第2話


「何もしなくていい」彼女が嫁いで来た翌朝にそう忠告をした。

 エーファとは本人に宣言した通り一年後に離縁する。故に余計な事をされて面倒事にはしたくない。それこそ妻という立場を盾に好き放題されたら堪ったもんじゃない。そんな事にならない様に円滑に別れる為にも釘を刺して置いた。それなのにも関わらず、まだ嫁いで来てから一ヶ月も経たずに余計な事をしているらしい。

 姉のブリュンヒルデは思慮深く聡明だったが、妹の方は違ったみたいだ。はなから期待はしていなかったが思った以上に短慮らしい。


 マンフレットは朝食を終えると、厨房へと足を向けた。ギーからエーファが厨房にいると聞き、再度彼女に余計な事はしないようにと今度は直接忠告をする為だ。普段なら用もなく来る事は絶対にない。

 


 厨房に近付くにつれて、何やら笑い声が聞こえて来た。その事に珍しいと眉を上げる。何故ならマンフレットを含めたこの屋敷の人間は皆一様に物静かで大口を開け品なく笑う者はいない。ブリュンヒルデもそうだった。ヴィダル家に関わる人間として当然の嗜みだ。


「奥様凄いです!」

「とても良い匂い〜」


 マンフレットは、厨房に入ろうとしたが寸前で足を止めた。


「美味しそうなキャロットケーキ」


(キャロットケーキだと⁉︎)


 悍ましい単語を聞いただけで全身が粟立つ。

 出入り口から中の様子を窺うと、数人の侍女に囲まれた彼女がいた。侍女服に着替え、長い髪を無造作に後ろに縛り上げ、愉しげに口を開けて笑っている。使用人等に溶け込み違和感がまるでなくとても貴族の娘には見えない。本当にブリュンヒルデの妹なのかとさえ疑えてくる。その様子に品性の欠片も感じられなく全く情けない。幾ら一年後には離縁するといっても、その間は妻である事に違いない。今後、夫婦として社交の場に出なくてはならない場面も少なからずある筈だ。前言撤回だ。確かに何もしなくていいとは言ったが、ある程度の教育が必要かも知れない。


「きっと旦那様も喜ばれますね」


 厳しく注意しようと意気込みながら再び厨房の中へと入ろうとしたが、マンフレットは直様踵を返した。


(まさか私にアレを食べさせ様と画策しているのか⁉︎ 冗談じゃない。あんな悍ましい物を食べさせられるなどごめんだ)

 

 マンフレットはキャロットケーキに慄き逃げ出した。

 


◆◆◆


 

 一ヶ月前に嫁いで来た時は、正直不安や暗い気持ちでいっぱいだった。亡き姉の代わりにその夫である彼の妻になるなんて無謀だと思った。

 もしも自分が姉の様な絶世の美女、とまではいかなくても今よりもう少しだけでも綺麗だったなら違ったかも知れない、なんて下らない事を考えてしまう。

 マンフレットの反応は予想していた通り冷たく、新婚早々離縁を言い渡された。「何もしなくていい」あの言葉を伝え聞いた瞬間、エーファの全てを否定されて拒絶された気がした。彼への想いは疾うに捨てた筈だったが、流石に辛かった。

 たった一年だが、エーファには果てしなく長く思える。逃げ場のないこの場所で、初恋の人であり姉の夫であった彼から蔑まれ生活しなくてはならないなんてこれはどんな罰より辛い。


「奥様、お茶の用意が出来ました」


 ただ今は少し心境が変わりつつある。

 少し前、使用人達が風邪を引き次々に倒れてしまい、一気に人手不足に陥ってしまった事があった。その時にエーファは手伝いを申し出た。大した事は出来ないが、いないよりはマシだと思ったのだ。実家にいた時は、身の回りの事は出来るだけ自分で行なっていた。

 両親がエーファに関心がないからか、使用人達もエーファには冷たかった。食事がいい例だが、何をするにも家族とは別だったので、忘れられる事も暫しで自分でせざるを得なかった。家族が食事を終えた後、食堂でひっそりエーファは食べていたが、用意されていない事も多かった。そんな時は決まって厨房に行き適当に作って食べていた。他にも掃除から洗濯、身支度など生活する上で必要な事は一人で完結出来る。

 そんな理由から手伝い始めたのだが、使用人達が回復し元気になった後も続けていたりする。

 この屋敷の使用人達は本当に優しくて温かい人ばかりで、一緒に働く事が愉しくて仕方がない。今はエーファの細やかな生き甲斐となっていた。


「ありがとうございます。では皆さんで休憩にしましょう」

 

 そう言いながらエーファは今朝焼いたマドレーヌを皿に並べた。

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