、撫でて頭を下げた。
「朝早くから申し訳ございませぬ。村に
「後で行きますよ」
紅緑の返事に男は「有難う御座います」と何度も頭を下げて帰っていった。その背を眺めながらミズキは気になり「あの方は」と問う。彼は「鬼人ですよ」と答えた。鬼に成り損なった人間の魂が妖かしとなった姿、それが彼らだと。
あれが妖かしというものなのかとミズキは初めて見て思い出す。そうか、此処は妖かしの世界なのだからそんな存在が普通に暮らしているのだよなと。
この世界のことをミズキはまだ知らない。何か決め事があるのではないか、人間の世界とは違う理があるのではないか。それを知らねばと紅緑に声をかけようとして、あっと気づく。
そうだ、食事をどうしようかと。身体は空腹を感じている、ならば何かを食べなければ生きていけないということになる。
「あの、聞きたいのですが」
「何をですか?」
「此処って飢えます?」
「この世界ではある程度は成長はするけれど老いることはないねぇ。ただ、飢えや殺されれば死にますよ」
老いないって凄いなとかそうではなくて、やはり飢えでは死ぬのだ。ミズキは「あのですね」と紅緑に話す、人間は食事をしないと飢えて死にますよと。その言葉にあぁとそうだったといったふうに声を溢した。
「そうでしたねぇ。ワタシは食事を摂らなくても生きていけるので忘れていた。そうだ、人というのは食事が必要だったねぇ」
そうか、そうかと頷くと少し考える素振りをみせて「なんとかしましょう」と言うと外に出ていく。
「少し出て行くけれど、外には出ないように。いいね?」
「は、はい!」
強く念を押されたミズキは何度も頷く。流石に何も知らないうちから外に出たいとは思わなかった。
紅緑は二、三度ミズキの方を振り返りながら細い竹林の道を下っていった。その背を見送ると玄関から周囲を見渡してみる。何処を見ても竹しか生えていないので、この屋敷は竹林の中心にあるのだろう。
凄いなと暫く観察していたミズキだったが、此処にいるのもあれだと囲炉裏の側で待つことにした。
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