【Pre-Face】寓話は誰かの掌の中で

土田木々

Chapter1: 夢

第1話 Pre:エンカウント

 エアス共和国の端にある小さな田舎町スピカの、唯一の学校の狭い教室の隅に、少年グロリオはいた。先生も居ない休み時間、グロリオは机に肘をついてぼんやりと前の席に群がる級友たちを眺めていた。

「いよいよだな!紅煌騎士学校の受験。」

 紅煌騎士学校は蒼血の魔物と闘う紅煌騎士団の精鋭を育てるための国を上げた名門で、歴代英雄の称号を与えられた騎士全てがこの学校から輩出されている。誰もが憧れ最難関とも呼ばれる学校だ。こんな辺鄙な村からそんなところへ挑戦しようとしている者がいるのだ。温暖なスピカでも霜が降りる季節だが、顔を紅くして興奮気味に男子生徒が言った。

「お前は受験しないだろ。」

 呆れの交じるよく知った声が人集りの中心から届く。グロリオには人の壁に阻まれて声の持ち主は見えなかったが、彼の表情は目の開き方や口角の上がり方まで鮮明に想像できた。

「絶対ガラムくんは合格するよ。心配する方が失礼なくらい。」

 他人事なのに何処か自慢げな女子生徒が呼んだ名前こそ、グロリオの幼馴染で仕草も容姿も目に焼き付いた存在のガラムだ。

 ガラムは誰もが羨望し、尊敬する騎士になるべくして生まれてきたような少年だった。魔法や剣技のセンスにそれを使いこなすだけの身体と努力を惜しまない精神。輝く黄金色の髪に紅く燃える緋色の目もまさに勇敢な騎士を彷彿とさせた。得意の生まれ持った火炎魔法も轟々と紅く、紅を英雄の証とするこの国では持て囃されるだろう。

 グロリオも赤髪を持っているが、細く絡みやすく、くすんだ色をしたそれをガラムに干からびたミミズのようだと揶揄されて大嫌いになった。よく考えてみたらガラムは口が悪いし、人を見下しているふしがある。グロリオには尊大な態度を取るし、嫌味を言って貶してくる。グロリオ限定とはいえ人に嫌がらせするようなガラムは騎士になるべき器じゃないなんて考えてグロリオはますます落ち込んだ。ガラムはグロリオが持っていないものを持っていて、グロリオがなりたくてもなれなかった姿になろうとしていて。ガラムのことを考えると自分の小ささが際立つ。ガラムの嫌なところばかり考えてしまうのは、半分以上僻みなのだから。


 脳裏に浮かぶのは一年前、森の中にぽっかりとあいた二人だけの秘密の広場。いつも通り騎士を目指す者同士剣や魔法の特訓に励んでいた。毎日練習してるとはいえ剣も魔法も得意でないグロリオは類稀な実力を持ったガラムに適うわけなく、いつも通り投げ飛ばされていた。ガラムと比べてなかなか実力がつかないことにグロリオは不安になって、投げ飛ばされて俯いたままの姿勢でその焦りを口にした。

「騎士学校の受験まであと一年しかない。ちゃんとそれまでに強くなれるかな。」

 グロリオはガラムのことだからなんとかなるだろとか頑張るしかないだろうとかそういう前向きでグロリオを励ますような言葉を返すのだろうと考えていた。いなそんな言葉が欲しかった、望んでいた。しかし返ってきたのは冷たい侮辱だった。

「まだ紅煌騎士学校受験考えてるのか?無理に決まってるだろ、諦めろ。」

 氷水を浴びる感覚にグロリオははっと顔を上げる。目に飛び込んできたのは幼馴染の蔑むような視線。座り込んでいたグロリオには仁王立ちでこちらを見下ろすガラムがとても高圧的に見える。彼の初めて見せる表情にグロリオは息を呑んだ。ようやく絞り出した声は震えていた。

「で、でも、僕は騎士になりたいんだ。どんなに叶わないことでも努力し続けて、、」

グロリオの言葉にガラムは舌打ちをして言った。

「一度でも俺に敵ったことがあったか?ねぇだろ。剣はカス、魔法はクソ、」

「煩い!どんなことを言われようと僕は研鑽し続ける!僕の夢は僕のものだ。君に関係ないだろう!」

 ぐちゃぐちゃになってガラムの言葉にグロリオは重ねるように叫び、その勢いのままガラムに掴みかかる。しかしそれはガラムによって華麗にかわされ、瞬く間にガラムはグロリオを地面に押し倒し胸ぐらを押さえつけた。

「現実を見ろ。」

ガラムはそう言って指をさして、グロリオそれにもつられて視線を向けた。

「ノー・エモック…」

ガラムが指の先に向かって呪文を唱える。呼び寄せ呪文で現れたそれを認識した瞬間グロリオは悲痛な叫び声を上げた。

「やめてくれ」

 霞む目が捉えたのは使い古されてささくれた木箱、中身はグロリオが七年間書き溜めた特訓ノートだった。ガラムが次に唱える呪文がガラムの得意なそれでないことを願った。しかし無慈悲にもガラムが唱えたのは火炎魔法だった。

「ンラブ」

 木箱がボゥと上がった火柱に包まれる。グロリオはガラムの拘束から逃れようと藻掻くが関節を固定されててびくともしない。努力の証ごと木箱が灰になっていくのをグロリオはただ眺めていることしかできなかった。

「大事なものが消えていくのを見てピーピー泣くしかできない。そんなお前が騎士になれるわけがねぇんだよ。」

 ガラムの唸るような言葉がずんとグロリオの胸に刺さる。ガラム一人にすらまともに張り合えない。涙が流れ落ちるのは、燃え上がる炎からあがる煙のせいだけではなかった。

 漸くグロリオがガラムの拘束から解放されたときには、ノートと木箱はもはや原型を留めているわけもなく、細く煙をあげて燻っていた。それを前にへたりこむグロリオにガラムは止めの言葉を言い放った。

「もうここにも来るなよ。雑魚のお前の練習につきあわされるこっちの身にもなってくれ。お前、邪魔なんだよ。」

 乾きかけてた雫が再び流れ出した。遠ざかっていくガラムが地面を踏みしめる音が聞こえる。ざぁと初春の陽気を奪う日暮の風が強く冷たく吹き抜けた。


 グロリオが変わろうが悩もうが、日常はそれを待ってくれるはずもなく、淡々と同じスピードで進んでいった。

 仰々しく行われたガラムの騎士学校受験前の激励会も、合格後の祝賀会も、入寮に向けた出発前の送別式も、隅っこで縮こまっていたグロリオには大したものではなかった。偶に低能なのに騎士を目指していたことにからかいや嫌味の言葉を投げかけられたが、それよりも騎士学校生というギラギラ輝く称号を得たガラムの方に注目がいっていた。ガラム自身もグロリオには見向きもしなかったし、グロリオもまだ腹の奥に醜い感情が燻っていてガラムに話しかけることができなかった。二人は村きっての幼馴染であるのに終ぞ言葉をかわすことなくガラムの出立の日を迎え、ガラムは熱い歓声の中旅立っていった。


 ガラムが旅立って一週間後、グロリオも都市の方へ行く用事ができた。何でも村の製粉機が故障したとかで、その部品の注文に行ってほしいとのことだった。一人での遠出は初めてだったし、首都アルタイルまで行かないとしてもその行先が工業都市のシリウスとなれば、グロリオもうきうきしていた。しかしそれ以上に母親が落ち着かない様子だったので、逆に冷静になってしまった。グロリオがどんなに大丈夫だと訴えても母はあれがないだの、これが心配だのと言って聞かなかった。

 出発前は行こうとするグロリオを引き止めて、きつく抱きしめた。流石に恥ずかしかったし、

「どうか無事に帰ってきて」

と余りにも真剣に言葉を紡ぐ母を大げさだと思った。しかし母の顔を見上げた時頬に落ちた熱い雫に圧倒され、グロリオはただ静かに、でも強く頷いた。

「   」

 温もりが遠ざかるとき、母は何と言っのだろうか。グロリオは聴き返すことなくスピカ村を離れた。

 違和感があってもほんの少しだけだったら見逃すだろう?

 グロリオだってそうだった。だからいつもと違う母の様子に気づかないふりをして出発したのだ。このただのおつかいが全てのはじまりとなるのを知るわけもなく。


 国一番の工業都市なだけあってシリウスはとても大きかった。絡み合う歯車の音も、あたりに漂う油の匂いもグロリオには新鮮でキラキラして見えた。

 慣れない土地に、入り組んだ道、大きな街、グロリオは案の定迷子になった。もらってきた地図のメモを広げ目を凝らす。が、その瞬間強い風が吹き抜けた。

「あっ!」

 メモの紙がグロリオの手をすり抜け飛ばされる。慌てて紙を追いかけるグロリオだったが、ちょうど前から歩いてきたおばさんが親切にもその紙を拾い上げてくれた。

「これ、君のかい?」

「はい、ありがとうございます!」

駆け寄るグロリオに格幅の良い女性はメモを指しながら続けた。

「もしかしてここに向かってる?」

グロリオがその質問に是を言うと、女性は少し驚き、なら急がないと、とちょうど通りかかった荷馬車を運転する男性に声をかけた。

「ちょっとあんた、この子をここまでお願いできるかい?」

紙に書かれた行先を見せられた馬車の旦那は、あい任されたと胸を叩いて言った。

「さあ坊主乗りな!超特急で向かったるで!」

主の旦那の意志をくみとった馬車に繋がれた栗茶の魔法生物エクースがグロリオの襟を咥えてひょいと荷台に載せた。

「頑張りな!」

 人好きのするおばさんは激励の言葉とともに拾った紙をグロリオに返しながら手を握った。急なことにされるがままのグロリオは、一体何なのか聞く前に駿馬エクースの驚くべきスピードによって次の瞬間には全く異なる景色を見ていた。

「いったいここは…」

 そんなグロリオの困惑した呟きに答える者はおらず、馬車の旦那は駿馬の凄さを自慢するようにグロリオに顔を近づけて大げさに両手をひろげた。

「さぁ、ついたで!早いだろう!」

その言葉を合図にエクースは再びグロリオを咥えて、勢いよくグロリオを放り投げた。

「うわぁぁぁ」

 びゅんと後ろに流れていく景色に叫びながら一直線にグロリオは飛ばされていく。そして何かの受付のブースに衝突する寸前に前につんのめりながらもなんとか止まった。

「もしかしてグロリオ・ヌーデル君?」

 ブースに座っていた兵士が口を開いた。グロリオが急に飛び込んできたにも関わらず淡々としたトーンで言うので逆に拍子抜けしてしまったグロリオは思わず首を縦に振った。

「時間ギリギリだったねぇ、危なかったよぉ」

 兵士はゆっくりとした口調とは反対に手はテキパキと動かし、魔法でいっきに複数の書類を処理していく。未だ情報を処理しきれていないグロリオは踊るように動く紙たちを呆然と眺めていることしかできず、

「じゃあ頑張ってね」

という兵士の言葉を最後に今度は魔法の光に包まれ思わず目をつむる。次に目を開いた時にはまた違う場所に飛ばされていた。


「いったいなんなんだよ…」

 グロリオの悲痛なため息まじりのつぶやきは、虚しくも周りの木々と風に吸い込まれていった。グロリオは深い森の中に立っていた。

「もう最悪だ…」

 街の中で迷子になったと思ったら、気づいたら森の中で遭難していたのだ。今この状態で何をするのが正解なのか、全く検討もつかない。陽の光は高く聳え立つ太い幹の木々や鬱蒼と生茂る草や蔦に遮られて、昼間だというのにあたりは薄暗く、ひんやりとしていてそれがグロリオの不安をさらに掻き立てた。心臓が身体を乗っ取るくらいどくどくと脈打って主張している。

 と、急にグロリオの後ろの草むらがガサガサと揺れた。そして2つの目を持つなにかがこちらに現れた。グロリオは悲鳴をあげて尻もちをつく。

「あ、ごめん、脅かした?」

 姿を表したのはグロリオと同い年くらいの少女だった。右目の上から顎にかけての大きな古傷がこげ茶の前髪の間からのぞいていたが、不思議と怖い感じはせず、寧ろ彼女は心から優しい人だと確信できる雰囲気を纏っていた。彼女の質問に未だ早鐘を打つ心臓がはち切れそうだったが、グロリオは大丈夫だと答えた。彼女はなら良かったと微笑んで、先を急いでその足を進めようとした。

「待って!」

グロリオは今日一番の声を出して踵を返そうとする彼女をなんとか引き止めた。

「迷子なんだ。ここが何処か教えて欲しい。あと街への帰り方も。」

 震える喉をなんとか動かして言葉を紡ぐ。もう必死だった。グロリオには彼女に縋るしかないのだ。怯えるグロリオに、少女はそのグリーンの目を丸くして答えた。

「何処って騎士学校の裏山じゃない。」

そしてグロリオの握る紙を指さして言った。

「来たことあるでしょ。試験会場だったんだから。」

 少女の指に誘導されてグロリオは手汗でぐちょぐちょになったそれを開いて、まじまじと見つめた。


入学許可通知書

スピカ村 グロリオ・ヌーデル殿

あなたは紅煌騎士学校への入学試験に合格しました。

年度より入学を許可します。


校長︰ローラス・ギガース


 手に持っていたのは紅煌騎士学校の入学許可書だった。グロリオは自分の目を疑った。

「ありえない!僕は受験すらしてないよ!きっとこれは何かの間違いだ…!」

必死の形相で訴えるグロリオは嘘をついているようには見えない。少女は落ち着くように伝えた。

「わかったよ。取り敢えず学校まで案内するから、先生に相談してみましょう。」

彼女の言葉にほっとしたグロリオは少し落ち着いて、ありがとうと言った。


 二人は森の中を進んでいく。案内をしてくれている少女の名前はカラン・アロマで、紅煌騎士学校の新入生なのだという。グロリオが自分の幼馴染も新入生だと伝えると、カランは少し考えた素振りを見せたあとに口を開いた。

「もしかしたらその幼馴染さんと取り違えられたのかもしれないね。家も近いならなおさら。」

それを聞いたグロリオは素っ頓狂な声を上げた。

「えっそしたらガラムは入学許可証持ってないのかな」

 グロリオの想像通りだとしたら、ガラムはあの受付のブースで跳ね返されて、紅煌騎士学校の門を潜れていないはずだ。ならあの自尊心強めな彼は大声でおかしいと主張し、なんならお得意の火炎魔法を使ってあの場にいた兵士に襲いかかり、駆けつけた他の兵士に拘束されて連れて行かれる…という一連の流れがグロリオの脳裏に浮かんで身震いをした。

「先を急いだ方が良さそうね」

グロリオの表情から大体を把握したらしいカランはその足を速めた。

 それに続くようにグロリオも一歩を踏み出した。


 その足に踏まれて折れた枝がパキリと乾いた音を鳴らす前か、後か、二人を包む森の空気が急変した。ふわふわ重く、じめじめ乾いた、兎にも角にも気持ちの悪い空気だった。そして次の瞬間、得も言われぬ悍ましい気配が二人の背中を駆け上った。

 身体の全支配権が取り上げられた気分がした。頭はバチバチと閃光を走らせて今すぐ逃げろと司令する。心はドコドコと脈動して目を瞑れ、蹲れと叫んだ。でも体はどちらともならなかった。二人は勢いよく振り返って、その不気味の根源と対峙した。

 見た目は野犬だけれども明らかに違う。山のように大きな体、太く鋭く尖った爪と牙、全身を覆う針のような毛皮。口を半開きにして木を揺らすほどの息を吐きながら、ぼたぼたと涎を垂らしている。二人を何よりも戦慄させたのは、三角耳の片方がちぎれ、その傷口から覗く血の色が蒼かったことだ。

「蒼血の魔物」

 どちらが呟いたかしれない言葉は重苦しい空気の対流に呑まれて消えた。固まるグロリオの目を怪物の深い夜の色をした黒い目が覗き込んだ。その瞬間魔物はその巨体からは想像できないくらいの物凄い勢いでグロリオの方へ飛び掛かってきた。

 恐怖か、それとも怪物の威圧感なのか、時が止まったかのように、グロリオは瞬きすらできない。巨大な恐ろしい爪がグロリオを引き裂く。

「ニーグ!」

 寸前、重苦しい空気を切り裂くように呪文が木霊した。必死で叫ばれた呪文とともに、目の前に樹木の壁が現れて、間一髪、グロリオの鼻に届くギリギリで、爪は阻まれた。

「ありがとう」

かち合っていた視線が外れたことで体の自由が戻ってきたグロリオは木の壁をつくってくれたカランに礼を述べた。

「感謝するのはまだ早いよ」

そう言ったカランの額には大粒の汗が浮かんでいた。魔法の負荷が大きいのだろう。ぐんと成長した木の守護は二人をぐるりと囲んだドームとなって魔物の牙や爪から守ってくれているが、執拗な攻撃でギシギシと揺れいつ破壊されてもおかしくない。

「ねえグロリオ、何か攻撃できる魔法持ってる?草木属性の私には攻撃技ないんだ。」

 人はみな生まれながらにして全7種類のうち一つの魔法属性を持っている。属性ごとに特徴があり、その中でも草木属性は守備、捕縛特化で攻撃技が無い。誰でも使える無属性魔法にも攻撃技があるが、火力不足だろう。カランには壁の構築はできてもこの状況を打開するような反撃はできない。

「ごめん、僕は使い物になるような魔法使えないんだ」

 練習はしたつもりだった。でも一向に魔法が開放されないグロリオは結局何も会得できないまま夢を諦めてしまった。ただ守られることしかできない自分がますます嫌になった。

「私こそ、何もできないよ」

 カランは卵とはいえ戦士の端くれだ。自分じゃ何もできなくて、何も訓練を受けていないグロリオに頼りざるをえない自分を惨めに思った。

「いっそ無属性魔法で攻撃しようか」

カランが半分投げやりに言った。それに対してグロリオはだめだ、と声をあげた。

「あの魔物は恐らくα種だよ。無属性魔法じゃ相当な手慣れでも傷つけることすらできない。」

 魔物は大きくα、β、γの3つに分類できるが、その中のα種は魔力はあまりないが身体機能が高く、毛や皮膚も硬くて普通の武器による打撃や無属性魔法の攻撃などの力ではなかなか攻撃が通らない。

「でもひるませて、逃げたり隠れる時間くらいなら稼げるかもしれないじゃない。」

反論したカランの口調は少し強く、焦りと苛立ちが混ざっていた。

「走って逃げるとしたら学校だよね?ここからどのくらいかかる?」

グロリオが聞いた。

「3分くらいかな…」

 取り乱していないグロリオの口調に、カランも冷静さを取り戻しつつあった。確かにしょぼい攻撃でひるませたところで、逃げるのに十分な時間を稼げるとは到底思えなかった。

「隠れてもすぐ見つかるだろうし、なにせα種は鼻も利く…」

そう言いかけてグロリオは考えて俯いていた視線をはっと起こした。

「逃げる時間稼げるかもしれない!!」


 魔力解放の儀式を終えて数年、同学年のみんなは自身の属性はもちろん、簡単な無属性魔法も使いこなせるようになってきたころ、グロリオは自分の属性どころか無属性魔法も使えないでいた。それを見たスピカ村の学校の先生は面談でグロリオに言い放った。

「この歳になっても魔法使えないのはまずいよ。騎士になるのはまず無理だし、それどころか村一番の落ちこぼれじゃないか。夢だけ立派で実力がない。このままだと捨てられちゃうかもよ。」

 先生自身はちょっとした冗談のつもりだったのだろう。でもグロリオは本気だと捉えた。捨てられるかもしれない、その強迫観念で、それはもう死物狂いで魔法を練習した。

 そして漸くひとつ魔法を習得した。でもそれはかけらもかっこよくなくて、いつ使うのかもわからない酷い魔法だった。ただ鼻が曲がる程の強烈な悪臭の液体を放つというもの。級友たちは臭いと鼻をつまみグロリオの無能さを嘲り笑った。ガラムはその糞尿のような臭いとかけてか、

「クソ魔法だな」

と一蹴したのだった。


 メリメリと嫌な音を立てて二人を守っていた木の防壁は怪物に破壊されていく。けれども二人は恐怖と不安に怯えてはいなかった。寧ろ意を決していて魔物をまっすぐとその両眼で捉えていた。

 魔物と目があって一呼吸、魔物は一直線にグロリオの方へ飛びかかる。正直怖い、けどもぎりぎりまで引き付けて、全身全霊で呪文を唱えた。あのときの努力は今のためのものだったのだと強く思った。

「アキリク!」

至近距離からの攻撃で、かわされることもなく、放たれた液体は魔物の鼻に直撃した。ゼロ距離の悪臭に魔物は悶える。

「行こう!」

 グロリオとカランは自身の鼻を袖口で覆って一目散に駆け出した。

 背中から魔物のうめき声が聞こえる。魔物はヒトの何千何万倍もの嗅覚を持っている。ヒトでも意識を失いかけるくらいの強烈な臭いなのだ。魔物には効果抜群だった。

 自分たちの乱れた呼吸音が、わらわらと不規則に踏まれる足音が、うるさい。何時間も走り続けている気分もするが、まだ数秒しか経っていない気もする。

 思ったより魔物の立ち直りが早かった。フーフーと鼻息を荒らげながら身体を起こして、前を一心に走る二人を睨んだ。ブルリと頭を揺らすと、その太い足で地面を蹴りだした。 

 速い。ものの数秒で追いつかれる。カランは悟った。

「カラン!?」

 突然180度進行方向を変えたカランをグロリオが呼ぶが、その声は彼女の耳に入らない。カランは騎士の、弱きを守るヒーローの卵なのだ。私が魔物に立ち向かわないでどうする?

「ノー・エモック!」

カランの手の中に短刀が現れる。魔物と対峙するには心もとないが、丸腰よりは断然良い。

 唾液の滴る鋭い牙がカランに迫る。大丈夫見えている。体を反らして危なげなく避けきり態勢を整える、その直前大きな爪を携えた前脚の追撃が襲った。なんとか躱した、と思った瞬間、魔物はもう一方の前脚を軸に勢いよく体を回転させて、その太くて硬い尻尾でカランを殴り飛ばした。

「カラン!!」

 グロリオの叫びは虚しく森に響きわたり、そのままカランの身体は弧を描いて飛んで木の幹に激突して落ちた。


 グロリオは三度魔物と対峙した。怪物はまっすぐにグロリオを睨みつけていた。横目にみたカランは木の根元でぐったりとして動かないが、呼吸はしているし、魔物はグロリオに釘付けでカランを気にする素振はない。良かった、きっと彼女は助かるだろう。到底適うわけない魔物を前にしている危機的状況な筈なのに、こんなことを考えてしまうくらいグロリオの心は凪いていた。

 ぐるりと魔物の喉が鳴る。ボタリと大きな涎の雫が落ちるのを合図に魔物はグロリオに襲いかかった。コマ送りのように鮮明にゆっくりと怪物の動きが脳裏に刻まれるのとは裏腹に、グロリオは瞬きすらできなかった。が、爪がグロリオに振り下ろされる寸前、あたりに強い光が満ち、視界がホワイトアウトした。

グロリオの視界が戻ったとき、魔物の身体は白い光に蝕まれ、キラキラと消えていった。最後まで形を保っていた眼球が恨めしそうにグロリオを睨み続けていた。

 呆然と尻もちをつくグロリオの目の前にはローブを纏った背中があった。その人がグロリオを守ってくれたのだろう。

「遅くなってすまない。」

 ゆっくりとローブの主がこちらを向いた。グロリオは再び言葉を失った。男の名はローラス・ギガース。第14番目の英雄で、紅煌騎士学校現校長だった。鋼でできた右の義手を差し出され、グロリオは立ち上がった。


 グロリオとカランはローラスに連れられて、校長室に来ていた。カランは魔物に弾き飛ばされて木に体を打ち付けたものの、幸いかすり傷だけで、ローラスの簡単な魔法で回復していた。

 校長室は昔のエアス城をそのまま使った本校舎の地下にあり、要塞としての名残が色濃い廊下を歩いていった。重厚な扉を開けた先の部屋は壁一面が本棚になっていてぎっしりと魔法書やら兵法書が詰まっていた。何やら見たことのない魔法道具やキラキラ光る鉱石なんかも天井から吊られていて、二人は思わずぐるりと部屋を見渡してしまった。

 グロリオとカランはローラスに促されるまま、客人対応用に設けられた革のソファに座った。滑らかな触り心地のそれは二人の体重で少し沈む。ローテーブルを挟んでローラスが腰掛けた。空間も前に座る人も浮世離れしていて、グロリオもカランもどこか落ち着かなかった。

「さて、早速だが魔物が現れたときの状況を教えて欲しい。いつもと変わった様子はなかったか?」

ローラスは組んだ手の上に顎をのせ、身を乗り出して二人に問うた。

「特に変わったことはなかったと思います。魔物も急に現れたとしか…」

カランが少し緊張した面持ちで答えた。

「僕も分からないです。森に入ったのも初めてだったし…」

グロリオは不安そうに答えた。

「ふむ、そうか…」

 二人の返答を受けてローラスは口を開いた。

「あの森は学校と騎士団が管理しているんだ。魔物が入らないようにする結界も毎朝点検して、今朝も異常なしだった。一体なぜあれ程の魔物がいたのか…」

ローラスは考え込むように視線を下に向けたが、すぐに二人に向き直り笑みをこぼした。

「とにかく二人が無事で良かった。時間をとってすまないね、寮の方に行って明日からの授業に備えると良い。」

ローラスは立ち上がり二人を扉の方へ促した。

「ちょっと待ってください!僕はここの生徒じゃないはずです!」

 グロリオが勢いよく立ち上がり、半ば叫ぶように言った。ローラスは目を丸くして一瞬動きを止めたが、すぐに口を開いて言った。

「何を言っておる。グロリオ・ ヌーデル、君は正真正銘紅煌騎士学校の148期生だ。」

 話しながら魔法で引き寄せた紙の束、生徒名簿のめくられたページには確かにグロリオの名前や住所、試験の成績なんかも記されていた。

「いや、でももしかしたら僕の幼馴染と…」

間違えているんじゃないですか?と言い切る前にローラスは名簿のページをいくつかめくりグロリオに見せた。そこにはグロリオの幼馴染のガラム・アダマスの名が記されていた。


 一体何が起きているのか、グロリオには全く分からなかった。試験を受けた記憶も、そもそも出願した記憶もない。心臓がバクバク言っていた。

「ねぇグロリオ!」

 急に声をかけられて驚くが、思考の海原に飲み込まれていたグロリオは現実に引き戻される。

「こっちは女子寮だよ。」

 カランは呆れた顔で立っていた。考えに耽っていたグロリオは無意識にカランの後を付いて行ってしまっていたらしい。

慌ててごめん、と謝るグロリオにカランは苦笑しながら言った。

「気が動転して当たり前だよね。グロリオが嘘をついているようには思えないし。」

彼女の声はどこまでも優しく同情的だった。

「そうなんだ、僕はおつかいの途中だったし、試験を受けた記憶もない。森で握っていた入学証明書もきっとシリウスの街で風で飛ばされたときに取り違えたんだと思う。」

グロリオは少し早口に言葉を紡いだ。カランはうんとうなずいてからそうだね、と口を開いた。

「紅煌騎士学校は全寮制で夏まで家に帰れないし、不安だよね。帰りたいなら入学初日だけど退学手続きできるし、」

手伝うよ、そうカランが言い切る前に、遮ったのは他でもないグロリオだった。


「僕にここにいる資格はあるかな。」

カランは笑みをこぼして口を開いた。

「学生証はあるじゃない。」

「ここで学んでもいいのかな。」

「生徒なら授業をうけられるよ。」

「騎士になる夢、また追いかけてもいい?」

夢は君だけのものだ。グロリオが顔をあげた先のカランは可笑しそうに笑った。

「やっぱり最初から答えは決まってたんだね。これから一緒に頑張ろうね。」

 そう言うとくるりとグロリオに背を向けて、自分の寮へと足を踏み出した。でも二、三歩歩いた後、振り返って少し恥ずかしそうに笑いながら言った。

「私一人じゃ魔物から逃げることもできなかったと思う。守ってくれてありがとう。」

そう言い切ると彼女は駆け出して、長い廊下の先に消えていった。

「ちょっとかっこよかったよ。」

 彼女が残した言葉がグロリオの耳の中で木霊した。


 早鐘を打つ心臓がうるさい。体中にその脈動が駆け巡っている。思わずグロリオはその場に座り込んで頭をかかえた。グロリオは騎士学校の生徒でいることを選んだ。出願した記憶も入試を受けた記憶も、合格証書を受け取った記憶もない。ちょうど一年前、騎士を目指すことを諦めた記憶だけが音と匂いも鮮明に頭に刻まれている。でも騎士を目指す権利を与えられたのにやすやす手放すほどきれいに諦められたわけじゃない。未練たらたらだった。

 グロリオはただお使いにでかけただけで、ここにいるのはきっと何かの間違いで。それは重々わかってる。でもね、これは神様のくれたチャンスで奇跡に違いないでしょう?少しだけ気づかないふりさせてください。

 グロリオはぱっと立ち上がり、男子寮の自分の部屋へ駆け出した。


 この少年の選択が大きく世界を動かしていくことになる。

そう、これは「彼らが歴史を刻む物語」


[Chapter1 夢]

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る