第十九話 「鬼の瞳が映す世界、人間の瞳が望む世界」

 青年はイズミを抱きかかえ、橋の欄干にもたれさせる。

 もはやイズミには戦う意思はなく、青年に身をゆだねていた。


「……すみません」


 イズミは小さくつぶやく。彼女の目は、爪跡が刻まれた青年の腕に向けられていた。


「気にするな。お前さんだって目を開けてるのがやっとだろう。無理せずゆっくり話してくれればいい」


 ありがとうございます、とイズミは微笑む。

 頭に角が生えていようと、笑みを浮かべる口元に牙がのぞいていようと、その微笑みは普段と変わらない優しいものだった。


「見ての通り、私は鬼人です。でも、私の血の半分は、人間なんです」


「混血か。どうりで人間の姿をしている時には何の違和感もなかったわけだ。お前さんからは姿を偽るための術式の気配すらしなかったからな」


「はい。この姿も、人間の姿も、本当の私の姿であることにかわりはありませんから。祖父の話によると、私の父は旅の途中で鬼人の里に迷い込み、里の者たちに殺されそうになったところを母に助けてもらったそうです。それから二人は互いにひかれあって、心を通わせ合い、やがて結ばれました」


「だが、めでたしめでたしってわけには、いかなかったんだな」


「そうですね。母は里長の一族の者ですから、人間と結ばれるなんてあってはいけません。だから父と母は里から逃げ出し、この都へやって来ました。あとは、前にお話した通りです。母は私を生んですぐに亡くなり、祖父が私を迎えに来た……」


 なるほどな、と青年は頭をかく。


「お前さんが箱入り娘だったってのも納得だ。鬼人は血統を重んじる種族だからな。人間との混血なら、殺されてもおかしくない。ましてやその里の長の一族ならなおさらだ」


「おっしゃる通りです。なので私のことは、一族の者しか知りません。私も里の鬼人は、一族の者しか知りません。私は物心ついた時からずっと、屋敷の中で薬師としての家業を教えられていましたから」


「屋敷の外に出すわけにはいかなかったのさ。お前さんを守るためにはな」


「……でも、結局は追い出されました。たぶん、いよいよ隠し通すことができなくなったんでしょうね。いっそ、その時に殺された方がよかったかもしれません」


「そう言うな。里から追い出したのも、お前さんを守るためだったんだろう」


「なぜ、そう思うんですか?」


「この都からはるか東にある山脈に、鬼人の隠れ里がある。そこは特殊な霊薬の産地として皇都の精霊使いの間では知られていた。おそらく、お前さんの故郷だろう。だがその里は、今から一年ほど前に滅びた。太陽の使徒が霊薬の秘術を手に入れようとしてな、抵抗した里の鬼人たちを皆殺しにしたんだ」


 そんな、とイズミは声を震わせる。


「おそらく里長、お前さんのジイさんは、太陽の使徒が自分たちの秘術を狙っていることをつかんだんだろう。だから万が一に備えて、お前さんを逃がしたんだ」


 青年はイズミのそばに腰を下ろし、空を見上げる。


「この都を目指せと言ったのも、もし自分たちが生き残れたらお前さんを迎えにいくつもりだったからなんだろうよ。お前さんは里から追い出されたと解釈するだろうし、そうなったら自分の父親を探すはずだ。それ以外あてがねえからな。お前さんがおっさんの血を飲んでいたのは、父親かどうかを確かめるためだったんじゃないのか。鬼人は血を飲むことで相手の力や性質を知ることができると聞く。おそらく、肉親かどうかも血を飲めばわかるはずだ」


「仰る通りです。肉親かどうかは、一口でも血を含めばわかりますから。自分の血と共鳴するんですよ。でも、無駄なことだったんですね。私がしてきたことって。あなたも、とっくに知ってるんでしょう?」


「ああ。店主のジイさんから、お前さんも例の話を知っていると聞いた」


     ◆     ◇     ◆


 何十年も昔、美しい女の姿をした鬼人の死体が、美奈木大橋のそばの河川敷にさらされた。


     ◆     ◇     ◆


「鬼人の寿命は人間よりずっと長い。混血であるお前さんも、人間よりは長生きするはずだ。だが、お前さんはずっと屋敷の中で暮らしていたから、里を出るまで人間に出会う機会がなかった。だからそのことを知らなかったんだな」


「ええ。ご主人から話を聞くまでは、まるで知りませんでした。ほんと、驚きましたよ。数えてみたら私はご主人よりいくらか年上だったんですから。まったく、祖父も人が悪い。私の父がとっくに死んでいるとわかったうえで、この都を目指せなんて言ったんですから」


「お前さんが父親をさがして血を飲んでれば、怪物に生き血を飲まれるって話が広まるだろ。それを手掛かりにお前さんを探そうとしたのかもしれねえな」


「かもしれませんね。でも、里はもう滅んでしまったんでしょう? 私にはもう、いよいよ帰る場所がなくなってしまいました」


「何言ってんだ。帰る場所ならちゃんとあるだろう」


「……帰れませんよ。もう、ご主人のところには」


「なぜだ」


 イズミは目を閉じ、何度か静かに呼吸を繰り返した。


「父をさがすために、私は何人もの人の生き血を飲みました。でも、例の話を聞いて、もう父がこの世にいないことを知りました。だから私は、人間としてこの都で生きていこうって思ったんです。もう人間の血は飲まないと決心しました。その必要もありませんから。でも、血の味は忘れられませんでした。私の鬼人の血が、人間の血を求めるんです。心が渇いて、人間の血でそれを満たすことをずっと考えてしまう。薬でどうにかできないかと何度も試しました。でも、おさえられない。だから私は、人間の生き血を飲み続けました。血を求める頻度も、日を追うごとに増えていった。鬼人の姿への変化も、だんだんとおさえられなくなってきた。私は、私を止められなくなってきました」


「今日、体調を崩したように見えたのも、そのためだな」


 イズミは小さくうなずく。


「私は、私に感謝してくれたあの子たちを、鬼人の目で見ていました。あの子たちの柔らかな肌に牙を立て、新鮮な生き血を心ゆくまで飲み干したい。その瞬間を想像してしまう。衝動がおさえられない。私は、あの子たちを殺したいとさえ思ってしまった!」


 イズミは青年のほうへ顔を向ける。


「私はもう、人間として生きられません。鬼人として生きる覚悟もありません。でもこのまま生き続けたら、いつか我を忘れて人間を襲ってしまう。嫌なんです。そんなことは。それだけは。私はここで、人間として生きることができて、幸せでした。ご主人と出会えて、まるで家族のように一緒に過ごすことができて、幸せでした。その幸せを、そんな形で終わらせたくありません」


 だから、とイズミは声を震わせる。


「お願いします。私を、殺してください。私が私でいられるうちに、どうか、私を……」


 イズミの瞳に涙がにじむ。

 その涙にこたえるにはどうすればいいかと青年が考えた時、どこからか声が聞こえた。


「いやいや。鬼の目にも涙なんて言葉があるけど、それを実際に拝めるとはねえ」



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