第42話 ロストワード
訓練場の物陰に潜んでいた人物はベルが来る前からその場に隠れていました。なんとなくここに訪れて、なんとなくクーヤに声を掛けようとしていたのですが、なかなか前に出る事が出来ず、やきもきとしていたのです。
そうして時間だけが経っていったのですが、そのおかげでとんでもないものを目撃する事になりました。
物陰から見え隠れしているぴょこんと飛び出す髪の毛の主、ウルフェンは二人に見つからないようにしつつ、様子を伺っています。
「回復魔術………。それにさっきのは………」
ウルフェンは心底驚いていました。回復魔術というのを初めて見たという事もあったのですが、もっと別の理由がありました。
「クーヤはまさか、ホルダーなのか?」
ベルの傷は見事に完治していました。その事実を確認すると、ウルフェンは身を隠してから深刻そうに呟きます。
ホルダーとは、ロストワードを使う事が出来る者の総称です。本来、魔術には詠唱がなく、魔術の名前を唱えるだけで効果を発揮する事が出来ます。先程のヒールであれば、ヒール、と口にするだけで良いのです。
(初めて聞いたが、あれは確かにロストワードだったはず)
ロストワード。魔術名の前に唱える詠唱の事です。クーヤが唱えていた、「あまねく命に安らぎを」という部分がロストワードにあたります。
このロストワードは資格がある者が唱えた時のみ意味がある言葉で、魔術の効果を跳ね上げさせるという特徴がありました。ヒールもロストワードなしだと、軽い怪我でも治療するのに数十秒は普通にかかります。一瞬にして完治させてしまう程の効果はないのです。
(聖属性の魔術を使えて、しかもホルダー?)
幼いウルフェンでもクーヤのその特異性には計り知れない価値があるのだとわかりました。初めて魔術が成功した事で無邪気に喜び合っている二人を尻目に、いつの間にか握り締めてしまい、手の中でへこんでしまった物をウルフェンは眺めます。
それはクーヤが、自分の姉の好物だと言っていたジュースでした。こんな物、ウルフェンは飲むつもりはありませんでした。なんとなく、そう、なんとなく買ってきただけで特に意味なんてありません。
(俺は………)
父親の命令を果たすのなら、当然この事についても報告するべきでしょう。何より、ウルフェンには父親に逆らう事なんて出来ません。
(何を迷う必要なんてあるんだ。逆らえば、俺だけじゃなく………だが)
思わずウルフェンは奥歯を噛み締めました。クーヤの事を報告すれば、ウルフェンの父親は間違いなくクーヤを手に入れようと動き出すでしょう。懐柔しようだなんて悠長な事はもうしません。強引に、執拗に、何が何でもクーヤの事を狙うでしょう。それだけの価値がクーヤにはありました。
ウルフェンは顔を上げて、もう一度クーヤの顔を盗み見ました。あの笑顔を曇らせる事になるかと思うと、嫌な気持ちになっている自分をはっきりと自覚します。いつの間にかウルフェンの心の中にクーヤという存在が潜り込んでしまっていたのです。
「だがそれでも、俺は………!!」
この事を黙って、クーヤを穏便に勧誘する事が出来れば平和に解決する事が出来る。そう思う気持ちもありましたが、ウルフェンには時間がありませんでした。クーヤが聖属性の魔術を使えるからこそ、ホルダーだからこそ、誰よりも必要としていました。
訓練場から離れ、ウルフェンは連絡用の魔道具を手に取ります。これを使えば、すぐにでも父親と連絡をとる事が出来ます。
「後戻りはできない」
感情を押し殺したウルフェンは、もう躊躇う事もしませんでした。
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