【第2章】 湖畔キャンプ編 白鳥幸男 

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 改めまして。白鳥幸男と申します。少し長くなりますが、遡って子どもの頃から話をさせていただきます。お付き合いください。


僕の父は厳しい人でした。


父は長く会社員をしていましたが、傍らで地域の居合い教室の師範もしており、周りから大変尊敬されていました。僕は子どもの頃から、武芸を教え込まれました。庭で剣道や柔道の型を教わり、祖父の代から集め始めたという日本刀や鎧が並べられた座敷で、父なりの精神論をたたき込まれました。


自らを鍛えよ。人を頼るな。男たる者、自分の力で・・・・・・ と言った感じです。


当時であっても、若干時代錯誤な父でありましたが、機嫌がいいときは釣りに連れて行ってくれたり、母と一緒にキャンプに連れて行ってくれたりと、決して悪い父親ではなかったと思います。母はそんな父に全く口答えをする事もない、おしとやかな人でした。もちろん、父が威圧的なのもあったのでしょうが、母はなにより、頑固ではありますが曲がったことが嫌いな一本筋の通った父を信頼していたのでしょう。


しかし、その、なんと言いますか、自分の武士道を貫こうとする父は、時代の流れには取り残されていきました。


その当時、世はバブルで色めき立っていました。どんどん経営スタイルが変わっていく勤め先の会社に、父は嫌気が差したようでした。父は勢いに任せて脱サラし、先祖代々受け継いできた元々の土地に、さらに土地を買い足して、このキャンプ場をオープンさせました。先ほども言ったとおり、世はバブル景気です。出資のあてもすぐに見つかりました。名前にちなんだスワンボートを何艘も買い込み、流行のロッジハウスもたくさん建てました。当時最新のキャンプ場に地域は大盛り上がり。地域の広報誌にも取り上げられ、大繁盛しました。


父は自分の作り上げた夢の国に誇りと自信を持ち、会社員の頃には決して見せなかった満面の笑みで接客を行っていました。


始めだけですが。


世が不景気になり、日本全国の多くの新設施設と同様に、このキャンプ場も一気に経営難に陥りました。客足が遠のいたのと、やはり初期費用がかかりすぎていたんです。


簡単に言うと、父は立派な武人ではありましたが、経営者としては三流だったのです。


何より、引き際を見極めるのが下手だった。まだある程度高値で売れるうちに、土地を手放してしまえば良かったのです。実際、高い金額ではありませんが、キャンプ場ごと買収の話も持ちかけてもらっていたようです。また、元いた会社から復帰を持ちかけられてもいました。会社側の情けもあったでしょうが、父の実直な働きはしっかりと評価されていたのです。


しかし、先祖代々守ってきた土地を手放すことなど、武士に出来るわけがありませんでした。また、一度大手を振って去った職場にすごすご戻ることは父のプライドが許しませんでした。


そして、致命的なことに、父は人を見る目もありませんでした。


ある日を境に、よくわからないアドバイザーが来ては、よくわからない提案をするようになりました。父は助言に従い、様々な取組を行いました。謎のイベントを企画したり、アスレチックもどきを設置したりと。


その時、僕はまだ小学生でしたが、「もうだめだ」と子供心に悟ったのを覚えています。だって、あれだけ「人を頼るな」と言っていた父が、よくわからない男に大金を払って助言を求め始めたのですから。もちろん、それらの一貫性のない取組は赤字を加速させるだけでした。


あれだけ気に入っていたスワンボートは一艘、また一艘と姿を消し、とうとう一羽もいなくなりました。祖父が集め、父が大切にしていた日本刀や鎧のコレクションもほとんどが売り払われていきました。そうして遂に、新しい取組をする費用すらも全く捻出できなくなった父は、一気に老け込み、客がほとんど来ないキャンプ場を、ただ黙って清掃するだけの男になりました。その頃には、この土地を買いたいという人もいなかったのです。


僕が中学生になった頃には、日々の生活に貧困の陰が色濃く差し込んでいました。また、父と母の関係も芳しくなくなっていました。母の父への信頼がなくなり、それが父にも伝わっていたのでしょう。二人が言い争いをする夜が増えました。


そんな環境で、僕が精神の平穏を保てたのは、恥ずかしながら、恋人の存在でした。


中学で出会った絵美ちゃんと言う同い年の女の子です。かわいらしい子でした。小柄で、いつも子犬の様に僕を振り回してくれていました。


でも、普段は明るい彼女には、実は悩みがありました。僕の苦悩など比べものにならないような、十代の小さな体では受け止めきれないような大きな悩みでした。彼女の名誉のために詳しくは語りませんが、絵美ちゃんは実の両親に、人としての尊厳を日々、踏みにじられていたのです。


彼女は自分の悲惨な境遇を何度も僕に話してくれました。


時には泣き叫びながら、時には泣き声を押し殺しながら。今はうまくいってないものの、両親に愛されて育った自覚があった僕には想像が及ばない苦しみでした。それが申し訳なかった。彼女の話を聞く度に、彼女の苦しみを表面的にしか受け止めることが出来ない自分が情けなかった。それを察してか、絵美ちゃんはよく言ってくれました。「仕方ないよ。結局はみんな他人なんだから」と。家族に肉親扱いをされなかった彼女は、そんな寂しいことを言って自分の理不尽な境遇を自分に納得させていたのでしょう。


僕たちは状況を打開するために何か出来るような年齢ではなかったのです。


中学二年生の夏休みの終わり、絵美ちゃんはバスを乗り継いでこのキャンプ場まで遊びに来てくれました。「湖のハクチョウが見たい」という絵美ちゃんのかわいらしい願いがあったのです。


ハクチョウは毎年大体、秋から冬にかけて日本にやってきて、春になると北に旅立ちます。その年の夏はやけに涼しかったため、季節を勘違いしたのか、早くも数羽の白鳥が湖にやってきていました。


絵美ちゃんは中学の制服ではなく、とっておきの一張羅だという白いワンピースを着てきてくれました。夏の日差しにキラキラ輝く彼女は言い様もなく美しかったのを覚えています。


両親にも恋人がいることは伝えていたので、僕の両親は絵美ちゃんを歓迎してくれました。特に父がうれしそうでした。父は久々の満面の笑みで僕と絵美ちゃんを連れてキャンプ場を案内しました。父の日々の掃除はこういうときのためにあったのでしょうか。最後に自慢の湖まで案内した父は、使われなくなって久しい倉庫から、一艘のボートを出してきてくれました。スワンボートではなく、オールで漕ぐ、2人乗りのよくあるシンプルなボートです。倉庫には使われなくなったライフジャケットが入っているだけだと思っていたので、驚きました。「これだけはとっておいたんだ」と父はとっておきの笑顔で言いました。その後も父とは色々ありましたが、今思うと、父の心からの笑顔を見たのは、あれが最後だったのかもしれません。


 僕たちをボートに乗せ、オールを僕に握らせた父は「後はお二人で」と父に似合わない気取った言葉を残して去って行きました。僕はオールを操ってボートを適当に進めました。絵美ちゃんは幼い子どものようにはしゃいでいました。お目当てのハクチョウが飛び立つのを見たときは手をたたいて歓声を上げていました。


お互いに一通りはしゃいで疲れたのでしょう。いつしか僕はオールを扱うのを止め、絵美ちゃんも黙って湖畔を見つめていました。そして、絵美ちゃんがまた家庭の話をぽつりぽつりと話し始めました。


昨夜の出来事、今朝の出来事、そして、今日帰ったら起こるだろう出来事。


僕にとって耳を塞ぎたくなるような話でした。でも、僕はじっと聞いていました。毎回そうです。僕は彼女の苦しみをわからない分、絶対に彼女の話は避けずに聞かなければならない、とそう思っていました。


いつもと違い、絵美ちゃんは取り乱すことはなく、ただ淡々と、それこそ他人事のように話していました。そんな彼女を見て、僕はまた「もうだめだ」と思いました。彼女は遂に、自分のことですら自分の問題として受け止められなくなっていたのです。


 今から考えれば、僕の両親と接したことも絵美ちゃんにとって何かの引き金になったのでしょう。たとえ貧しくても両親に愛されている僕を見て、疎外感を強く感じたのかもしれません。絵美ちゃんはぽつんと、これまでそれだけは一度も言わなかった「死にたい」という一言を漏らしました。


「もう、ここで終わらせたい」


 僕は黙りました。絵美ちゃんも黙りました。


 ボートはいつの間にか湖の真ん中まで来ていました。


唐突に、絵美ちゃんが「この湖、泳げる?」と明るい声を出しました。僕が返事をするまもなく、彼女は「よっ」と足を上げ、ワンピースを着たまま、湖にゆっくり入っていきました。面食らっている僕の顔に、水をかけて絵美ちゃんが笑います。


「冷たい。気持ちいい。君も入りなよ」


 僕が迷っている間に、彼女はボートの周りを器用に泳ぎ始めました。


「あ、魚だ」


 そう言って絵美ちゃんはすっと水中に潜って行きました。


 それっきり、彼女が浮いてくる事はありませんでした。


 


捜索は丸一日かかりました。朝になってようやく発見され、岸に寝かされた絵美ちゃんは、まるで眠っているようでした。僕はその顔を見て、その穏やかな寝顔を見て、ああ、彼女は旅立つことが出来たんだなと言い様もない感動を感じました。


彼女は大好きな渡り鳥と同じように、苦しみのない新しい地へ、羽ばたいていったのだと。




宙を見つめながらそこまで語った白鳥幸男は、黙って聞いていた私たち3人に笑いかけた。


「その時の体験がきっかけです。『Lake』の活動を始めたのは。もちろん、それまでにいろんなことがありましたよ。」


 白鳥がまた虚空を見つめる。


「キャンプ場はただでさえ苦しかったのに、事故現場になったことで、一層客足が遠のきました。両親は、平日は日雇いの様な仕事をして、土日は遠方からのわずかなお客さんを目当てにキャンプ場を細々と続けていました。僕は家を飛び出す形で、奨学金で遠方の大学に行き、そこそこの企業に入り、モーターボートをぽんと買える位のそこそこの収入を得て、実家に戻りました。その直後、両親が練炭で旅立ちました。二人の顔も生前見たことがないほど穏やかな表情でした」


 そう語る白鳥もまた、穏やかな表情をしていた。


「絵美ちゃんに次いで、両親も送り出した僕は、これほど素晴らしいことがあるのだろうかと思いました。この世界は苦痛に満ちています。大小種類に違いはあれど、皆、苦しみを抱えて生きています。しかし、何をそんなに耐え忍んでいるのでしょうか。皆、この地で耐え続けなければいけないと思い込んでいる。旅立てばいいのです。苦しみから離れればいいのです」


 そこで白鳥はぎゅっと両の拳を組んだ。


「しかし、僕の両親のように、最後まで生にしがみつこうとしてしまう人は、います。絵美ちゃんのように、自分一人では旅立てない人もいます。」


 白鳥はまた私たちに視線を戻して言い切った。


「だから、そんなあなた方のような人たちのために『Lake』の活動を始めました。僕は自分の生が続く限り、一人でも多くの苦しむ人々を旅立たせてあげたいのです」


 白鳥の話が終わり、ロッジに静寂が訪れた。石田は相変わらずだが、紗奈子は感極まったようで、目尻を拭っていた。


そんな中、私は自分が、なぜ白鳥を警戒できなかったのかの理由が腑に落ちた。


過去に殺人鬼に追い回された経験のある私が、なぜ、彼に対しては警戒を緩めてしまったのか。徹に似ていたという理由だけではない。


 この男には悪意がないのだ。


 本当に、人の自殺を促すことが、相手のためになると本気で信じちゃっているのだ。だから、表情に邪悪な企みも、悪事を働く罪悪感も、私は感じることが出来なかったのだ。


 狂ってるんだこいつは。


 


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